心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

主の御声に聞き従う者に

2023年03月09日 | ◆聖書の言葉
サムエルはエリの息子たちの神を恐れぬ悪行に対する主の裁きを、その父親であるエリに語らなければならないという重責を全うしました。それは主の声に聞き従う者として、私たちが見習うべき信仰者の姿です。でも当時はそれが本当に主からの声なのか、そうではないのかは信仰によってでしか見分ける事ができませんでした。そう考えると今が本当に恵みの時代であることがわかります。なぜなら現代の私たちには、印刷された聖書が、主の御言葉が、ひとりひとりに与えられているからです。私たちの信仰の基準は聖書です。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(コリント人への手紙Ⅰ-1章18節)。それはイエス様を信じない者たちにとっては、愚かな言葉に聞こえるかもしれません。しかし主を信じる者たちにとっては、それは救いを受ける神の力なのです。あなたに直接、主が語られたと思えた時、天使を通して語られたと思えた時、聖霊の示しを通して語られたと思えた時、ああ今、私は神様の御声を聞いたかも、と思った時には、どうか迷わずにすぐに聖書にその答えを求めてください。主は必ず主の御声に聞き従う者に、真実を、真理を、祝福を、そして恵みと平安を与えてくださるお方なのですから。
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歴史の主権者を信じ生きる

2023年02月10日 | ◆聖書の言葉
『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』(マタイの福音書24章35節)。偽りや異端が、国家が、闇の勢力が、どんなに強くとも、真理はそれらよりも長く生き続けます。真理を隠し、迫害し、侮辱し、撲滅しようとしても、真理は決して、滅びません。敵が、誰であれ、何であれ、いつもでも神が勝利されてきたことは、聖書がそして歴史がそれを証明しているのです。神は混迷から秩序を、不信仰から信仰を、絶望から希望を、死からいのちを引き出されるお方なのです。『いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者はイエスのために絶えず死に渡されていますが、それはイエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。』(コリント人への手紙Ⅱ-4章10-11節)。あなたは自分という壊れやすい土の器の内に主がおられることを信じていますか。あなたは何によっても壊せない宝イエス様のいのちと光を持っていますか。
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主と歩む365歩のマーチ

2023年01月01日 | ◆聖書の言葉
礼拝は信仰者にとっての中心的ことがらです。礼拝は信仰者が365日を神に感謝し歩む為の土台です。ですから礼拝の失敗は信仰の失敗へと繋がります。その土台となる礼拝はあなたが「何を持って」捧げるかがとても重要なのです。神は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるでしょうか。たくさんのささげ物を持ってゆけば喜ぶのでしょうか。そうではありません、たくさんの金品を持ってゆけば喜ぶのは、偽預言者、偽救世主、偽宗教指導者だけです。神があなたに礼拝で捧げてほしいものはただ他一つ、それは「あなたの心」です。そうです主はあなたの心からの礼拝を待っておられるのです。『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』(ミカ書6章8節) 公義とは神の思う正義を行うことであり、誠実とは人に対してはもちろんですが神に対して誠実を尽くすという意味があります。神は私たち信仰者にまことの礼拝者として生きそして神に対して誠実に生きへりくだってあなたの神とともに歩むことを望んでおられるのです。水前寺清子さんは“365歩のマーチ”で「♪ 休まないで歩け~ 」と歌います。でも人生には時に、躓き、倒れ、一度、休まなければ、もう一度、前に向かって歩きだすことが出来ない時だってあります。今日2023年1月1日、今日からはじまるあなたの365日では、三歩進んで二歩下がるそんなもどかしい思いの時もあるかもしれません。でも聖書は語ります。大切なのは、あなたがどれだけ歩けたか、ではなく、あなたが誰と歩いてきたか、であると。
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ビビる時だってある

2022年12月08日 | ◆聖書の言葉
途轍もなく大きな仕事を任されたらそりゃあ誰だってちょっとはビビります。でも偉大な指導者モーセの跡を継ぐ事になったヨシュアがビビってたであろう時、神は『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。』(ヨシュア記1章9節)と励まされました。「なんかこれなら私にも出来そう」っていうスケールの仕事なら、もしかしたらそれは逆に神様からのものではないのかも。モーセは辞退を固辞し、ヨナは全力で逃げだすほど、神様からの任務は重いものでした。でも主があなたとともにいることを信じて、あなたにはどんな時も強く雄々しくあってほしい。
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キリスト教葬儀

2022年11月08日 | ◆雑
キリスト教の葬儀、それはその人が信仰者としてどのように生きて来られたかの証しの場でもあります。それは召されたおひとりおひとりに、クリスチャンとしての人生があり、神を愛し人を愛して生きたその方の人生の証し、天国での希望、そして神の義と平和と喜びあります。それは再び神と出会う義と平和と喜びであり、それは今を生きる私たちにとっても慰めであり励ましなのです。クリスチャンにとっての葬儀は人生最期の証しの場です。そこであなたの人生が人々の前で、神への栄光として語られる時、それは夏の線香花火の最後の輝きのように、そこに参列してくだった方々に向かって、大きな大きな希望を与えるものとなるのです。そうですそれは、あなたがこの地で信仰者としてどう生きたかが語られる、あなたから神への『地上の最期の捧げもの』なのです。
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