心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

愛を取り戻す為に

2023年07月04日 | ◆聖書の言葉
「なんで私だけが」「なんで俺だけが」という思いが引き金になって、自分の命を大切にしなかったり、誰かの命を大切にできなかったりする事件が、後をたちません。「自分の事なんか誰も分かってくれない、だから自分も他人も、もうどうなってもいい」と、自暴自棄なって犯罪を犯し逮捕され、挙句は「無敵な人」なんてゆう悲しいレッテルをマスコミに「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」に付けられて。でもひとりひとりの人生は、そんな簡単なものではないはずです。本当はあなたはひとりぼっちなんかじゃない。でも世の中の人はみんな、その事を知りません。ほんとうは「私のその苦しみを、私のその悲しみを知るために、私以上の苦しみを自ら進んでお受けになった方がいたんだ」と自暴自棄になってしまった人が知っていたら、そこにはもっと違う生き方があったはずです。『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(ヘブル人への手紙12章2節)。イエス様は一度あなたが離してしまったその『愛を取り戻す為に』苦しみの道を歩み、そして十字架にかかられたのです。
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種蒔く神の御思い

2023年06月05日 | ◆聖書の言葉
『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコの福音書4章12節)。「種を蒔く人のたとえ」は、しばしば種を蒔かれる側の人の心の状態の話しとして語られます。しかし実はこの「種まきのたとえ」の視点は、蒔かれる側の人の心「四つの地」の方ではないのです。ではこの「たとえ話し」の視点、中心はどこにあるのでしょう。実はこのたとえ話しの中心は「四つの地」でもなく「種」でもないのです。実はこのたとえ話しの中心は「種蒔く人」なのです。収穫の効率を問うなら、道ばたや、岩地、いばらの中に、種を蒔く人なんていないでしょう。あなたが実のならない土地に種を蒔いている人を見つけたとしたら、きっとあなたはその人に「ちょっと種がもったいないから、そんなところに蒔くのは、やめなさい」と注意するのではないでしょうか。ところがこの「たとえ」の人は、良い地、だけではなく問題のあるその他三つ土地にも、多くの種を蒔いているのです。そうです、この種蒔く人は、悪い土地にも期待をしているのです。もう、お気づきですね、この「たとえ」話しの中心は、四つの地でも種でもなく、種蒔く人つまり、種を撒かれるお方、神が中心となる「たとえ」なのです。蒔いておられるお方、神はそのあわれみと愛のゆえに、そうですすべての人にまったく同じよい種を蒔かれ、そしてすべての土地の収穫を期待されたのです。やがて実を結ぶのはあなたです。しかし豊かに実ったその実を収穫するのは、あなたではありません。その実を収穫するのは、種を蒔いた主人、つまり神であるということです。
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後になって考えてみると

2023年05月11日 | ◆聖書の言葉
友人とは自分を助けてくれる人、敵とは自分の邪魔をする人、とその時はそう思うかもしれません。でも「後になって考えてみると」その友人の甘い言葉、甘言(かんげん)で道を踏み外し、その敵の邪魔を乗り越えたからこそ立てる今の場所があったりもします。苦難にあえば心は折れそうになり、時には孤立無援でその状況を恨むかもしれません。しかしそれが主の訓戒であり、その苦難を乗り越える力と希望もまた、あの時、主が与えてくださったのだと「後になって考えてみると」わかる時もあります。愛する人を失った心の痛みは、もう世界が滅びてしまってもよいと思うほどであったとしても、神がその悲しみの心に触れてくださり、なぐさめてくださっていた事を知る時、あの時があったからこそ今の自分の信仰があると「後になって考えてみると」そう思う時だってあるのです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8章28節)。喜びの出来事はもちろんですが、その時は自分にとっては好ましく思えなかった悲しみの出来事すら、イエス様の心を深く深く知るための出来事だったと、「後になって考えてみると」気づくこともあるのです。
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見よ。あなたの神を。

2023年04月05日 | ◆聖書の言葉
今、あなたの現実がいかに厳しくとも、たとえ八方ふさがりの行き詰まりの状態であったとしても、イエス様を信ずる者にはもうすでに、天においての祝福が注がれています。かつては罪の中に生きる者であったとしても、イエス様の十字架と復活を信ずる者は、罪、贖われ、赦され、そして天において祝福が注がれたているという、もうひとつの現実がそこに存在するのです。そのもうひとつの現実を見つめて生きる、それがクリスチャンの生き方であり、そこには見える現実だけに明け暮れる人々には、見つけることも、見ることもできない、希望と、喜びと、恵みと、平安が、あるのです。この世のものに目を奪われ、人の声に耳を奪われやすい私たち。しかし、見るべきものはこの世ではなくイエス様であり、聞くべきものは人の声ではなくイエス様のみ言葉です。イエス様から目を離し、状況だけに目を向ければ、私たちの信仰も沈み込んでしまうのも、こんな時代ですからしかたないかもしれません。しかし、そんな弱いあなたのことを、すべて知っておられる主は、そんな時代だからこそ、こんな時だからこそ、復活されよみがられたイエス様への思いを、もう一度、あなたの心に、あなたの霊に、あなたの魂に、熱く燃え立たせたいと願っておられるのです。それはイエス様を見上げる信仰です。停滞していた信仰が「息を吹き返し」「生き返り」「よみがえり」、そして、今も生きておられる主と共に、再び今を、生き生きと生きる、信仰です。そうです、主は今あなたにこう言われておられるのです。もう一度、「見よ。あなたがたの神を。」(イザヤ書40章9節)と。
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主の御声に聞き従う者に

2023年03月09日 | ◆聖書の言葉
サムエルはエリの息子たちの神を恐れぬ悪行に対する主の裁きを、その父親であるエリに語らなければならないという重責を全うしました。それは主の声に聞き従う者として、私たちが見習うべき信仰者の姿です。でも当時はそれが本当に主からの声なのか、そうではないのかは信仰によってでしか見分ける事ができませんでした。そう考えると今が本当に恵みの時代であることがわかります。なぜなら現代の私たちには、印刷された聖書が、主の御言葉が、ひとりひとりに与えられているからです。私たちの信仰の基準は聖書です。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(コリント人への手紙Ⅰ-1章18節)。それはイエス様を信じない者たちにとっては、愚かな言葉に聞こえるかもしれません。しかし主を信じる者たちにとっては、それは救いを受ける神の力なのです。あなたに直接、主が語られたと思えた時、天使を通して語られたと思えた時、聖霊の示しを通して語られたと思えた時、ああ今、私は神様の御声を聞いたかも、と思った時には、どうか迷わずにすぐに聖書にその答えを求めてください。主は必ず主の御声に聞き従う者に、真実を、真理を、祝福を、そして恵みと平安を与えてくださるお方なのですから。
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歴史の主権者を信じ生きる

2023年02月10日 | ◆聖書の言葉
『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』(マタイの福音書24章35節)。偽りや異端が、国家が、闇の勢力が、どんなに強くとも、真理はそれらよりも長く生き続けます。真理を隠し、迫害し、侮辱し、撲滅しようとしても、真理は決して、滅びません。敵が、誰であれ、何であれ、いつもでも神が勝利されてきたことは、聖書がそして歴史がそれを証明しているのです。神は混迷から秩序を、不信仰から信仰を、絶望から希望を、死からいのちを引き出されるお方なのです。『いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者はイエスのために絶えず死に渡されていますが、それはイエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。』(コリント人への手紙Ⅱ-4章10-11節)。あなたは自分という壊れやすい土の器の内に主がおられることを信じていますか。あなたは何によっても壊せない宝イエス様のいのちと光を持っていますか。
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主と歩む365歩のマーチ

2023年01月01日 | ◆聖書の言葉
礼拝は信仰者にとっての中心的ことがらです。礼拝は信仰者が365日を神に感謝し歩む為の土台です。ですから礼拝の失敗は信仰の失敗へと繋がります。その土台となる礼拝はあなたが「何を持って」捧げるかがとても重要なのです。神は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるでしょうか。たくさんのささげ物を持ってゆけば喜ぶのでしょうか。そうではありません、たくさんの金品を持ってゆけば喜ぶのは、偽預言者、偽救世主、偽宗教指導者だけです。神があなたに礼拝で捧げてほしいものはただ他一つ、それは「あなたの心」です。そうです主はあなたの心からの礼拝を待っておられるのです。『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』(ミカ書6章8節) 公義とは神の思う正義を行うことであり、誠実とは人に対してはもちろんですが神に対して誠実を尽くすという意味があります。神は私たち信仰者にまことの礼拝者として生きそして神に対して誠実に生きへりくだってあなたの神とともに歩むことを望んでおられるのです。水前寺清子さんは“365歩のマーチ”で「♪ 休まないで歩け~ 」と歌います。でも人生には時に、躓き、倒れ、一度、休まなければ、もう一度、前に向かって歩きだすことが出来ない時だってあります。今日2023年1月1日、今日からはじまるあなたの365日では、三歩進んで二歩下がるそんなもどかしい思いの時もあるかもしれません。でも聖書は語ります。大切なのは、あなたがどれだけ歩けたか、ではなく、あなたが誰と歩いてきたか、であると。
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ビビる時だってある

2022年12月08日 | ◆聖書の言葉
途轍もなく大きな仕事を任されたらそりゃあ誰だってちょっとはビビります。でも偉大な指導者モーセの跡を継ぐ事になったヨシュアがビビってたであろう時、神は『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。』(ヨシュア記1章9節)と励まされました。「なんかこれなら私にも出来そう」っていうスケールの仕事なら、もしかしたらそれは逆に神様からのものではないのかも。モーセは辞退を固辞し、ヨナは全力で逃げだすほど、神様からの任務は重いものでした。でも主があなたとともにいることを信じて、あなたにはどんな時も強く雄々しくあってほしい。
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十字架に勝る愛はこの世にはない

2022年09月11日 | ◆聖書の言葉
イエス様の十字架は人間の罪の贖いの十字架、苦難と死、無実の死、犠牲の死、無償の愛のしるしなどなど、いろいろな言葉で語られます。しかし実際の十字架刑は耐えがたき痛みとみじめな恥辱の極致、恥じと屈辱にまみれたそれは決して美しいものなどではなくただただ残酷な血なまぐさい、直視できないほどのむごたらしい刑罰であったのです。でもそれは実はあなたの為の十字架だったのです。その十字架を信じ救われた信仰者にとっては救われる前のすべてのものは、恥ずかしい過去でしかありません。イエス様はそのあなたのはずかしい過去のすべてを持って十字架の上でその恥辱を受け入れ、贖いを成し遂げてくださったのです。イエス様はあなたを救うためにその十字架を自らお選びになりました。それは全人類に与えられた愛のうち最も優れたものであり、このイエス様の十字架に勝る愛は、この地上には、存在、しないのです。『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』(コリント人への手紙第Ⅰ-13章13節)
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あなたのその小さき手をも用いられる神

2022年08月08日 | ◆聖書の言葉
イスラエルの民が紅海を渡る時、神はモーセに「あなたの手にあるそれは何か」(出エジ4:2)と尋ねられ、モーセは「杖です」とだけ答えました。ところがそのそこらに落ちていそうな何でもないその杖が、海を真っ二つに分ける奇跡の道具として使われました。五つのパンと二匹の魚はひと家族の一食か二食分の食事にしかなりません。しかしその小さき献身が主の御手によって大きな奇跡を作り出したのです。もしかしたらあなたはそんなことは不可能だと思って主の促しに従わなかったことはなかったでしょうか。私はあります。しかし神は私には、そしてあなたにはその力がないことなど先刻承知の上で私たちにそれをお願いされたのです。お分かりいただけますでしょうか。あなたにはその力はありません。でも無いからこそ、神はあなたにそれを依頼されたのです。あなたにその力があるなら神の依頼など待たずに、さっさとあなたはそれを行なわなければなりません。幼い頃、誰でも一度は親に「出来るのならさっさとやりなさい」と言われことがあるのではないでしょうか。でも今あなたにはそれをする力は無かった。でもだからあなたに神からの依頼がきたのです。できないあなただから神はあなたに頼まれたのです。私たちには力がなくても神の御手には力があります。自分の力の無さを認めることが奇跡への序曲となります。そうです羊飼いなる主は『あなたのその小さき手をも用いられる神』なのです。
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失敗は失敗じゃない

2022年06月07日 | ◆聖書の言葉
失敗は誰にでもあります。ですから悔い改めは大切です。しかしイエス様はあなたが過去に縛られて生き続けることは喜ばれません。イエス様は私たちの現実から遠く離れた所におられる方ではなく人間社会に深く関与され関心を持っておられます。そのイエス様の関心はあなたの過去ではなく今の生き方とその先にある未来です。私たちの内面がイエス様の栄光の光で照らされる時、私たちの心にある闇や絶望は居場所を失います。クリスチャンであったとしても失敗することも倒れることもあります。でも私たちには、そんな挫折からもう一度立たせてくださる、イエス様がおられるのです。ですからイエス様を信ずる者にとって失敗は経験にすぎません。それらを経験しなければ、できない働きが必ずある、それが聖書の教えです。そしてそう思えるのも、そして過去を振り切り未来へと一歩踏み出す力も、復活のイエス様への信仰が与えてくれるものなのです。『あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。』(ペテロの手紙第Ⅰ- 1章21節)
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あなたがまことの神を知るなら

2022年05月09日 | ◆聖書の言葉
「いつくしみ」と「恵み」と「真実」どころか、世の中で神の民として生きる私たちは自分の生活を恨みと不平と欺瞞で満たすこともできます。しかしもっとシンプルに、素直に、感謝と、賛美と、祈りで、満たすこともできるのです。恨みと不平と欺瞞で満たされた世界は生き地獄です。その人がどんなに自分を繕ってもその人がどんなに自分も、人も、家庭も、国家すらも欺いても、その人の内面は、毎日毎日が、不安と、不平と、猜疑心の中に、生きることになるのです。それでも世の中が惨憺たる状況にあっても、なぜ私たちは神に感謝しなくてはならないのだろうと思う時だってあります。でもそれは、そんな世にあっても神はいつくしみ深い方であり、真実な方である事になんの変りもないのです。そしてあなたはその方に愛されているのです。自分が神に愛されていることを知らない人生は、不幸としかいいようがありません。なぜならそうした人はいつも世の中のものに流され、世の問題に揺り動かされてしまうからです。とこしえに変わることなく、今も生きておられるまことの神だけが賛美を受けるにふさわしく、そしてあなたの祈りに答えてくださるお方なのです。あなたがまことの神を知るなら、神に感謝せずにはいられなくなるでしょう、それは至高の喜びです。あなたがまことの神を知るなら、あなたはきっと、感謝の現れとして、あなたが今も握りしめている、神の喜ばれないものを、手放すことでしょう。あなたがまことの神を知るなら、あなたが抱える問題を主にゆだね、賛美持って主の大庭に入り、もっともっと多くの神の恵みを、手に入れることでしょう。あなたが永遠なる神のいつくしみ深さとその恵みを知るなら、あなたの唇からは賛美が溢れ、あなたのすべての時間と心が、神をほめたたえることで、いっぱいに、満たされることでしょう。あなたがまことの神を知るなら、真実なる神が恵みによってあなたを満たし、あなたの日々の生活の中に神への喜びの賛美を授けてくださることでしょう。
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あなたが体験する最も大きな奇跡

2022年04月06日 | ◆聖書の言葉
一瞬の不思議な体験よりも、継続的なみことばの学びのほうが大切です。みことばを聞いても人生が変わらない人は、たとえ死者がよみがえったとしてもイエス様のみことばを信じません。エマオに向かう二人の弟子にイエス様はご自身の復活を信じさせるために、びっくり仰天するような奇跡は行なわなかったのです。その代わりにイエス様がしてくださったこと、それは、二人と共に歩き旧約聖書から丁寧にゆっくりと時間をかけてご自身の十字架と復活の預言を解き明かしてくださったのです。それを聞いた二人の弟子の心は熱くなりました。そうです彼らは最初の信仰を取り戻ししかも更に深い聖書が示す救い主メシアについての奥義へと進むことができたのです。それはイエス様が食卓についてパンを取って祝福された瞬間に起こりました。二人はそこでようやく、それを解からせてくださった方がイエス様だと気がついたのです。そんな彼ら二人はエルサレムから離れようとしていた足を180度向きを変えて、イエス様の復活を伝えるためにエルサレムへと戻ってゆきます。それはイエス様の十字架の中に、失望と悲しみしか見いだせなかった二人が、イエス様のみことばによって、信仰の情熱を回復させ更にイエス様のその十字架の先にある、栄光の復活を信じた瞬間でした。私たちは知らなくてはなりません、そうです、十字架と復活そのことこそが、みことばをかかげる者が体験する最も大きな奇跡だと、いうことを。
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悪霊追い出し

2022年03月08日 | ◆聖書の言葉
誰かに悪霊追い出しをしてもらってもそれは一時的解放でそれを繰り返していても堂々巡りです。霊的戦いには御言葉の剣が必要なのです。その御言葉の剣を手に入れる方法はただひとつ、それは自分で聖書を読むこと。『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 』(エペソ人への手紙6章17節)さあ、戦いに勝つ為に、本当の勝利を手に入れる為に、御霊がくださる剣を手に入れよう。
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イエス様が足を洗ってくださる

2022年02月09日 | ◆聖書の言葉
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。』(ヨハネの福音書13章4-5節) 足を洗うという仕事は当時、奴隷がすることでした、しかし主は、イエス様は、喜んで私たちのために、そのことを、してくださったのです。まことの愛は、絶えず与え続けるものです。しかし愛を、ずっと与え続けることは、人間にはできません。しかし主は、それがおできになります。イエス様は、愛する弟子たちと、最後の食事をされながら、彼らが永遠に忘れることのできない、足を洗うという行為を通して、ここにそれを示してくださったのです。
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