『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコの福音書4章12節)。「種を蒔く人のたとえ」は、しばしば種を蒔かれる側の人の心の状態の話しとして語られます。しかし実はこの「種まきのたとえ」の視点は、蒔かれる側の人の心「四つの地」の方ではないのです。ではこの「たとえ話し」の視点、中心はどこにあるのでしょう。実はこのたとえ話しの中心は「四つの地」でもなく「種」でもないのです。実はこのたとえ話しの中心は「種蒔く人」なのです。収穫の効率を問うなら、道ばたや、岩地、いばらの中に、種を蒔く人なんていないでしょう。あなたが実のならない土地に種を蒔いている人を見つけたとしたら、きっとあなたはその人に「ちょっと種がもったいないから、そんなところに蒔くのは、やめなさい」と注意するのではないでしょうか。ところがこの「たとえ」の人は、良い地、だけではなく問題のあるその他三つ土地にも、多くの種を蒔いているのです。そうです、この種蒔く人は、悪い土地にも期待をしているのです。もう、お気づきですね、この「たとえ」話しの中心は、四つの地でも種でもなく、種蒔く人つまり、種を撒かれるお方、神が中心となる「たとえ」なのです。蒔いておられるお方、神はそのあわれみと愛のゆえに、そうですすべての人にまったく同じよい種を蒔かれ、そしてすべての土地の収穫を期待されたのです。やがて実を結ぶのはあなたです。しかし豊かに実ったその実を収穫するのは、あなたではありません。その実を収穫するのは、種を蒔いた主人、つまり神であるということです。
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