何者かに救われたい私という原因が、苦しみ悩む者を救ってあげたい私という結果を生じさせるためには、信仰(バクティ)、ダルマという行為(カルマ)が必要。
何者かに助けられたい私という原因が、苦しみ悩む者を助けてあげたい私という結果を生じさせるためには、信仰(バクティ)、ダルマという行為(カルマ)が必要。
バクティとはまさに神への執着であると言われる。
私達は感覚の対象に執着することを諦めて、神に執着することを学ばねばならない。
執着とは心が惹き付けられ、何度でも執着の対象に心が引き戻されることであるから。
どうしてもそう感じずには居られず、どうしてもそう思わずには居られず、どうしてもそうせずには居られないのが執着であるから。
だからどうしても、神を感じずには居られないなら、神を思わずには居られないなら、神を愛せずには居られないなら、それが神への執着となり、神への信仰となると言われる。