オオタカは、 野鳥や自然の話題で “象徴”的に扱われがちな 有名人キャラの1つ。
かつては、 レッドデータブックに挙げられ 希少野生動植物種の保護対象になっていることが マスメディアでの露出度も多く...
『オオタカ』と発しさえすれば環境意識?かの 本質が薄ぅいアピールに インスタントな“象徴”として消費される風潮も x x x
それも、 後の状況変化を反映して 保護の指定が外されてから もう結構経っている現代では、 いわば「普通種」。
・・・でも、 未だに、 既にこの世のものではない知識の亡霊が徘徊し続けているような x x x
“象徴”的に扱われがちで 有名人キャラの種類には、 「~~じゃない方」より 遥かに多くが ありがたがって群がる。
そして、 『見た』『写した』だけ...から『知っている』だけレベルでも 超ぉ積極的に話題に挙げたがられがち。
そんな“象徴的に扱われることが多い鳥”“ありがたがられる鳥”は 他にも色々あるながら・・・
それらの中で、 現代のオオタカは、 街的な地域の身近でも普通にいて、 接される総数が特に多い。
それが、 カワセミとも共通する、 話題や写真に 特に特に...頻出する事情。
すると・・・、
単に 主観の「嗜好」で象徴的に扱われがちなだけを、 ご勝手に『特別な意味』に作り換えた お幸せなご教義が喜ばれて・・・
ただ写しただけで 皆が『特別に優れたこと』に『成功』していると祀り上げ合う お幸せ教徒さんの団体活動も 各地で無数に盛況。
無限ほどの多数が自称する『特別に優れたこと』と同等に『成功』すれば、 自身も『特別に優れている』証明が 無限ほど多数??
教団の外から見れば・・・
無限ほどの多数と同等の横並びこそが、 誰にでも簡単にできるのが当然にすぎない 客観的証明そのもの...なんですけど x x x
この時は、 林がブラインドで オオタカがいること自体が把握できていなかったところから 不意に飛び出して...
でも、 すぐに 引き返すに近い方向に戻って行った x x x
旋回は 遠ざかる方で、 すでに 視線が逃げ気味 x x x
突発で“見える位置”に現れてから 3秒位?しかない一瞬に即応できないと、 その後になれば もう飛び去って行く後ろ姿だけ。
鳥の飛翔写真狙いでは、 まだ見えていない鳥にも瞬時に反応できる体勢での集中を何時間も続けるのは 普通にある。
もちろん、 願望的に期待するのは、 こういう「ただ“写っている”だけ」の画ではない...のだが...
それ以上の「!」な写真になる可能性があり得るチャンス自体が、 そうそう逢えるものではなく・・・
それでも 『枯れ木も山の賑わい』用にはなる?のが、 世の嗜好での都合の良さ...でもあり、 “利かされ”感の退屈でもあり。
わりあい 光が良く入っている感じもある、が・・・
オオタカは 光が入り易い印象が強くて、 飛翔でも 条件のアラが目立たずに“それっぽく”写せるのは 特に簡単な種類。
これが もし、 他の種類が 同じ位置に 同じ向きと形でいるシーンだったら、 光が悪い印象の写り方になっていた...かも。
鷹の類の飛翔は、 普段の全般では、 一連の状況が長~ぁ~ぁ~い時間 見え続けていることも 少なからずある。
まぁ・・・、
お幸せ教団さんだと、 10とか15も集って 狙いはオオタカだけの一点でも、 自力で見つけられるのは せいぜい 5~10回に1度。
でも、 連続して見え続けている時間は、 「秒」ではなく 「分」の単位...、 時には 5分以上とかも。
それが、 どこでも定型、 教団外の周りから教えてもらえてから 集いの中で伝え合って... から、 教えてもらった相手にまで
「教えてくれたところにオオタカが出てるよ! アンタが鳥なんか見つけられないクズだから、 私が先に見つけて教えてあげたよ!」
の 『周囲の助力の又売り先生』兼『支離滅裂な恩の押し売り先生』を崇拝していられる『残念さん』でも 飛翔も写せる事情。
世の一般では「能ある鷹は...」とも使われるところに・・・
その鷹ネタで 『そもそも無い爪をひけらかしている先生』、 更には、 その奇行を崇めていられる教団とは、 可笑しな縁 x x x
こういうところで、 金銭に依る部分の“機材を揃えた”だけで 知識や技能が無い新参さんが、
「私は、 あの!、 オオタカを狙っています!」
はたまた、
「この私ほどにもなれば、 究極の才能がないと挑戦すらもできない、 あの!、 オオタカの撮影にまでも挑戦しています!」
的な優越意識を叫び合う教団に入信するのは、 即で 門外漢向けには“それらしく見せられる写真”を持てるのが好都合そう...
かもしれないが・・・
誰でも 最初から すぐにできて当然なだけの結果に、 無数の簡単すぎる矛盾にも気付けずに信仰されるご教義を“合成”して・・・
実態は 「まだ、 せいぜい オオタカぐらいしか写せない」のを、
「この私は、 究極の才能がある証明の、 全世界で一番難しい、 あの!、 オオタカの撮影にまでも『成功』しましたぁ!」
的な高揚に舞い上がって 優越意識に陶酔しがち。
これは、 カワセミをはじめ、 他の“ありがたがられる種類”をご神体として群れ集われる全てでも共通。
・・・だからといって、 それも、 自身の中では喜んでいられるだけ、なら、 それぞれのご自由なこと...
なのだが・・・
周囲は いちいち写す必要も無いことには ただ静かにスルーしている状況を、
「他のクズ共は『成功』できない証拠に、 皆、 毎回『挑戦しようとカメラを構えることすら諦めるしかない』と泣き叫んでいる」
の、 そもそも存在し得なくて 当然に実在もしない情景を語って 互いに証明し合った お幸せな優越意識を駆って、
「難しすぎて諦めるしかないと泣き叫んでいるアンタごときクズでも『成功』できるように、 この私が指導してあげますよ!」
と ご熱心な使命感で纏わり付き回ってあげてしまう 『ますます残念さん』直行便片道切符...が定番コース。
でも、
そんな、 多重の矛盾を連ねて そもそも成立しようがない『残念』なご自慢を称え合っていられる お幸せ教団支部には事欠かない。
鳥写真を撮りたいのか?
“先天的な知的能力の特性が共通する同類さん”同士だけでの教団の中だけで 優秀ぶりを証明し合っていられさえすれば お幸せ?
というか...、 多々が 教団の中だけに留まっていてはくれない“慈善活動ごっこ”にも進出してしまうのだが x x x
それと これは、 『鳥を写す』式の 極度に断片すぎる短文でなら同じにも表せても、 そもそもの発端の意向から 全く違う。
当然、 その行動の一部で 同じ状況に交錯していても、 そこに見ているものは、 目的意識も 価値基準も 根本から別の世界。
そういった『残念』な言動は、 自身は“その世界”の外にいて「見るだけ」だからといって 無関係ではなく・・・
ネット世界でも リアル世界でも、 称される全てが“自称”。
どれだけ自信に満ちていても、 どれだけ盛大で華々しい文言でも、 世の実態における客観性には 保証は無い。
『残念さん』にとっては 超~ぉ~盛大な文言が躍る『自慢作』...
そのご自慢が、 自身の私見として、では、 悪意も偽りもない 率直な語りでも・・・
別の人は、 『それ』には写そうとする価値も無く、 異次元に上回るコマすら 「不要」で 軽々と消し去る、とか。
それなら、 その“別の人”が、 自己評価では「平凡」「惜しくも残念な感じ」とか低調風味でも 現に“消さずに残す”レベルは?
・・・でも、 実態など考えようともせず、 表面にある 目を引く文言だけを 機械的直訳で真に受けて、 知識として覚えられがち。
あるいは、 ヤラセや合成などでの創作に 虚構の説明を騙る『捏造』(フェイク)も、 プロ・アマ問わず 大昔から続く古典芸。
こちらは、 名声欲に営利にと私欲の為に 偽りを流布して世の知識的理解なり情報なりを歪めてまで邁進する“反社会的”思考。
色々な分野で、 実態とは無関係すぎるのに 広く浸透している『迷信』を 門外漢が意気揚々と語ってきて閉口する定型があるはず。
「百聞は一見に如かず」 「聞くと見るとは大違い」・・・
実体験が無くて騙られるお噺では、 僅かでも実体験をすれば すぐに必ず知る基礎から “門外漢式の常識”の『迷信』が闊歩する。
その自身は上手く正しく演じられている確信の自己採点は、 内容が成立していなくても気付けない自体に気付けないだけ。
それで、 自称・自然写真家の類さんの、 世での扱いは“権威”的な“大御所”級から大多数の『残念』な実態が丸バレ...とかも。
初心の最初から全てが『捏造』だけ、 実在の自然には 未だに目を向けたことすら無いまま...でないのなら 何なのだろう??
『残念』なご自慢も、 “反社会的”な作為の『捏造』(フェイク)でも、 『鵜呑み』 『オウム返し』で 知ったかぶりの連鎖...
・・・ここにも 何だか“鳥”絡み x x x
そして、 『鵜呑み』 『オウム返し』の尺もなく...
気に留まった単語1つ2つだけを拾い出して、 自身の『残念』な世界観の語りで 意味を解らずに使うだけ、の幼児式作文も。
ここでも、 コンテストで選考する自称・自然写真家の類さんが 自然にも写真にも何故か無知な実情が丸バレ...は、 昔も今も常態。
「生態」を『静体』の【せいたい】と混同している『残念な知識』での選考と 支離滅裂な講評すら、 優れた経歴に化ける始末。
それで表れている 他者の“見える反応”も また、 『文言の機械的直訳』も 『数的な多さ』も、 信憑性とは無関係。
むしろ・・・
『残念さん』ほど、 何にでも自信に満ち満ちて、 盛大で華々しい文言で優越意識を叫んでいられるのが、 世には ありふれた定型。
そんな『残念さん』が叫ぶ優越意識こそ、 同類さんには、 自身の優秀ぶりを証明し合える麗しい見識として 篤く信仰される。
だから、 数的な概況を簡略に単純化した図では 三角形の階層ピラミッドで描かれる お馴染みの分布パターンでの必然で...
『残念』を多重に連ねて 物事の道理として成立しようがない言説ほど、 より多く叫び合われているのが、 世には ありふれた定型。
一方の、 『残念』だと解る人は、 強いての事情は無ければ ただスルーして、 外面的には 存在自体が殆ど表れてこないもの。
物事の道理として成立していない言動は、 その内容個々の現場に物的立証は無くても 「真に受けるのは愚か」なのは判断できる。
でも、 誰でもが関わるのではない分野に 実体験での具体的な知識があるのは、 世の全体の中では 少数だけ。
だから、 現実が語られるのを 正しい知見と解り、 実在し得ないことが語られるのを偽りと解るのは、 その少数だけに限られる。
対して・・・、
圧倒的に多くを占める門外漢には、 いつか どこかで聞いた記憶で“いかにも それらしくて好まれる単語”だけが知識の全て。
そんな特定単語を より多く発しさえすれば、 内容が支離滅裂でも、 圧倒的大多数には『優れた知見』として喜ばれていられる。
そして、 自身が真に受けている ご勝手な嗜好に合わされた『迷信』と同じでこそ 『正しく優れた知見』として受け入れられる。
それを利用した生業の“大御所さん”らに称される『実績』は、 そもそもが 内容への評価ではなく、 営利での『業績』の話。
こういうことは、 写真とか 自然とか 特定分野だけでの特殊な事情のはずも無く、 世には どこにでも ありふれた定型。
社会的に通じる肩書も、 テレビ・新聞・雑誌なども含めて 称される実績のご立派ぶりも、 言説の妥当性の保証になるはずも無い。
ありがちな、 『自身の言動の安全』を『他者を模倣する』ことに頼っても、 そもそも意味を成していない浅知恵。
ネタ元が 権威的扱いから 他の一般まで 何でも、 思考停止で 『物事の道理として成立していない言動』をトレースすれば・・・
“人”の知能で順当な 現実世界の言動をするより、 むしろ、 リアルな桁違いも遥かに超える多くとでも篤い親交が持てるのかも。
そんな数的活況に属するのが 優れた行い...好ましい振る舞い...と信じるのも それぞれ次第、でも・・・
同時に、 現実が見えている“人”からは 『残念さん』『反社構成員』として扱われるのと引き換えになっているのは 単なる当然。
そうなっても、 ネタ元の所為にはできない 自己責任 x x x
かつては、 レッドデータブックに挙げられ 希少野生動植物種の保護対象になっていることが マスメディアでの露出度も多く...
『オオタカ』と発しさえすれば環境意識?かの 本質が薄ぅいアピールに インスタントな“象徴”として消費される風潮も x x x
それも、 後の状況変化を反映して 保護の指定が外されてから もう結構経っている現代では、 いわば「普通種」。
・・・でも、 未だに、 既にこの世のものではない知識の亡霊が徘徊し続けているような x x x
“象徴”的に扱われがちで 有名人キャラの種類には、 「~~じゃない方」より 遥かに多くが ありがたがって群がる。
そして、 『見た』『写した』だけ...から『知っている』だけレベルでも 超ぉ積極的に話題に挙げたがられがち。
そんな“象徴的に扱われることが多い鳥”“ありがたがられる鳥”は 他にも色々あるながら・・・
それらの中で、 現代のオオタカは、 街的な地域の身近でも普通にいて、 接される総数が特に多い。
それが、 カワセミとも共通する、 話題や写真に 特に特に...頻出する事情。
すると・・・、
単に 主観の「嗜好」で象徴的に扱われがちなだけを、 ご勝手に『特別な意味』に作り換えた お幸せなご教義が喜ばれて・・・
ただ写しただけで 皆が『特別に優れたこと』に『成功』していると祀り上げ合う お幸せ教徒さんの団体活動も 各地で無数に盛況。
無限ほどの多数が自称する『特別に優れたこと』と同等に『成功』すれば、 自身も『特別に優れている』証明が 無限ほど多数??
教団の外から見れば・・・
無限ほどの多数と同等の横並びこそが、 誰にでも簡単にできるのが当然にすぎない 客観的証明そのもの...なんですけど x x x
この時は、 林がブラインドで オオタカがいること自体が把握できていなかったところから 不意に飛び出して...
でも、 すぐに 引き返すに近い方向に戻って行った x x x
旋回は 遠ざかる方で、 すでに 視線が逃げ気味 x x x
突発で“見える位置”に現れてから 3秒位?しかない一瞬に即応できないと、 その後になれば もう飛び去って行く後ろ姿だけ。
鳥の飛翔写真狙いでは、 まだ見えていない鳥にも瞬時に反応できる体勢での集中を何時間も続けるのは 普通にある。
もちろん、 願望的に期待するのは、 こういう「ただ“写っている”だけ」の画ではない...のだが...
それ以上の「!」な写真になる可能性があり得るチャンス自体が、 そうそう逢えるものではなく・・・
それでも 『枯れ木も山の賑わい』用にはなる?のが、 世の嗜好での都合の良さ...でもあり、 “利かされ”感の退屈でもあり。
わりあい 光が良く入っている感じもある、が・・・
オオタカは 光が入り易い印象が強くて、 飛翔でも 条件のアラが目立たずに“それっぽく”写せるのは 特に簡単な種類。
これが もし、 他の種類が 同じ位置に 同じ向きと形でいるシーンだったら、 光が悪い印象の写り方になっていた...かも。
鷹の類の飛翔は、 普段の全般では、 一連の状況が長~ぁ~ぁ~い時間 見え続けていることも 少なからずある。
まぁ・・・、
お幸せ教団さんだと、 10とか15も集って 狙いはオオタカだけの一点でも、 自力で見つけられるのは せいぜい 5~10回に1度。
でも、 連続して見え続けている時間は、 「秒」ではなく 「分」の単位...、 時には 5分以上とかも。
それが、 どこでも定型、 教団外の周りから教えてもらえてから 集いの中で伝え合って... から、 教えてもらった相手にまで
「教えてくれたところにオオタカが出てるよ! アンタが鳥なんか見つけられないクズだから、 私が先に見つけて教えてあげたよ!」
の 『周囲の助力の又売り先生』兼『支離滅裂な恩の押し売り先生』を崇拝していられる『残念さん』でも 飛翔も写せる事情。
世の一般では「能ある鷹は...」とも使われるところに・・・
その鷹ネタで 『そもそも無い爪をひけらかしている先生』、 更には、 その奇行を崇めていられる教団とは、 可笑しな縁 x x x
こういうところで、 金銭に依る部分の“機材を揃えた”だけで 知識や技能が無い新参さんが、
「私は、 あの!、 オオタカを狙っています!」
はたまた、
「この私ほどにもなれば、 究極の才能がないと挑戦すらもできない、 あの!、 オオタカの撮影にまでも挑戦しています!」
的な優越意識を叫び合う教団に入信するのは、 即で 門外漢向けには“それらしく見せられる写真”を持てるのが好都合そう...
かもしれないが・・・
誰でも 最初から すぐにできて当然なだけの結果に、 無数の簡単すぎる矛盾にも気付けずに信仰されるご教義を“合成”して・・・
実態は 「まだ、 せいぜい オオタカぐらいしか写せない」のを、
「この私は、 究極の才能がある証明の、 全世界で一番難しい、 あの!、 オオタカの撮影にまでも『成功』しましたぁ!」
的な高揚に舞い上がって 優越意識に陶酔しがち。
これは、 カワセミをはじめ、 他の“ありがたがられる種類”をご神体として群れ集われる全てでも共通。
・・・だからといって、 それも、 自身の中では喜んでいられるだけ、なら、 それぞれのご自由なこと...
なのだが・・・
周囲は いちいち写す必要も無いことには ただ静かにスルーしている状況を、
「他のクズ共は『成功』できない証拠に、 皆、 毎回『挑戦しようとカメラを構えることすら諦めるしかない』と泣き叫んでいる」
の、 そもそも存在し得なくて 当然に実在もしない情景を語って 互いに証明し合った お幸せな優越意識を駆って、
「難しすぎて諦めるしかないと泣き叫んでいるアンタごときクズでも『成功』できるように、 この私が指導してあげますよ!」
と ご熱心な使命感で纏わり付き回ってあげてしまう 『ますます残念さん』直行便片道切符...が定番コース。
でも、
そんな、 多重の矛盾を連ねて そもそも成立しようがない『残念』なご自慢を称え合っていられる お幸せ教団支部には事欠かない。
鳥写真を撮りたいのか?
“先天的な知的能力の特性が共通する同類さん”同士だけでの教団の中だけで 優秀ぶりを証明し合っていられさえすれば お幸せ?
というか...、 多々が 教団の中だけに留まっていてはくれない“慈善活動ごっこ”にも進出してしまうのだが x x x
それと これは、 『鳥を写す』式の 極度に断片すぎる短文でなら同じにも表せても、 そもそもの発端の意向から 全く違う。
当然、 その行動の一部で 同じ状況に交錯していても、 そこに見ているものは、 目的意識も 価値基準も 根本から別の世界。
そういった『残念』な言動は、 自身は“その世界”の外にいて「見るだけ」だからといって 無関係ではなく・・・
ネット世界でも リアル世界でも、 称される全てが“自称”。
どれだけ自信に満ちていても、 どれだけ盛大で華々しい文言でも、 世の実態における客観性には 保証は無い。
『残念さん』にとっては 超~ぉ~盛大な文言が躍る『自慢作』...
そのご自慢が、 自身の私見として、では、 悪意も偽りもない 率直な語りでも・・・
別の人は、 『それ』には写そうとする価値も無く、 異次元に上回るコマすら 「不要」で 軽々と消し去る、とか。
それなら、 その“別の人”が、 自己評価では「平凡」「惜しくも残念な感じ」とか低調風味でも 現に“消さずに残す”レベルは?
・・・でも、 実態など考えようともせず、 表面にある 目を引く文言だけを 機械的直訳で真に受けて、 知識として覚えられがち。
あるいは、 ヤラセや合成などでの創作に 虚構の説明を騙る『捏造』(フェイク)も、 プロ・アマ問わず 大昔から続く古典芸。
こちらは、 名声欲に営利にと私欲の為に 偽りを流布して世の知識的理解なり情報なりを歪めてまで邁進する“反社会的”思考。
色々な分野で、 実態とは無関係すぎるのに 広く浸透している『迷信』を 門外漢が意気揚々と語ってきて閉口する定型があるはず。
「百聞は一見に如かず」 「聞くと見るとは大違い」・・・
実体験が無くて騙られるお噺では、 僅かでも実体験をすれば すぐに必ず知る基礎から “門外漢式の常識”の『迷信』が闊歩する。
その自身は上手く正しく演じられている確信の自己採点は、 内容が成立していなくても気付けない自体に気付けないだけ。
それで、 自称・自然写真家の類さんの、 世での扱いは“権威”的な“大御所”級から大多数の『残念』な実態が丸バレ...とかも。
初心の最初から全てが『捏造』だけ、 実在の自然には 未だに目を向けたことすら無いまま...でないのなら 何なのだろう??
『残念』なご自慢も、 “反社会的”な作為の『捏造』(フェイク)でも、 『鵜呑み』 『オウム返し』で 知ったかぶりの連鎖...
・・・ここにも 何だか“鳥”絡み x x x
そして、 『鵜呑み』 『オウム返し』の尺もなく...
気に留まった単語1つ2つだけを拾い出して、 自身の『残念』な世界観の語りで 意味を解らずに使うだけ、の幼児式作文も。
ここでも、 コンテストで選考する自称・自然写真家の類さんが 自然にも写真にも何故か無知な実情が丸バレ...は、 昔も今も常態。
「生態」を『静体』の【せいたい】と混同している『残念な知識』での選考と 支離滅裂な講評すら、 優れた経歴に化ける始末。
それで表れている 他者の“見える反応”も また、 『文言の機械的直訳』も 『数的な多さ』も、 信憑性とは無関係。
むしろ・・・
『残念さん』ほど、 何にでも自信に満ち満ちて、 盛大で華々しい文言で優越意識を叫んでいられるのが、 世には ありふれた定型。
そんな『残念さん』が叫ぶ優越意識こそ、 同類さんには、 自身の優秀ぶりを証明し合える麗しい見識として 篤く信仰される。
だから、 数的な概況を簡略に単純化した図では 三角形の階層ピラミッドで描かれる お馴染みの分布パターンでの必然で...
『残念』を多重に連ねて 物事の道理として成立しようがない言説ほど、 より多く叫び合われているのが、 世には ありふれた定型。
一方の、 『残念』だと解る人は、 強いての事情は無ければ ただスルーして、 外面的には 存在自体が殆ど表れてこないもの。
物事の道理として成立していない言動は、 その内容個々の現場に物的立証は無くても 「真に受けるのは愚か」なのは判断できる。
でも、 誰でもが関わるのではない分野に 実体験での具体的な知識があるのは、 世の全体の中では 少数だけ。
だから、 現実が語られるのを 正しい知見と解り、 実在し得ないことが語られるのを偽りと解るのは、 その少数だけに限られる。
対して・・・、
圧倒的に多くを占める門外漢には、 いつか どこかで聞いた記憶で“いかにも それらしくて好まれる単語”だけが知識の全て。
そんな特定単語を より多く発しさえすれば、 内容が支離滅裂でも、 圧倒的大多数には『優れた知見』として喜ばれていられる。
そして、 自身が真に受けている ご勝手な嗜好に合わされた『迷信』と同じでこそ 『正しく優れた知見』として受け入れられる。
それを利用した生業の“大御所さん”らに称される『実績』は、 そもそもが 内容への評価ではなく、 営利での『業績』の話。
こういうことは、 写真とか 自然とか 特定分野だけでの特殊な事情のはずも無く、 世には どこにでも ありふれた定型。
社会的に通じる肩書も、 テレビ・新聞・雑誌なども含めて 称される実績のご立派ぶりも、 言説の妥当性の保証になるはずも無い。
ありがちな、 『自身の言動の安全』を『他者を模倣する』ことに頼っても、 そもそも意味を成していない浅知恵。
ネタ元が 権威的扱いから 他の一般まで 何でも、 思考停止で 『物事の道理として成立していない言動』をトレースすれば・・・
“人”の知能で順当な 現実世界の言動をするより、 むしろ、 リアルな桁違いも遥かに超える多くとでも篤い親交が持てるのかも。
そんな数的活況に属するのが 優れた行い...好ましい振る舞い...と信じるのも それぞれ次第、でも・・・
同時に、 現実が見えている“人”からは 『残念さん』『反社構成員』として扱われるのと引き換えになっているのは 単なる当然。
そうなっても、 ネタ元の所為にはできない 自己責任 x x x
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