「ここだけを見ても わからない内容」とも思いますが、 某『鳥の雑誌』投稿コーナーに掲載された写真に関して。
ここは、 撮影地や機材情報なども 具体的な詳細は総じて極力明示しない“匿名”のスタンスなので...
当該の対象を直接は明示しないながら、 探せば 事情次第では判り得る箇所はありつつ。
こういうことでは、 『あちら』に残念ぶりを指摘すれば、 以降は タテマエと実際が違う扱いになるだろうことは 想像するに易い。
それで、 多くには、 自己顕示に利用できさえすれば内容も社会的道義性も問わない思考での“損得”の判断で、 スルーする...
あるいは、 むしろ、 表向きは称賛でも演じて見せるのが 賢明な得策として鋭意実践されるところ、なのだろうが...
自分には、 この世の実際とは違う世界が見えて聞こえてしまって 言葉も現実も意味を持たない対象と関わりを続けるのは 難しい。
これについてのメールを『あちら』に送信したのは、 お盆の前、 8月7日。
その上で 『あちら』が どう対応するのか、しないのか、を確認してから書くとなると、 時差が大きくなるもの。
『あちら』は有効なアクションをしないよう...となると、 それが 既に最終的な確定済み、と判断するので...
都合が悪い現実は 指摘されても無視して、 あたかも真っ当な『専門誌』名目の設定を演じ続ける、ということなのだろう。
“書き言葉”では長文になるので、 複数回に分ける予定。
まずは、 具体的な事実がある“あの写真”の実際の状況を中心にした部分についてを。
そもそもの、 応募時に記載していた 当該部分は
※ 元のメールは プレーンテキスト形式、 上記は HTMLの仕様で“複数連続する空白文字は1つだけ”の表示
これを、 なぜ、 明記しているのとは違う、 もう一方の別テーマ名目にしたのか。
それも、 その 別テーマ名目で扱うには当てはまらない一文のところは取り除いてまでの ご丁寧ぶり。
その他にも、 “不可解”と“違和感”ばかり。
専門家そうな肩書さんのコメントも、 「鳥の種名」 「カゲロウ」 「捕食」 ...
写っている要素の幾つかの単語は含まれていて、 ワープロソフトが検知する構文エラーではないだろう体裁には なっているが...
ワープロソフトや 生成AIに入力して 問題を指摘されない体裁なのと、 内容が現実に対して適切かとは 別。
写っている要素の単語の幾つかを含めただけの『織り込み作文』では、 写っている状況と直結するのではない『言葉遊び』。
もちろん、 コメントに書かれているのは、 実際の現場を知らない写真だけを見ての想像。
所詮 全て、 自身の想像は 同じ自身の見識が同じ当然を証明にした自己内連鎖で育んだ濃縮熟成なのは 誰でも同じ必然。
それは、 実際を知っていて見れば、 “知ったかぶり”であり、“妄想”であり、とはいえ...
概要は反しない範囲でなら、 “実際の具体的な状況”との相違は 少なからず寛容に見るべきところ。
ても・・・
この撮影場所は、 『海』ではなく、 汽水域からも遠い、 完全に淡水の河川。
写っているカゲロウだろう虫は、 羽化している過程。
水中での成長を経て、 いよいよ 空中と地上へ進み出る、 劇的な変化の時...
でも、 まだ白っぽいのが明瞭なので、 “初めて飛び立てる”ようになるまでには、 まだ しばらくの時間が必要だろう。
“その時”を待つ、というか、 外敵からも見通しが利いて 捕食されるリスクが高い水面で 運を天に任せるしかない状況。
・・・ 一応 書いておくと...
カゲロウの幼虫が『海』には生息しないのは、 直接の知識は無くても、 自然への基礎的な理解があれば イメージできるはず。
写す事情では、 川面を流れているので、 いつ、どこを通りかかるか 予測できない対象。
それが、 密度は低く、 たまに通りかかっても、 好条件で写せる範囲は数秒のうちに通り過ぎる速さで流れていく。
そして、 写真として期待できる時間帯は、 1日の中で 1時間半とか程度。
その限られた機会の一瞬に 鳥が捕食を狙うシーン自体の巡り合わせが、 そう都合良くは あってくれない。
それも、 天候などで、 そこで望み得る最良を仮定した“絵に描いた餅”でも 鑑賞する写真として使える画になる日は 僅か。
好条件での写真を見ると、 いつでも写せるもののように語られがちだが...、 そういつでも写せるのではない。
同じように、 種名を言えるだけでありがたがられるのではない 身近な普通種には、 何でも簡単に写せると語られがちだが...
居るだけなら ありきたりに見ているからといって、 いつでも 何でも 都合良く写せるのではない。
実際、 今年だと、 この狙いに 10回近く行った結果が、 1コマもシャッターを切っていない、というより...
現場で機材を取り出して 写せる状態に準備しておいてみる状況から、 一度も無かった。
・・・のは ともかく...
淡水域の多くでは、 よほどの強風が吹いていても 波は『海』ほどには荒れない。
そして、 (よほど広い湖なら別だが...、) 風が止めば 程なく 水面は静まる。
そんな 淡水域での波は、 “ここ”の“今”の、 写真に直接は写らない「風」が表れているだろうもの。
だから、 小鳥サイズで このスケールの波でも、 淡水域では “ここ”の“今”にある強風が“見える”要素にもなり得る。
(写真に直接は写らない) その「風」の中でも活動している、 平静な時より困難の度が高い情景が、 伝わることを期待する部分。
『○○が △△している』だけの写真の意向ではない...
それが、 かな部分をカタカナ表記にしたのも含めての画題であり、文章であり、だったのだが・・・
同じ写真を見るのでも、 そこが 淡水域か 『海』かの認識が違うと、 そこに思い描く「風」へのイメージは 大きく違ってくる。
『海』で 印象として推すような「風」が吹いている状況なら、 人サイズのスケールで見ての荒れた波になる。
小鳥サイズのスケールで この波しかない『海』なら、 そこに“見える”のは、 周辺地域までの広域が穏やかな日和の情景では?
同じ写真でも、 状況設定を『海』として見るのでは、 この鳥が「風」に苦労しながら活動しているイメージは弱いだろう、
というより、
とても小さく軽い虫の運動性では ちょっとした一時の風で影響を被って、 鳥は その風の恩恵で獲物に与れそう、というのでは...
画題と矛盾する話にしていて、 表現的な意図であり、応募の意図でありとも、 状況の実際とも、 正反対ほど違う。
それを『応援』してあげるとは、 支離滅裂ぶりに気付けない自身は 楽しげな文章を書ける才覚...のつもりでいられるのだろうが...
何でも無関係に、 ただ自身のスケール感の中に当てはめたような “小ぢんまり”した情景として『応援』してあげても、ねぇ・・・
そして、 残念さんほど、 眼前の現実ですらの万事で 、 自身と同類の残念さんの愚かな妄想披露にこそ同調しているのが 世の常。
まして、 その妄想披露が、 あたかも専門家そうな肩書さんで、 出版物の活字印刷で、ともなれば、 なおさらのこと。
そんな、 専門家そうな肩書さんの妄想披露を真に受けて 『実際とは違う状況』の方が見えてしまう 同類の残念さんは多そう。
これには、 そう簡単にあるのではない写真を “残念さん”同士の“おままごと”で“無駄”に使われた感の 不快と嫌悪しかない。
あるいは、 写真を見れば、 専門家そうな肩書さんのコメントが 実態とは違うだろうことが 確定的に推定できる人もいるだろう。
でも、 テーマのところから 応募に明記してあるのとは変えられている経緯は 知り得ない。
これでは、 専門家そうな肩書さんのコメントを、 応募者の方が虚偽を書いていたものを踏襲したことでの誤りとも思われかねない。
こちらからは 知りようもなければ 対応もしようがないところで 不実の評価を着せられるのでは、 馬鹿げた迷惑。
専門家そうな肩書さんのコメントが、 無駄なだけとは違う、 むしろ 何も書かなかった方が良かった、のでは、 極論なら...
それを書いた自身が無駄な存在というだけとは違う、 その自身が存在していない方が良かったことにもなる。
そして、 この 専門家そうな肩書さんのコメントの 写真自体への視点は、 写真(静止画)に見える要素を語句に訳した列挙。
・・・、 写真(静止画)へのコメントだから、 それで順当...と思っていられる??
その、 画一的には表せないのがナーバスなところでも、 そこにある“違和感”...は、 次回の予定。
ここは、 撮影地や機材情報なども 具体的な詳細は総じて極力明示しない“匿名”のスタンスなので...
当該の対象を直接は明示しないながら、 探せば 事情次第では判り得る箇所はありつつ。
こういうことでは、 『あちら』に残念ぶりを指摘すれば、 以降は タテマエと実際が違う扱いになるだろうことは 想像するに易い。
それで、 多くには、 自己顕示に利用できさえすれば内容も社会的道義性も問わない思考での“損得”の判断で、 スルーする...
あるいは、 むしろ、 表向きは称賛でも演じて見せるのが 賢明な得策として鋭意実践されるところ、なのだろうが...
自分には、 この世の実際とは違う世界が見えて聞こえてしまって 言葉も現実も意味を持たない対象と関わりを続けるのは 難しい。
これについてのメールを『あちら』に送信したのは、 お盆の前、 8月7日。
その上で 『あちら』が どう対応するのか、しないのか、を確認してから書くとなると、 時差が大きくなるもの。
『あちら』は有効なアクションをしないよう...となると、 それが 既に最終的な確定済み、と判断するので...
都合が悪い現実は 指摘されても無視して、 あたかも真っ当な『専門誌』名目の設定を演じ続ける、ということなのだろう。
“書き言葉”では長文になるので、 複数回に分ける予定。
まずは、 具体的な事実がある“あの写真”の実際の状況を中心にした部分についてを。
そもそもの、 応募時に記載していた 当該部分は
<テーマ:気象> ◆(ここに画題 : 応募の文面では 漢字とカタカナでの表記) 2017年 4月 大阪府内 (ここにレンズスペック) , F4.5 1/4000秒 ISO 200 「気象」のテーマに含まれるのか、は 少々“びみょ~”な感もありつつ・・・ 強風で荒れる水面での捕食行動の一瞬。 自然界では、小さな獲物を捕らえるの にも、曲芸的な能力での大きな労力が 必要です。 |
これを、 なぜ、 明記しているのとは違う、 もう一方の別テーマ名目にしたのか。
それも、 その 別テーマ名目で扱うには当てはまらない一文のところは取り除いてまでの ご丁寧ぶり。
その他にも、 “不可解”と“違和感”ばかり。
専門家そうな肩書さんのコメントも、 「鳥の種名」 「カゲロウ」 「捕食」 ...
写っている要素の幾つかの単語は含まれていて、 ワープロソフトが検知する構文エラーではないだろう体裁には なっているが...
ワープロソフトや 生成AIに入力して 問題を指摘されない体裁なのと、 内容が現実に対して適切かとは 別。
写っている要素の単語の幾つかを含めただけの『織り込み作文』では、 写っている状況と直結するのではない『言葉遊び』。
もちろん、 コメントに書かれているのは、 実際の現場を知らない写真だけを見ての想像。
所詮 全て、 自身の想像は 同じ自身の見識が同じ当然を証明にした自己内連鎖で育んだ濃縮熟成なのは 誰でも同じ必然。
それは、 実際を知っていて見れば、 “知ったかぶり”であり、“妄想”であり、とはいえ...
概要は反しない範囲でなら、 “実際の具体的な状況”との相違は 少なからず寛容に見るべきところ。
ても・・・
この撮影場所は、 『海』ではなく、 汽水域からも遠い、 完全に淡水の河川。
水中での成長を経て、 いよいよ 空中と地上へ進み出る、 劇的な変化の時...
でも、 まだ白っぽいのが明瞭なので、 “初めて飛び立てる”ようになるまでには、 まだ しばらくの時間が必要だろう。
“その時”を待つ、というか、 外敵からも見通しが利いて 捕食されるリスクが高い水面で 運を天に任せるしかない状況。
・・・ 一応 書いておくと...
カゲロウの幼虫が『海』には生息しないのは、 直接の知識は無くても、 自然への基礎的な理解があれば イメージできるはず。
写す事情では、 川面を流れているので、 いつ、どこを通りかかるか 予測できない対象。
それが、 密度は低く、 たまに通りかかっても、 好条件で写せる範囲は数秒のうちに通り過ぎる速さで流れていく。
そして、 写真として期待できる時間帯は、 1日の中で 1時間半とか程度。
その限られた機会の一瞬に 鳥が捕食を狙うシーン自体の巡り合わせが、 そう都合良くは あってくれない。
それも、 天候などで、 そこで望み得る最良を仮定した“絵に描いた餅”でも 鑑賞する写真として使える画になる日は 僅か。
好条件での写真を見ると、 いつでも写せるもののように語られがちだが...、 そういつでも写せるのではない。
同じように、 種名を言えるだけでありがたがられるのではない 身近な普通種には、 何でも簡単に写せると語られがちだが...
居るだけなら ありきたりに見ているからといって、 いつでも 何でも 都合良く写せるのではない。
実際、 今年だと、 この狙いに 10回近く行った結果が、 1コマもシャッターを切っていない、というより...
現場で機材を取り出して 写せる状態に準備しておいてみる状況から、 一度も無かった。
・・・のは ともかく...
淡水域の多くでは、 よほどの強風が吹いていても 波は『海』ほどには荒れない。
そして、 (よほど広い湖なら別だが...、) 風が止めば 程なく 水面は静まる。
そんな 淡水域での波は、 “ここ”の“今”の、 写真に直接は写らない「風」が表れているだろうもの。
だから、 小鳥サイズで このスケールの波でも、 淡水域では “ここ”の“今”にある強風が“見える”要素にもなり得る。
(写真に直接は写らない) その「風」の中でも活動している、 平静な時より困難の度が高い情景が、 伝わることを期待する部分。
『○○が △△している』だけの写真の意向ではない...
それが、 かな部分をカタカナ表記にしたのも含めての画題であり、文章であり、だったのだが・・・
同じ写真を見るのでも、 そこが 淡水域か 『海』かの認識が違うと、 そこに思い描く「風」へのイメージは 大きく違ってくる。
『海』で 印象として推すような「風」が吹いている状況なら、 人サイズのスケールで見ての荒れた波になる。
小鳥サイズのスケールで この波しかない『海』なら、 そこに“見える”のは、 周辺地域までの広域が穏やかな日和の情景では?
同じ写真でも、 状況設定を『海』として見るのでは、 この鳥が「風」に苦労しながら活動しているイメージは弱いだろう、
というより、
とても小さく軽い虫の運動性では ちょっとした一時の風で影響を被って、 鳥は その風の恩恵で獲物に与れそう、というのでは...
画題と矛盾する話にしていて、 表現的な意図であり、応募の意図でありとも、 状況の実際とも、 正反対ほど違う。
それを『応援』してあげるとは、 支離滅裂ぶりに気付けない自身は 楽しげな文章を書ける才覚...のつもりでいられるのだろうが...
何でも無関係に、 ただ自身のスケール感の中に当てはめたような “小ぢんまり”した情景として『応援』してあげても、ねぇ・・・
そして、 残念さんほど、 眼前の現実ですらの万事で 、 自身と同類の残念さんの愚かな妄想披露にこそ同調しているのが 世の常。
まして、 その妄想披露が、 あたかも専門家そうな肩書さんで、 出版物の活字印刷で、ともなれば、 なおさらのこと。
そんな、 専門家そうな肩書さんの妄想披露を真に受けて 『実際とは違う状況』の方が見えてしまう 同類の残念さんは多そう。
これには、 そう簡単にあるのではない写真を “残念さん”同士の“おままごと”で“無駄”に使われた感の 不快と嫌悪しかない。
あるいは、 写真を見れば、 専門家そうな肩書さんのコメントが 実態とは違うだろうことが 確定的に推定できる人もいるだろう。
でも、 テーマのところから 応募に明記してあるのとは変えられている経緯は 知り得ない。
これでは、 専門家そうな肩書さんのコメントを、 応募者の方が虚偽を書いていたものを踏襲したことでの誤りとも思われかねない。
こちらからは 知りようもなければ 対応もしようがないところで 不実の評価を着せられるのでは、 馬鹿げた迷惑。
専門家そうな肩書さんのコメントが、 無駄なだけとは違う、 むしろ 何も書かなかった方が良かった、のでは、 極論なら...
それを書いた自身が無駄な存在というだけとは違う、 その自身が存在していない方が良かったことにもなる。
そして、 この 専門家そうな肩書さんのコメントの 写真自体への視点は、 写真(静止画)に見える要素を語句に訳した列挙。
・・・、 写真(静止画)へのコメントだから、 それで順当...と思っていられる??
その、 画一的には表せないのがナーバスなところでも、 そこにある“違和感”...は、 次回の予定。
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