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ベニマシコ飛翔|「いる」のと「写す」のは事情が違う x x x

2021年12月04日 | 野鳥・鳥類
いる、見られる、写せる、というだけと、 良い条件で写せるか、というのは、 全く事情が違う話。
特に、 飛翔写真には、 距離、光、背景、角度、動き方・・・、 多々の条件が都合良く揃ってくれる状況は とても少ない。
一応写せても、 機会が少ない 僅かなコマ数の中からでは、 画的に良いコマは そうは出てくれない。



自称『鳥に詳しい』とのご自慢の喧伝にご熱心な面々の“集い”では ありがたがられがちな種類のようで・・・
だから、 ベニマシコがいる、というだけで 色めきたって、 劣悪な状況でまで
「今、 ベニマシコがいますよ!」
あのベニマシコを、 今なら撮影に『成功』できますよ!」
と、 嬉々として教えてあげたり・・・
逆に、 そこに あのベニマシコがいることを 部外者に知られてなるものか、と 周囲を常に警戒していて
「人が来るぞ! 隠せ! 隠せっ!」
と、 皆でカメラを違う方向に向けて カムフラージュするパターンも。

でも、 実際は・・・
いる、ということでなら、 そういう“集い”で 広く語り合われて共有されている情報よりも、 ずっと あちこちで見られる種類。
しかも、 特徴的な「ホピッ」といった感じの声が耳に留まり易いので、 カワセミと同レベルほど、 初心者でも見つけ易い。
野鳥観察の ほんの初歩の初歩さえできれば、 見つけられる頻度は、 必然的に、 門外漢さん基準とは リアルに桁が違ってくる。
だから、 その実際を知っている人なら、 特段の好条件でもなければ、 いちいち色めきたつはずもなく 軽々と素通りの対象。

そんな正反対ほどの温度差になるのは、 “集い”に群がるのは、 自身で鳥を見つけられることは殆どない門外漢さんだけだから。
そういう集いで復唱し合われる情報は、 ほぼ全て、 他の人が観察や写しているところを『見つけた』もの。
だから、 何でもが 零細すぎる断片だけ。
鳥を見られることに繋がる情報が零細すぎるから そこだけに一斉に殺到するしかないご事情の同類さんだけで群れ集っても、
「私は 鳥に詳しいから、 こんなにも たくさんのことを知っている」
として ご自慢し合われる情報は、 皆が持ち寄った全てを合わせてでも フィールドの実際からは 零細すぎるだけ、のこと。
当然、 その集いの中で “唯一の誰か”だけでも 自身の能力で鳥を見つけられるのなら、 そんな状態には ならない訳で x x x

そして、 『情報』は、 各地の集いを多くがハシゴする交流で 相互に伝播して、 広域で共有されている。
その情報の中に、 多種の鳥が、 門外漢さん基準では 他とは比較にもならない 驚愕の超~ぉ高頻度で見られる“楽園”は??
そんな夢のような状況に導いてくれる、 絵空事に想像する究極など問題外に超越する“奇跡”の業を成し続ける“神様”は??
・・・。
つまり、 どこででも無数にある集いは、 例外なく全てで、 その全員が、 自身の能力で鳥を見つけられることは皆無という証明。
同時に、 その周囲にいる“野鳥観察をする人”とは、 一切全ての関わりが断たれている 全く無関係な世界という証明でもある。

何でも知らなすぎるから、 ありきたりなことで 特別に優れたことに『成功』している幻想の優越感に浸っていられるのだが・・・
同類さんだけで集えば、 皆が大切に抱きしめている幻想のご自慢の能書きをご教義に信仰する 内輪文化の“ムラ(村)”になる。

取るに足らないことを 特別なつもりで教えてあげるのも、 カムフラージュ組も、 客観的な事実を「知らぬが仏」でいられれば、 あらゆる何でも全てで自身を祀り上げた幻想でお幸せでいる同類さん同士だけでのムラの内輪でだけは、 自身の優秀ぶりを互いに証明し合って 優越感に満たされて 和気あいあいと暮らしていられるだけのこと。
でも、 虚構のご教義の信仰を拠り所とするムラの滑稽ぶりを 部外者が指摘するのは、 その内容が客観的に事実でも 野暮なこと。

何にでも 客観的な事実を正しく述べれば良いのなら ある意味では簡単だろう・・・ が、 そうはできないのが リアルな実際。
ましてや、 何でも 他の誰かの後から真似して、 それを、 皆の誰もが 何にでも 異口同音の一律に 定型の
「『1週間前』から 『私が先』に」
「『私だけ』が 『成功』」
「私が『教えてあげた』」
が付け加わった妄想を語り合い、 自身が真似した相手にまで 実在しない恩を押し売りしていられてしまう面々。
そういう、 知的面の特性で 現に目の前にある状況も 自身の行動も 何でもが 実際とは全く違うものが見えて聞こえていて、 併せて、 その妄想の情景が 物事の道理として実在し得ない矛盾すら認識できない面々だからこその言動には、 福祉的観点でのモラル感として、 いわゆる“健常者”の方に 対応には 特に配慮が求められるもの。
しかも、 そこは、 知的面での 具体的で明確な理由があって 同類さん同士だけでのムラに吹き溜まるしかない面々には、 もしも 実際を認識してしまえば そのムラにすら暮らせなくなるご事情で 触れられない戒律に閉じ籠もるしかない、 神経質な“お約束”の闇でもある。
実態がない幻想の優越自慢だとわかるならこそ、 そこには関わりを避けることで そっとスルーするのも 社会的なマナーだろう。
文字列を無機質にロボット解釈すれば肯定したとも取れ得る社交辞令も、 集いの同類さんのように 真に受けているのではない。

「知らぬが仏」には 「知らぬは放っとけ」、 まぁ、 “知らぬ”よりは“知り得ぬ”だが・・・
“人”として成立していない言動にも 表面上は穏便に受け流されるのは 周囲の“人”の温かい目での優しさ・・・
・・・なのだが・・・
それで なおさら、 あべこべでご勝手な妄想を 延々と捏ね繰り回して 膨らまし合って、
「いる場所まで指し示して教えてあげても見つけられないほどの鳥までも 見つけることに『成功』している」
「やっぱり 鳥を見つけることに『成功』できるのは 世界中でも私だけ! だから、 皆の為に この私が 教えてあげなければ!」
「他の誰も 鳥を見つけられないから、 教えてあげれば 誰からも感謝されて 尊敬されている」
などなど、 お幸せモンスターぶりを拗らせ続けてしまうわけで x x x
そういう 倒錯した設定で暮らしているムラでは、 誰かが、 もっと稚拙だから 他の人は 誰もやろうともしないにすぎないことを
「~~に『成功』した」
と ご自慢してしまう度に 皆で真似て、の繰り返しで、 ますます超々低レベル化し続ける一途の 更に残念な成果に
「他の誰にもできないどころか、 『挑戦』しようとすらできずに諦めるしかないほど高度なことにまでも『成功』している」
の なお一層の優越感を積み増してご満悦なのも 定番 x x x

そういう面々では、 当然、 教えてあげる、カムフラージュ、とは 逆のパターンもまた 多発する x x x
鳥自体がいないのも、 そこに鳥がいるのに見つけられないのも、 自身には どちらも同じ風景。
つまり、 自身が “鳥がいても見つけられない”こと自体に 気付けない。
当然、 他の 野鳥観察や撮影をする人が、 今 そこにベニマシコがいると知っていても 見向きもしていないことにも 気付けない。
でも、 門外漢さんは、 『鳥に詳しい』アピールとして、 ありがたがられる種名を 1回でも多く口走ろうと 励みがち。
だから、 まさに すぐ近くにベニマシコがいる所でまで、 それに気付けないまま、
「私は鳥に詳しいから、 △△(場所)に ベニマシコが来ることまでも知っている」
「この私ほどにもなれば、 他の誰も見つけられない ベニマシコですらも、 いれば 必ず 私が先に見つけて教えてあげている」
などと、 閉口するしかないご自慢を わざわざ得意満面に晒してしまう、 毎度毎度の情景の再放送を繰り返すことになる。

これらの全ては、 カワセミ、ルリビタキ、オオタカ、・・・などなど、 拝まれる御神体の種類を問わず 同じ。

特定の種類だけでも、 鳥全般にでも、 総合的な全体像の理解に関心すらないまま
『△△(場所)の○○(種名)』
を列挙するだけでは、 『鳥に詳しい』どころか、 初歩の初歩に進展する要素ではない。
どんな分野でも、 まずは 全く自慢にもならない 簡単すぎる初歩の初歩、 たったそれだけでも、 見える世界は全く変わるもの。


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