「大賀さんがある」と言う事は、逆に状況の停滞がある、という事でもある。
誰かの独断で決定する、訳じゃないのだ、最終的には”戦争”まで踏み込んでいく。
それは、ある意味で有り難い存在ではある。
その国の王と妃は、良くも悪くも仲は良い。しかし、次第に良くある話、王は妃の尻に敷かれる様に成り、国政にさえ妃は口を出し始めている。しかし?結果で「浮気」そう言う物に対して非常に強い否定もあり、王は良くある暴君の様に、女性をやたら求めると言う行為は出来なかった。
この妃が妃である限りは、「女を差し出せ」それは言われない訳だ。
しかし、国が?大きくなるにつれて、問題は出てきた。あからさまな「切り捨て」妃の趣味に反した存在の否定、そう言うのが増えて来て、そして同時にか利益性、そう言うのも激減してくる。市場の利益はどんどん小さくなり、それは結局は排斥を肯定し、益々内輪しか糧が得られなくなり、状況は窮乏して行った。それでも、この王と妃は、頂点には有り続けた。
「彼らが、売春を強要してる訳じゃない」のだ。
要求してるのは、切り捨てた先の人々、である。
その時、彼らは王で有り続ける事になって、国は存続の危機へと陥っていった。
「チャウシェスク大統領の、何が悪かったのか?」と言う、これはその一つの返答かもしれない。ルーマニアの悪夢は何故起こったのか?だ。平成に入って確かに、国家レベルが「売春」を許容する、事は無くなった…感じはある。しかし?それ無しでの経済的発展と言うかは、その先には理屈として無かった訳だ。古い醜聞、従来の王が、何故に数多の側室を持ったか?ではあり、等価な二択を前に、その先の第三の選択として「両方」と言う、その先に、人間の(或いは男性の?)感覚では”そう言う事態”があって。一般論での「トロッコ問題」は、しかし施政者にすると「浮気」そのシンプルなタブーに踏み込む行為でしかなく。結果、妻によっては「どっち?」で残酷な決断を強いられる事には。
”それ”を認める妻、というその是非でもあるのだけど。
一応、「ガンダム」その”理解”は、その面倒に打開案は提示している。「妻は、”ガンダム”を認めれば良い。後は、その中にあるMSの問題でしかない」RX-78-2その他のガンプラを幾つ持とうが、それは、問題に成らない。そのMSの価値それは、そのまま”一つの市場”を意味する。MS同士が対戦し、決着を付ける結果で、その先が決定していく。”そこ”で対立を結着させる結果、実際の戦争、それは起こらない。
つまり、今まで部屋にはRX-78-2が置いてあるが、”そこ”にシャアザクと、或いはバイアランカスタムを並べたとして、何か問題になるのか?だ。「認証」をガンダムに委ねる限りは、上が感じるストレスは、そう言う事でしかない訳だが。
従来のそれだと、この時「寝室で私と貴方と、この側室が共に寝ていて、何の問題が?」という話に、同意を求める事には成る。「ガンダム」の、”ここ”の理解と存在は一応は、その破綻的事態には陥らずに済む、訳だが。
「コミケ」の感覚の問題としてどうしてもガンダムは容認できない、感じもする。
その時?どうも、「その夫」である一般市場それも、何だかそれを容認できない?
という感じが、どうもある訳だ。
今の危機感で、コミケは自分以外の「似た様な即売会」それを、容認できない。「どっち?」を問われるからだ、感覚がそこにある。ガンダムでの理解なら全く先の「シャアザクとバイアランカスタムが並んでる」光景でしかないが、”それ”を否定する先では、それはつまり、「どっちが本妻?」片方いらないよね?と言う、その重い問いに晒される事には。
誰が悪いのか?ではある。
ともかくコミケは、「一次創作の非力さを伴うバックアップ」そこにしか主体は無い、と思った方が良さそう、それ以上をこの市場に求めるのは困難だ、それは他に求めるしかないしかし。
切り捨てられた人々は、その時、何処に行けば。