まず単純に、人口が減る=お客が減る、ではある。
人の増加は経済の発展に直結する要素で、しかし。減り続けている現実は重い。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「いや、特にそう言うつもりじゃないけど」みたいな”当たり前”は良い感じ
「何故、人口は増えなければ成らないか?」と言うと、それが少なくとも経済に関しては、プラスに作用する原理となるから、だ。一人の同意=1円、である。それが1000人分集まると千円になる。少なくともあなたが手にしている玩具が1000円と言う事は、”それ”を「良い」「必要」そう思う人が1000人は居る、という事には成る。その同意を集める事で、商品は紙切れ一枚でも千円二千円、そう言う金額を背負う事には成る訳だ。
貴方が普段、日常生活で「良い」と思う部分は全て「価値」お金の担保、”それ”に成っている。お金は基本的には”それ”を足場にしてその数値を維持し、それを持って経済は廻る。要するに「好ましい」が増えれば増えるほど、経済は発展して社会は暮らしやすくなる、訳だ(*'▽')。それはそうだ、好ましいに囲まれながら生活したいそれは原始的な衝動である。
という感じで考えると?一人は大概は一生の間に一億円近く発生させてる、というのがまあまず前提で。
”それ”が居なくなる、時点でその同意も消える、訳だ。一人が死ぬだけで億単位の損失になる。逆に一人が産まれるだけで、それを将来的に担保していい訳で。「同意を増やせばいい」と言う事は、今生きている人のそれを満たす方が優先されるのだが。ともかく「人口が減っていく」という図は、経済の回転においても、社会の発展に対しても、非常に深刻な喪失ではある。
ともかく「生きている」だけでも、それは社会貢献性を持っている、事には成るのだがしかし。
”それ”が社会に不満しかない、というそれは、まあちょっと逆にもなる訳だが。
「社会を良くする」事が、当然か今の人々にとっても、経済的な方向としても必要な事には成る。若い夫婦が新たな子供を求めない、という図は経済的にも深刻な面倒の種ではある訳だ、人数の問題はあるが。それを促す事が自身らの生活改善に繋がる訳で、マゾい人ならともかく普通は、人々を助ける=自身を助ける、事に遠因として通じている。情けは人の為ならず、の本来の意味と言う奴だ。自分の生活を改善せねば成らないなら、逆に他者の労苦を軽減する為に”働く”必要はある。文句だけ言っていても、状況は改善しない。
この感覚は、創作においては非常に大事な”それ”である。物語は多く、その為に必要な事、そうであるべき事、そういう事を描いていく事には成る。そこに同意が有れば、それが具現化する可能性は高まる。それは「良い」の塊、価値として、経済の担保の一部となっていく訳だが。
80代付近に、こういう理解?それが無い、という深刻は今、有るのかもしれない。
昭和天皇に支配されていた時代、人々はある意味で幸せだったかもしれないが、少しぼんやりもしていたのだ。