あげちうのブロマガ

道を塞ぐは岩山か落石か

創作者としては深刻な問題だ。

グラディウスを創って?とお願いしたらゼビウスが出来た様な位に深刻。
本来は問題ない男女のラブストーリー、の筈が、なんでか不倫物に成ったりする。
些細な差が解らない、時、そこにはかなり深刻な地雷が、不意に発生してしまう。

この辺の混沌も、ゲームとしては「ゼビウスはヒットしなかったがグラディウスはヒットした」この辺から始まっている、訳で。

”ここ”の理解としては、「ゼビウスは売れなかったが、グラディウスは売れた」と言う部分を定理にしたい訳だけど。

「いやそれはおかしい」

それは実際には、一般論だ。

昭和の頃に発生した歪みが、今もまだ、何かの尾を引いている訳で。


彼らに、お客が「グラディウスを下さい」とお願いすると、何故か「ゼビウスが出てくる」訳で。
客は不満を持ち、買わない。続くと、店その物を否定する様に成る。

店の方は「こんなに頑張ってるのに!客は何も理解してくれない!!」そう憤る訳だ。

そして、”その”差を創っている存在へ、剣呑な敵意を向ける様に成る。


平成はその結果で、その「剣呑な敵意」が支配してしまった訳だが。
結果として残ったのは、信じがたいほどに重い借金だ。
象徴の様に、それは個人の感覚では返済不可能な額に膨らんでいて。
それを「返せ」と言われる時、”それ”は何かの暴走を始める事には成る。

かなり前に自分は、「セカンドキャビネット」そう言うのを想定した事はある。
今の政府が破綻した時、”それ”を引き継ぐバックアップだ。想定通りとしたら、そっちはお金を持っているから、個人の感覚での、その「返済不可能な借金」それをチャラには出来る。経済的な破綻は、その存在により起こらない、が。

ただ困るのは、その時、元凶?は「自身の間違いを補正しない」事だ。
間違えている、と言う理解に成れない訳で。

思想の問題ではある。

数学の定理からして、”ここ”の理解と世間には大きな差が有るのだ。

”世間に合わせてる”方が悪いのか?

しかしだからこそ、今の世間は犠牲を否定しない。

昭和の問題は今も、宿題の様に或いはそこに有る?

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