自分の感覚でも、ジャニー喜多川氏の性加害問題の殆どが単なる狂言だ、とは思うが。
「知名度のあるタレントにその報告が無いから」だ。それでも、今のマスコミは根拠を要求していない。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
ようじょ(・・・)
それらの訴えが狂言だ、とすると。要するに「だから」ジャニー喜多川氏が存命中のジャニーズは彼らを採用しなかった、そう言う視点はもちろんある。「英雄であれ」と言う要求に対して、その人々は不足が有った、訳だ。結局、狭き門であり、「虐げられた様な環境の方が、原石は輝く」と言う選抜の方法論としても、玉一つに石1000個、というのがまあ、現実ではあって。ジャニー喜多川氏の領域ではそれ以上を考える必要が無かった、しかし。それは昭和天皇の死後、急速に悪い方へ変化していく事には?
タレントに成れない場合、彼らは何処に行けばまともに生活できるのか?ではある。
それは農業の領域だってそうだ。平成から変化したそれまでの民主主義は、切り捨てを加速させてしまった。そして、それらの受け皿を用意しないまま、ただ「いらない人」を増やし続ける事に成った訳だが。現状、ジャニーズの「被害者」その多くも、或いはそう言う領域の人々、ではあるのだろう。
・・・或いは「彼ら」を組織化しまった?「広告代理店の王」それは今、過去の朝鮮王朝がそうだったようにか、何処かへ姿を消してしまった。新たにその領域で「王」?を要求される場所は、システムを組んで対処する事になる、が。その時、変化はスポンサー主体であり”その”群体、それの視線を前に、タレントは品評される事には成る、訳だが。
理解ではほとんど、ジャニー喜多川氏の選抜と大差ない、と思われる。
つまり、今の状況でも、切り捨てられた「彼ら」はやっぱり、「不要」でしかない訳だ。
理屈では、「テレビ」と言う世界から否定されても、外には「他の世界」が幾らでもある。適材適所、自身の向いてる領域へ、ある程度の変換訓練を許諾し入っていく、しかない訳だけどしかし。基本的に「相対性理論」それには”異世界”という感覚が無い。結果?評価基準が単一的で、その評価での「いらない」は、結局は世界そのモノからの否定を意味するという認識の歪みはある。テレビが否定したら?もう現実から否定されるのと一緒な訳だ。それは就職氷河期世代として、現実の事例としてもある訳だが。
その”現実”の中で、或いは狂言強盗をしようとした、そんな彼らのその後、ではある。
就職氷河期世代は、まだ良い。彼らは社会的な否定の帰結でしかない、彼らは犯罪者ではない訳で、社会は今後、彼らを擁護する必要はある筈だ、が。性加害問題が狂言だったとしたら?関わった人々は明確な犯罪を犯してる事に成る、訳だ。”そう言うの”を抱えたままではどの世界でも結果は出ない、物理は多分ある。
無理が通っても道理は引っ込まない、のだ。それは然るべき対価を結局は、加害者に求める事には。
この話の帰結は、何処へ。