「小説」と言うのが、考えると結論で「アイディアの塊」ではあり。
「それは技術なのか?」に関して、そこには深刻な溝とそして、不透明な領域はある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
AI絵は元ネタを加工してコラージュする結果であり、厳密には描いてない訳だがしかし。
以前に誰かが言っていた事だが、「良いプログラムを書ける奴は、良い文章が書ける」と言う。もちろんその「良い」の価値観には深刻なベクトルの混沌はある訳だが…「つまり?」への目的に対して如何なるルートで言葉を連ねるか?は、やっぱりかプログラム的ではある訳で。目的に到達する為のルートを形成するのは、如何なる領域でもまず必要になる感覚ではある。もちろん、良い絵と言う物を形成する為にも、だが。
しかし、良い絵を描ける人がプログラマーとして適当か?というと…それはそうでもない。
ここでの感覚は、「良い文章」良い小説、への価値観が、現状は混沌としている…正当な評価を得られていない、的なそれではある訳だがしかし。まず”書き手側が”明確な価値を示せない、のはちょっと、深刻さのある感情論の断絶はある。もちろんゲームの領域では、良いプログラムを創れなければそれ以上は無い、のだ。最近ウィザードリィが盛り上がっている?幾つも新作が公開されているが、要求の真意は「グラフィックの問題ではなく」なのか、それとも「グラフィックさえ良ければ」なのか、プランナーの感覚が見えない、そんな不安感の様な物は背後にある、気はする。
明確に技術が解る絵と、結果でしか示せない文章と、視点では後者の方が不遇っぽく、結果、AI絵の登場を招いた…そう言うのは、あるだろうか。
今のAI絵のポテンシャルは、絵師の9割近くを無職にしかねない訳だが。マクロで見たら”それ”は好ましい事態じゃない、とは思うのだけど…この断絶が続くうちは、AI絵は発展を続けてしまう、そう言うのはもしかしたら、ではある。
当たり前だが、「面白い話」を「高い技術で描いた」方が、利益には成る、のだ。
前者は小説的であり、後者はもちろん絵である。成功、という目的の為にはこの逆はあまり考えられない。しかしそれである限り、絵は「評価が高い」にも拘わらず、常にスレーブ側、雇用される側である。文章は、結果が出るまでは不確定であり、結果が出た後でも評価は絵の部分にしかない、そう言う事態には陥る。マクロでは平等性はある、かもしれないが。円滑な達成、を目的にする時、このストレスはどうも無視できない脅威であり…今は多く、文章側が妥協する、感じには成るのだが結果、目的に到達できず事態も維持困難になる、場合がまあ…多い。
今の、ハマスとイスラエルの衝突、みたいな感じだろうか。
幾ら良いプランでも、描く側が同意しなければそれは利益に成らない。
逆に幾ら高い技術でも、プランに失敗していれば単なる徒労に終わってしまう。
妥協点の線引きは、今もどうも、出来ない。