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あげちうのブロマガ

問題ないという様の絵

最終的に、「評価」するのは人間では、無い。

「大衆」神である、時。その嗜好は、人のそれとはちょっとズレてる場合が、ある。

 

・・・だと思うのだが、これは果たしてこれで良いのか、だ。

”これ”は何か?というと、「親指を模した、若い頃に授業で作った印鑑もどき」である…既に30年以上は経過した、何か。縦2cm×横2cm×高さ10cm?という長方形の大理石、だろうか、それを与えられた自分は、そこに適当と思われる物を見出し掘り進めた、訳だ。当然だが「お手本」それは自分のそれとしてあるのだから?か、完成はそれなりに納得し得るものには成って。自身が相応満足していると、その後それは、その教室の中で少し話題には成った。

きもい。

今考えても、当時の”それ”は突然机の中から出てきたら悲鳴を上げかねない何か、ではあり、まあ良くも悪くも、遠慮なしの写実性、”それ”を向けられる題材だった、というのは或いは有る。ただ、”それ”は少し行き過ぎていた、のかもしれない。授業終了後も、教室の中でそれは暫く玩具にされる結果、少し目を離した?隙にか、”それ”は二階の窓から外に落ちてしまって…その結果、写真の有様、ではある。

ともかくそんな経緯で、その騒乱?は漸くか沈静し、自身も微妙な無念さと納得?と、それと共にそれは我が家に引き取られ、そのまま自分も興味を失った何かとして、何処かへ仕舞われた、訳だがしかし。”それ”は確かに、時々か、「あ、残ってたんだ」と、そんな記憶は有る位に、家のどこかに残り続けていて、そしてふと先日か、また、”それ”が有る事を発見した、訳だけど。

”それ”はつまりその、落下した後、のまま、そこに無造作に残って居た、のだ。

つまり、この彫像は、30年以上の月日を?そんな管理者の居ないまま、この様を、保ち続けた事になる。

「残る」という事に対して、結構前から少し想う事は、ある。”それ”は地震その他の天変地異、そう言う不測の事態を乗り越え、それはそこにあり続けてる、訳で。「大衆は神である」時、万物の支配者たる”神”がその存在を許容しない限り、それはやがては破壊される、訳だがしかし。この彫像は今もか、このまま残って居る…それはつまり、「神」それにとっては「これで良い」そう言う事、には成るのでは有るまいか。

「これで良い」訳だ、人間には完璧には見えなくても、”神”にとっては。

そして、人間に必要な「価値」それは、実際には”ここ”にあるのでは有るまいか?

…そうだろうか。

自分にとっては、何だか色々考えてしまう、そんな何かとして今は、自身の机の上に有る訳だが。”ここ”から何かを学ぶべきなのか、それとも失敗した記憶、それでしかないのか。もちろんか売り物には成らない、それでもそれは意味と共に、そこにあり続けている?

「理想」それは、何か。

実際には、リアルとは、こんな?

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