何だかブログのサーバーが新年早々トラブルだった感じだが、何とか復旧はした、らしい。
意図の様な物を考えるべきか、それともクラウドという危うさを意識するべきかはまあ、少し思案だ。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
いや、AIちゃんこういう場合は非常に妥当な。
という訳で、2025年です。
新年あけましておめでとうございます。
なんか今年で昭和100年、という微妙に切りのいい年度、らしく。令和7年、7という数値も色々神秘さみたいなものを内包はしている、という話で色々、変化を期待したい感覚には成るのだった。ちょっと感覚で、何かの「変化」があった、感じがしない事も無いがしかし、それが明確化するには。まだ少し時間は必要、そういう状況かもしれない。
全体として、「売春婦の居ない世界を目指す」それは具現化し得る、反するのは悪、みたいな状況にはなった、気はする。
がしかし?その時「変化に伴うあらゆる責任は”ここ”に集中する」と言う、そんな不意の危機感に近いモノ、も意識したりはするのだった。
ともかく、一応テレビ番組に「まあ、こんなもんで」と言う感覚に成ったのは…多少か進展と言って良い気は、する。前の様に妙に否定感を感じる、様な感覚では無くなった。「現場は、或いは”ここ”の要求通りの絵を描いている」のだ、それがこういう感じである、だけである。それはそう、不意に鏡を見てしまい何かの深刻になる、その様に近い。選ばれた?選択された、のだが。その結果に対してちょっと、不安と言うか疑念は淀む。
新年早々一発目に、不意に年賀絵なんか描いたりした訳だけども。
AI絵が微妙につまらない、的な理解は有っても「ならこれで良いのか?」には、深刻な不安はまあ、ある。
状況で言っても?自分が例えばコンテンツを創って売りに、という事は今も出来る気は、しない。自分のアイディアを他者が形にしたものがウケている、それには「そうでなければ成らない」感覚には成るのに、だ。道理として?ともかく自分が言う理屈で言っても、自分も他者からアイディアを貰って形に出来れば売れる、筈では無いのだろうか…そう言う感じはしかし、”この”ブログの閲覧数を見るたびに、もちろんニコ動のそれも加味して、そこには「やめときなさい」そんな声はある。
意識だけは、尊大でさえある。
現実に目の前に有るのは、その辺のおっさんである。
去年は酷かった。今年は果たして?ではある。幸いというか、今のところはまだ災害らしい話も無いまま、正月3が日は過ぎていった。ブログのサーバーがDdos攻撃を受けた、それは多少か想定外だったが、それでもまあ、こうして復旧した、それは、まあ「対処はし得た」そう、言って良いのかもしれない。
何はともあれ、今年は「自分の描いた絵」が、何だか自分の足場、ではある。そんな気はする。
今年は去年の様な、まるで中央分離帯に衝突する間抜けさ、の様な大参事は回避し得るのか?は、ちょっと深刻な暗雲かもしれない。とは言え、創作さえ売れるなら、というその先に今も進めてない状況、そろそろ色々ヤバいのでは?というそのリアリティも深刻に感じつつも。アイディアというか企画原案と言うか。それは、まだそれほどには欠落した感じもしない、のだが。
ともかく、古い方法論が産む「奈落」それは、今は起きにくい。人力発電所の存在は、「最低限の生活保障」は約束し得る。その結果で売春をあえてする必要は無くなる。それは明確な「禁止」をその領域に要求し得る。その時?借金を問題にした人身売買に等しい行為、それは明確な犯罪行為という扱いには成る。アダルトビデオも、無理して男性との絡みは必要ない、要求は?女性の嬌態だけではあり。”そこ”にある犯罪性も明確に問える事に成ると、テレビに関わる倫理というかも変化はする事になる。その先で、環境は。
…果たして改善するのか否か、ではある。テレビが利益性を回復する、「面白い番組が増える」時、必然的に社会のお金が増える事にはなり、経済環境は改善していくはずで。その時、創作者への要求も「売れる物を」と言う視点で需要を増やす事には成る、筈ではある。売春婦を必要としない、それで発展し得る社会それは具現化出来る、筈ではある訳だが。
とは言え早速仕事で子供のいるご家庭に訪問し、”その”期待に応えられなかった感じは何か、深刻さはある。