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あげちうのブロマガ

七夕にふと考える事

馬鹿には出来ない話だ。

しかし、最後?に居るのが「馬鹿」と言う、その何というか虚無感、ではある。
そして、”それ”に対して「貴方は馬鹿です」と、理解させる物を持ってない自分にも、多少の理不尽さは感じる。

相手の理解の中では、今も或いは何かの計略だった、訳だ。車に細工され、自分はあの事故を起こした。自分を排斥したい人々の暗躍である、だが私はまだ負けていない。

何故なら、私は神だから、だ。

”神”を支える人々も居て、彼らは「アートスケール」それでは30点以下の、買い取り不可な領域の中で、そこをこそ真実の美!の如く断言し、その場で利益を出そうと?している。ヒットラーも、もちろんその中に居た、のだ。自分は、アートスケールが無かったから彼に、その作品は商品価値が無い、事を伝える事が出来なかった、と思ったが。

そうだろうか、今は少し疑問ではある。

ともかく、「神とは何?」は、今もってなお、混沌ではある。自分は「大衆は神である」今まで売れた作品を認めたのは全て”大衆”だから、というかなりシンプルな理由で断言してしまった、が。もちろん自分も?他者に同意が得られにくい、のは理解はしてて、結果でしか示せない、という事から現状まで続く、その道のりな訳だが。

現状を鑑みても、同意を得られてる感じはなんか、微妙だ。

「大衆は神である」”それ”を換金しない、のも全て”神”の責任ではある。自分には責任は無い、単に神の思惑でしかない、それが自身にとってはかなり窮乏する感覚なだけだ。神様、なんで?は常に問う話、返答の様なモノは無い訳では無い、ともかく、「責任は無い」自分は今も、そこには、居る。

責任が無い相手を、責める事は出来ないのだ。
その時、それは、責める相手にこそ返っていく。

その結果で相手に不幸が発生するとしても、それは、その人の愚かさでしかない。

これは、「神とは何か?」その、戦い?なのだろうか。
自分としては、その相手は25点の作品に執着する、そこに徒労感は重いが。

「面白くない」という声だけでは、相手は引き下がらないのだ。

同じく、「私は神なのですよ?」その、断言と共に、それはそこに有る訳だ。

神を否定しても意味は無い。

ただそれは、その時、”その人々もそう思っている”のだ。

私は神だ。

神は正しい。

飯塚幸三氏はもう、90歳ではある。

”まとも”だろうか、ともかく相手に「貴方は馬鹿です」それを理解させる術は今も、無い、周囲に対しても、だ。「神」その定義が曖昧かつ、相手との同意が無い状況では、彼の中では自身が神である、それは真実で、あげちうの中では「大衆」その判断こそが神である、それは揺るがない。

紫綬褒章を受章し、昭和、平成を通し、日本の、或いは世界の?ロジックの中心に居続けた人、ではある。彼はか、そこに有り、そして、その結論に至った。

その費やした90年とは、一体何か。

 


使用イメージ
https://publicdomainq.net/milky-way-star-festival-0033482/
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10415811

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