一応、意思決定の流れは理解からすると「創作」→「現場」では、ある。
創作?でまず仮の試行をしてみて、その結果を踏まえて現場は動く事には。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
「お友達も呼んじゃった、ダメ?」とか有りえない事が描けるのが漫画、ではある訳だが
故にそれが「良い結果ではない」と判断されるなら?その作品の意向は無視して良い、訳だ。
ともかく、何はともあれ「まずお金」それはまあ、ある。やる気、元気、見通し、期待その他もろもろ、無形であっても「お金」成果報酬的なモノは存在し、”それ”を創れるのが創作の強みであり更に目的でさえある。基本的には「正義は勝つ」”正しい”事をしてれば問題は起きない、起きてもリカバー出来る…その提示が「利益」と言う事には成る、がしかし。一応それが「面白い」実用性がある、結果を期待できるそれには成るのだが。立場や状況によって、そこにはちょっと差が出る。
この最終的な「面白い」が、どうも統一感?というか…利益と直結し難い現状はまあ、今も続いては居る。
その「面白い」の土台として「漫画の神様」手塚治虫氏の作品は、不意に大きな影響力を持っているかもしれない?とは、少し考えたりはした。タイトルは忘れたが、話題のブラックジャックの作品の中に「人を轢いてしまったトラック運転手が、その犠牲者の為に全てを投げ捨てる話」みたいなのも、ある。その是非はちょっと、読んだ当時にしろ混沌だった。
トラック運転手Aは、些細な不注意からか寿司職人Bを轢いてしまう。結果でBは両腕を損失する事にはなり、寿司職人としての生活は断たれてしまった。責任を感じたAは、Bの腕の代わりに成る事を決意、Bの厳しいかの指導の元、寿司職人の道を目指す。結果で十分な腕前に至ったAだったが、しかし今度は彼が交通事故で死んでしまい、しかし”腕”は無傷で?残った。Aの妻はその腕を、Bに移植してやる様に願い、ブラックジャックの施術により、BはAの腕を用いて腕を再生する。Aの妻は、Bに「また会いに来ても良いですか?」と。
トラック運転手、色々失いすぎている様な気は、する。
「テーマは?」と考えると、この場合、テーマが不意に解らない、有るとしたら「これは悪夢」だ。手塚氏の漫画としては最終的には「これは漫画」と言う大前提はあるようで、一応「否定から肯定」現実に有りそうな状況設定からの、一種のシミュレーション、に終始している、だろうと言うのは言える訳だが。それはこの例の場合、多分、「いやちょっと無い」的な感覚でオチには成っている…気はする。
「ブラックジャック」のエピソードの一つ、であり。色々と失意の先にある話、何かの「限度」それによるモノ、そう言うのはある、だろう。権威性があればあるほど、”それ”の意向は現場の「常識」的な理解には成る現実は、ある。それを都合よくか制御したい、それは残念ながら場の普遍的な邪として、深刻ではあり。
では、どうすべき?
ちょっと考えたのが、「寿司職人Bはその後、再びの交通事故で亡くなってしまい、元トラック運転手AはBの店を夫婦で、そのまま継続する」と言う方向ではある…テーマ的には「責任には限度」と言う感じ、だろうか。劇中でも何故か、Bは自分の母親に?寿司を食べてもらう、事に固執するが”その前に”既に彼は店を持った状態ではあり、BJさえ食べに来ている、のだ。「その状態で母親は彼の寿司を食べてない」のか?では、ある。それをご都合主義と言うべきだろうか。不意に思うのが、彼の母親はそれまで、彼の寿司を美味しいとは思わなかった、訳だ。何か、母親には母親としてか「苦になる何か」があった、のでは。
ともかくその劇中でも、Bの「指導」は良くも悪くも厳しく、理不尽ではある。「横暴」と言って良いそれは、加害者への無限の賠償を要求する絵に、結果的には成ってしまっている訳で。「それは過剰なのでは」それは、読後としてはちょっと思う。
なので、「何故母親は彼の寿司を、それまで食べていないのか?」と言う視点で見ると、Bの事故は何かの因果の結果なのでは、そう考えても問題ない、気はする。「俺の寿司を美味しいと思わない奴は味覚音痴」みたいな尊大さは、実は結構あったのでは。しかし、例えば”それ”が編集側の意向だったりすると。それはまあ、「Bは因果で死にました」は、まあちょっと彼らにはいい話では、無い。
現実にも、「作家は私のペン先である」と言う意識の編集は、それなりに居る様、ではある。
この辺の感覚は面倒くさいので、故に「外部から十分な殺菌を行った原案」を貰うべきだ、というのが主張ではある訳だが。その時、出版社レベルから考えても現場は「オーダーを元に仕事をしている」と言う状態に統一される。ともかくその時、プロットは水際で査定される事には成る訳だが。テーマを重視するなら、一応は後者の方が「正しい」気は、する。
ちょっと意識的には重大な話ではある、様で。「何処まで?」にこの時、”限度”が発生するそれは、ちょっと大きい。
平等、という神はしかし、正解を結果でしか教えない、それは今も深刻に面倒はある。