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あげちうのブロマガ

先生と言う名の子供達の群れ

一応昨日の話も、「考えればネタは出てくる」そんな気もする、のだけど。

その結果が自身の状況の改善、そこに繋がるか?は、まあちょっと不透明の中ではある。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

「発想法とか言われても」まあ昭和から定番の話ではあるのだが

 

「先生」は今、後進に何を伝えればいい?も、ちょっと悩む部分はある。今の状況では、創作志願者?の多くは「アーマードコア6」で全てのミッションをやり終えて。そして対戦に興じてる状況。そして、そこで何かの失望に淀んで選抜されている、そう言う感じではある。下層からの脱却を”そこ”に夢見る先にはしかし、やっぱり今も、熾烈な椅子取りゲームそれが残って居て…それはもちろんか、確実ではない。

その上でもちろんか、その対戦はオーダーではない、のだ。あくまでも、クオリティ維持の自主トレみたいな物でしかない。理屈では、ゲームはその行為を通じて「何か」へ支援する事で、その対価を(或いは感謝を)糧とする。その先にこそ目指す世界はあるしかし。そこに居る先生方にしろ、「あなたはどうやってそこでその地位を確立したのですか?」それは、かなり多くがプライバシーではある。

気づいたらこうなっていて、それには最終的には理由はあったみたいだが自分は、知らなかった。

今、前?に居る人々の多くはそんな感じではあろうか。昔の作家らは「すげー頑張ったんだよ!」と、ほぼ断言するがしかし、自分の実感で言っても頑張った事は結果には、必ずしも繋がっていない。ストレスなく何とか、というのを指向するからかもしれないが、頑張る結果の多くは、選抜に対してはあまり意味は無かったかも。

非常に単純に言えば、漫画家なら編集側の飼い犬に成れる人が選ばれて、その人々にはその屈辱に耐えねば成らない理由があった、そんな感じだろうか。その領域でクオリティ、それは必ずしも武器に成らない。アーマードコアでの対戦で如何に勝利出来ても、採用される理由には成らない訳だ。

そんな環境だからこそ、だろうか。亡き主君の為に身を賭す、そんな赤穂浪士とかの話がなんとも、残っちゃう現状ではある。

ともかく一応?「ガンダムSEEDフリーダム」の成功は、その”上”にある程度は変化を要求し得る…そんな状況には成った、気はする。ただ、その時も、結局は「上のオーダー通りに」単に仕事をするだけ、そう言う環境に成ってしまう、それは若干の失望としては、ある。ネット動画とかで、プロ顔負け?の派手なアクションシーンなどの動画を上げている場合なら尚更だろうか、「この程度の絵面なら自分でも作れるのに」それは、昭和の頃だって考えただろう、そう言う若さみたいな物ではあるのだが。

もちろんか、そんな彼らに「オーダー通りに」と言っても、それは出来ないのだ、既存のコピーが殆どであり、オリジナルを背負う的な精神的な柱、そう言うのは、無い。

そしてもちろん?彼らの意向を或いは採用しても。その先に有るのは芦原妃奈子氏の悲痛、ではある。考えたらボカロPの結構な数も、病気やなんやかんやで死亡している。小さな領域の正義は、マクロになるにつれて蛮勇から反逆に成っていく、それは最終的には殲滅対象でさえある。そういう自分を自覚し、そしてしかし。

要するに、「働け」言われたとおりに、極論すると、まあ要求はそうなっている現実はまあ、深刻なのかも。

それは一応、オーケストラと指揮者、その関係の様ではあり。演奏者は指揮者の要求に応じて奏でなければ成らないし、その瞬間に指揮者の指揮棒に対応せねば成らない。その労苦の対価は結果ではある、如何なる演奏を披露し得たか?そこに関わった自分を評価できるか。指揮者の小澤征爾氏は、その時、その領域に対して然るべき様を見せる事は出来たのだろうが。

小澤征爾氏が亡くなった、という報。また一人、世界を指揮してきた人が居なくなった訳だ。その時、不意に不安がありはする。彼が見せていた理想と、「ガンダムSEEDフリーダム」そのヒットが齎す変化と、それは果たして相容れるのか、或いは。

先人は今、「正義」それを語れるのか。「売れればいい」は、何かの虚無を孕みは、する。

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