不意に、「創作者の夢」その先に、「人力発電機」それは有って。
そしてそれが、創作者にとっての失望、それでしかないという現実も、或いは有るのだと、少し。
「アートスケール」による換金、”それ”にも同意がない時、創作者の創作が利益に成らない、それは誰の責任か、ではある。
「こんな現実間違っている!」「じゃあ出ていく?」この場合、どっちに過失は有るのか。そして多く、最後に前者は或いは、世界その物から出ていく事になってしまう。改定案それは、提案せねばならないしかし、それが物理その物に逆らっている場合、その「改定」には、色々と重すぎる無理は出る。映像で如何にその「改定」が美しく魅力的に、そして或いは具体的に描かれていても、それは所詮最後まで漫画、である。
そんな現実間違っている。
創作者の一部は、何処へ踏み込んでしまうのだろう。
創作者だけ、ではないのかもしれない。今も、想像以上の成果を出していても、「ストリードの連携」それは、その領域では一般論、という事には成らない。同じく「大賀さん」それでの決着も、だ。そして最後は捕まって吊るされて、人々への見せしめにされる、”そんな感覚”を残して消えていく。実際には、ゴッホもそうだが「誰も自分の絵を買わない」結果で困窮し窮乏し、そして命を絶つ、様な感じになってしまう。それはまだ良い例だが、この蓄積が結局はヒットラーを産むのかもしれない。「私の絵さえ買ってくれれば!百兆円で!」的な、それはでも多くが、ウケた何かの、本人さえ自覚のない”模写”だったりする。
最終的に「風景画」それは、自然の模写、ではある。それがそれでしかないなら?それは単なる模写に成ってしまう、のが…現実の評価、そう言う部分はあって。今の理解では、”そこ”に作者は主張、打開、或いは希望、そう言うのを書き加えねば成らない、が。瘴気を放つ、というべきか、そう言う創作の多くは、それは載っていない、有るのは自己顕示、だけだ。
私は凄いでしょう?
”それ”が、生い立ちなどを背にした物だったにしろ、一般論でそれは認めても、評価としては低い。
認めない社会が悪い、それに対して、認められるように作品を修正する、そして突破?していく人々に対して、奇妙な敵意と対抗を見せる、そう言うのの是非だったりも、する。不思議なくらいだ、独裁創作は否定されると、それその物がもう、作れなくなる。当たり前と言えばそう、自身の願い、それはそこで物理的な否定を受けたのだ、壁に衝突する交通事故を起こした後、同じ事をする気には成れない。でも一年以上は、それを認められず社会への憤怒、それを滾らせていくというのが…彼らの現実だったりはする。帰ってこれる人々は幸運なのか、戻れなくなる奴らはそこまでなのか。そこには感情論の戦争は起きていくのかも。
そう言うのが自身へ向く人はまだ良い人か、幸運かもしれない、もちろんそうとも言えない、病や鬱を発症してっていうのも決して無視できない悲痛だ。或いは憤りが他者へ向いて犯罪にまで至る時、それはもう呪いを背に二度と、願う場所には届かなくなる。社会への憎悪は、第二、第三のヒットラーと化し、世界を騒乱へといざなって行く訳だが。
「せめて労苦くらいは」その先に、人力発電機はある。”万人に”要求し得る労苦の、シンプルな換金だ。もちろんその時、漕ぐフォームの良しあし、それはどうでもいい話にはなるのだけど。
私を特別扱いしてください。
”それ”を拒絶する世界の物理は、何か間違っているだろうか。
そして或いは現実とは、そんな善意の顔をした堕天使を倒して、何かの糧を得るのかも。
それが現実でも?
矛盾をはらみつつも、最後に有るのは物理ではあるのだけど。