映像が語り始める その3 伊周の薨去
中関白家の嫡男、藤原伊周が衰弱して病の床についている。光り輝くような栄光とそこからの転落と挫折、こうした運命を誰が予想していただろう。寛弘7年1月27日、見舞いに来た弟、藤原隆家や息子の道雅らが取り囲むなか、伊周は無念の思いを口にする。
「父も、母も、妹もあっという間に死んだ。俺は奪われ尽くして、死ぬのか……」
青みをおびた花びらのようなものがはらはらと舞い降りている。花か、雪か、はたまた定子の魂か?
「敦康親王様のことは、私にお任せください。兄上、安心して旅立たれませ。あの世で栄華を極めませ」 隆家の言葉が聞こえたかどうか、かすかにほほ笑む伊周。
「雪だ」
定子が一条天皇の中宮として中関白家が隆盛を極めていた頃、内裏に降った雪で雪遊びをした日のことを思い出したのだろうか。悲しみの日にも雪は降った。若くして亡くなった定子を鳥辺野に土葬した帰りにも、歩む葬送の列に大雪が降った。
「誰もみな消え残るべき身ならねど ゆき(雪/逝き)隠れぬる君ぞかなしき」
定子の死を悼んで、伊周が詠んだ和歌である。伊周は、漢詩の才もあり、また和歌も巧みであった。時々催された歌会などでは、伊周の詠んだ和歌に感動して涙する公卿が多かったという。
母親、貴子の墓参りに弟、隆家と一緒に行った折に詠んだ和歌もある。
「桜もと降るあは雪を花と見て 折るにも袖ぞぬれまさりける」
ドラマで描写された臨終の床で、舞い散る雪か花かというシーンを彷彿させる和歌である。
豊かな優れた才能を持っていたはずの伊周は、最後は恨みと無念と怨念を抱えて37歳で亡くなった。寛弘7年1月28日のことである。
流配された大宰府の帥殿(そちどの)と呼ばれるのを嫌がり、自らを古代中国の官職名「儀同三司」と自称した。死因は父、藤原道隆と同じ飲水病(糖尿病)と言われている。死後、その邸だった室町第は群盗が入るほど荒廃し果てたという。
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