できる母親は息子をスポイルしがち?
「光る君へ」にはさまざまな夫婦、兄弟、親子が出てきて優れた家族ドラマとして見ることもできます。特に印象に残るのは何組かの母・息子の関係です。
藤原詮子とその一人息子一条天皇
高階貴子とその長男藤原伊周
藤原道綱母とその一人息子道綱
源明子とその次男藤原顕信
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母親はみな優れた学識を持った当時のエリート女性たちです。それぞれの夫(息子にとっては父親)との関係も当然その子育てに影響したことは確かです。
藤原詮子は子をなした夫、円融天皇との間が冷え切っていて、その愛情を息子に注ぎ込みます。ゆくゆくは即位し天皇になる我が子に、必要なものをしっかり身につけさせ、立派な賢帝に育てあげます。しかし成人した一条天皇から激しい怒りをぶつけられます。「私は母の操り人形だった。母のいいなりだった」と。よかれと思ってしていたことが息子を苦しめていたのだと突きつけられ、深い悲しみを味わいます。
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高階貴子は宮仕えの経験もあり今でいうキャリアウーマンで、夫、藤原道隆とは職場恋愛での婚姻です。長女の定子は一条天皇の后になり、夫は関白にまで上りつめ、二人の息子も見目麗しく文武に優れていて、まさに光り輝くような家族です。貴子はとても教育熱心だったと言われています。自身の学識を惜しみなく子供の教育に活かしたことでしょう。そんな一家が道隆が病死してから転げるように衰退していきます。流配を告げられた伊周と別れるのを嫌がった母貴子は、車に取り縋って同行を嘆願したと言われています。伊周の没落の原因は運不運もあったのでしょうが、可愛がられ過ぎて逆境を跳ね返す力が育ってなかったのかもしれません。「心幼き人」という人物評が伝わっています。
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藤原道綱母は、「蜻蛉日記」の作者として有名で和歌にも優れた一流の文学者です。藤原兼家との間の一人息子、道綱を溺愛していました。道綱は心優しいおっとりした人でしたが、学才はなく凡庸だったと言われています。好きな女性に和歌を送るのに、母親に頼み代わりに和歌を詠んでもらったりしています。道綱をよろしく、と兼家にいつも頼み込んでいたのを思い出します。不出来な子でも可愛い我が子、なんとか幸せに出世していってほしいという親心ですね。道綱は政争にも巻き込まれず、正ニ位・大納言になりました。
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源明子は、藤原道長の妾で四男ニ女の子供に恵まれます。明子は道長の嫡妻、倫子よりさらに家柄のよい高貴な出自で、プライドも高い女性でした。長男、次男が倫子の子供たちと年代も近く、どうしても引けを取りたくない気持ちが強かったようです。土御門邸の子供たちに負けたくない、政変で敗れ不遇だった父、源高明の名前を汚したくない、お家再興が叶えばという思いもあったのかもしれません。長男は穏やかな性格で土御門の頼通、教通とも仲良く過ごし、遅れをとりながらも順当に出世をしていきます。しかし次男の顕信は明子からのプレッシャーが強かったせいか、自分の身分がなかなか上がらないことに苛立っていたようです。三条天皇即位後に、蔵人頭という大切な役目への就任を打診されます。天皇からその意向を聞いた道長は、顕信にはまだそんな大役は無理と断ってしまいます。出世への道を閉ざされたと思い込み、顕信は比叡山に出家してしまいます。それを聞いた明子は悲嘆にくれ心身不覚になったと言います。
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子育てには正解はないと言います。一人一人、親も違えば子も違う。その時の社会情勢も違います。ただ言えるのは、親と子は別人格、どんなに顔、姿が似ていようが、親の思いを被せ過ぎてはいけないのではないでしょうか? 私の息子が小さい時に幼稚園の先生に言われたことがあります。「早く花を咲かせようとして、引っ張り過ぎては駄目よ。大事なのは根っこを育てることだから」。子供はいつか親から巣立ち、一人で歩き出さねばなりません。その歩き出すときにいかにしっかり大地に軸足を踏ん張れるかが問われるのでしょう。
平安の時代は家柄、身分にがんじがらめ、結婚も家のため、親のため、自分の裁量はいかせないケースが多いですが、そのしがらみのなかでも自分らしく生きようと悪戦苦闘していた人がいたことをドラマから教えられています。
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