透明人間たちのひとりごと

鷲と甲虫の物語

 イソップには、何かある種の予知的な 能力 があった
のではないだろうか

 ある意味で 「イソップ物語」<予言の書>
なのかも知れない。

 そんなふうな考えに思い至ったのは、物語を読み返すに
つれて感じるようになった奇妙な違和感です。

 舞台設定に対して登場する動物たちの見事な演技力や
セリフは脚本と演出の妙だとしても、その装置や照明など
の変化に見え隠れする微妙なズレの存在に気づかされた
からなのです。 

 私がいつも疑問に思うのは、そんな奇妙な違和感と妙に
腑に落ちる見事なフレーズとレトリックの存在です。

 言わば、シックリ感違和感 のギャップですね。

 それらを 2号 は、『大乗と小乗の乖離』
なかで、イソップ物語に慣れ親しんだそれぞれの文化圏の
人々の潜在的な意識が無意識下の集合体としてそれぞれ
の文化の仕様に合致する 「イソップ物語」 を形成し
その内容を改変・創造していったからだろうと推察しました。

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/234.html(参照)

 そして、それをユングの言う<集合的無意識>
の為せる業だと看破してみせたわけですが、そうした推理
や表現方法は確かに面白いとは思います。

 しかしながら、

 イソップは、すでにソクラテスの時代には伝説上の人物
として崇(あが)められていたわけで、どこか神がかり的な
要素や逸話が残されていたに違いないのです。

 私がイソップに惹かれる理由の第一は、なんと言っても
お仕着せがましくないことです。

 哲学というかたちで、形而上学的に人間界の出来事を
論理的に解説して理論立てた学説を後世の人々に伝え
広めた偉人たちは少なくありません。

 古代ギリシャだけでも、七賢人の筆頭で 「哲学の祖」 と
されるタレスをはじめ、ソクラテス、プラトン、アリストテレス
など数え始めたらキリがありません。

 しかしイソップほど、倫理的な教えや社会における処世の
極意といった実用かつ有益な理(ことわり)を神的なまでの
霊感から溢れ出る言霊として語り伝えた人物はありません。

 教訓的な内容についても、わざとらしく意見を表明したり、
論理を展開させたりはせずに、ただ単にさらっとした語り口
の物語として私たちの知的訓練や人類に共有の知的財産
(パブリックドメイン)としての時宜を得た教えを説いている
にすぎないのです。

 そしてそれは、決して、

 論理的にはならずに、理論にも走らず自然にほとばしる
言霊としてのイソップの寓話は、言葉なき生き物(動植物)
たちの登場をもってさらに私たち聞き手の魂を大きく共振
させ心を傾注させるものとなったのではないでしょうか。

 
 さて、ある時、

 イソップはリュディア王クロイソスの名代としてデルフォイ
(太陽神アポロンの神殿のある地)に遣わされました。

 アポロンの神に犠牲を捧げるためと、王はそれに加えて、
この地の住民たちに金をやるようにと命じていました。

 ところが、この地の人々はとんでもない怠け者たちばかり
だったのです。

 ギリシャ各地から捧げられるアポロンへの犠牲や貢物が
絶えることはなく人々は働かなくてもそれだけで十分に生活
することが可能だったからです。

 この様子を見たイソップは、「デルフォイ人はまったく働こう
ともせずに、神に捧げられたものだけで生活している」と彼ら
を罵り、アポロンの神殿に犠牲を捧げただけで預かっていた
金は王に送り返してしまいました。

 その事実を知ったデルフォイ人たちは、アポロンに対する
挑戦だとばかりに怒りを爆発させ、イソップの荷物のなかに
神殿の神聖なる黄金の杯を隠し入れ、帰途に着こうとする
イソップを捕らえて、濡れ衣を着せてしまったのでした。

 神聖なるアポロンの金杯を盗んだとなれば、即刻のうちに
死刑と相場は決まっています。

 刑場に曳き出されるイソップは強制的に崖の上に連れて
行かれました。

 いよいよ、処刑(崖から突き落して殺す行為)が、始まろう
とした時にイソップはデルフォイ人に向かって言ったのです。

 「そのむかし生き物たちが人間と同じ
     言葉をしゃべっていた頃に …」


 こうして、「ネズミとカエル」 の話が始まったのです。


    ――― 『ネズミとカエル』 ―――

  丘に暮らすネズミが運悪くカエルと友だちになりました。

  仲良しの二匹は、いっときも離れているのは嫌だと考え、
 カエルの思いつきでお互いの足をひもで結びました。

  丘の上にある金持ちの蔵で二匹は食事を済ますと散歩
 とシャレて池の淵まで歩いてきました。

  すると、いきなりカエルは池に飛び込みネズミを深みへ
 と引き入れたので、ネズミは溺れてしまいました。

  そうこうするうちに、上空にいたトンビが漂っているネズミ
 を見つけると爪に引っ掛けて舞い上がりました。

  それとともにカエルも宙に吊り上げられてトンビのえじき
 にされたのでした。


 教訓: 生まれや好みの違う者同士が一緒になっても、
       あまり良い結果は得られない。
 
 と言うことなのでしょうか それとも、
 
 力ずくで処刑したとしても、いずれ報復するものが現れる。

 (私はあなたたちに殺されるだろうけど、いずれかの日に
もっと大きなものがきっと復讐してくれる)


 イソップは、そう言いたかったのでしょうか。

 でも、デルフォイ人たちは聞く耳を持っていませんでした。

 つづいてイソップは、「鷲と甲虫」 の話を語り出します …

 
       ――― 『鷲と甲虫』 ―――

  一羽の鷲がウサギを追い回していました。 でも、誰も
 ウサギを助けには来てくれません。

  甲虫の棲み家を見つけたウサギは、そこに逃げ込んで
 甲虫に救いを求めました。

  鷲がウサギに襲いかかろうとした時に、甲虫はウサギ
 を励ましながら鷲に向かって言いました。

  「私に救いを求めているウサギをどうか助けてやって
 ください」

  鷲は小さな甲虫をあなどって彼の見ている前でウサギ
 を食べてしまいました。

  この時から甲虫には復讐の気持ちが芽生え、絶えず
 鷲の巣を見張るようになったのです。

  そして、鷲が卵を産むと、いつでも甲虫は巣に飛んで
 行って、卵を転がしては落として割ってしまうのでした。

  この鷲はゼウスの神鳥でしたが、どこへ行っても追い
 かけられてしまうので、とうとうゼウスのところに逃げ込む
 ことになりました。
  
  そして、「ヒナを産み育てるのに安全な場所を授けて
 ください」 と神にお願いしました。
  
  ゼウスは、その膝の上に卵を産み落すことをお許しに
 なりましたが、それを見ていた甲虫は丸いフンのかたまり
 を作ると飛び上がってゼウスの膝の上にそのかたまりを
 落としました。

  ゼウスは、フンをふるい落とそうとお思いになって立ち
 上がられたとたんに、うっかりして卵を地上に放り出して
 しまわれたのでした。

  この時から甲虫の現れる季節には、鷲は巣を作らない
 と言われているのです。


 教訓: どんなに弱いものでも仕返しが出来ないほどに
       無力ではないからバカにしてはいけない。

 こうして …、

 イソップの話をわずかに気にとめただけのデルフォイ人
たちは、崖下に彼を突き落として処刑を終えたのでした。

 さてと

 これらは死を目前にしたイソップが語ろうとした説話である
として後世に伝わっていますが、<復讐>という情念は
イソップには似つかわしいものではありません。

 それよりも、前もってデルフォイの地で殺されることをある
程度まで予見していたということではないでしょうか

 イソップの死後、デルフォイの地は度重なる飢饉や疫病や
災害に長く悩まされ続け、その災難はアポロン神託
基づくイソップ殺害の補償金(身代金)を完全に支払い
終わるまで続いたということです。

 ところで

 自分のテリトリーである池にネズミを引き込むカエルと
ウサギを襲った鷲がデルフォイ人を指すことは自明です。

 池に沈められたネズミと鷲に殺されかけているウサギが
イソップを暗示していることも明らかですね。

 それではトンビと甲虫は、そして、全能の神ゼウスとは
いったい何を表現しているというのでしょうか
 
 まずはトンビですが、イソップの死を贖(あがな)い補償
すべしとする<アポロンの神託> でしょう。

 そして、

 イソップの死後に、デルフォイの地に立て続けに発生する
疫病や飢饉や災害といった災難こそが甲虫の正体です。

 さらに全能の神ゼウスは、「正義」 を示しています。

 え~、でも、鷲の願いを聞いて、ご自身の膝の上に卵を
産むことをお許しになられたよね eq

 そうです。 だからこそ、自らの膝の上を指定したのです。

 それこそがイソップの巧妙な罠、妙に腑に落ちる見事な
レトリックと違和感の存在なのです。
 
 
 それでは、冒頭でふれたような 「イソップ物語」
覚える奇妙な違和感とは具体的には何でしょうか。

 今回で言えば、互いの足を結びつけることの必然性とか
、鷲(猛禽類)の習性や狩りの方法などの整合性です。

 たとえば、ウサギが何の力もない小さな甲虫にすがったと
しても、それは 「溺れる者はワラをも掴む」 の心境だろう
から不思議ではないかもしれませんが、鷲が時間をかけて
悠長に獲物を追い掛け回すでしょうか。

 獲物を見つけたならば電光石火、文字通りに一瞬にして
獲物を鷲づかみにしているでしょう。

 ゼウスにしても、決して、悪気はなく思わず立ち上がって
しまった結果、地上に卵が落ちたように見えるけど本当に
そうなのでしょうか

 全能の神ゼウスならば、膝の上でなくても、他にいくらでも
安全な場所を提供できたでしょうに …

 鷲に懇願され自らの膝の上に卵を産み落とすことを承諾
したとは言え、「義」 は甲虫にあって鷲は 「不正」 であると
ゼウスは裁定を下していたのです。

 その 「不正」 に対する甲虫の 「義」 に報いる方法は一定
の苦しみを罰として鷲に与え、同時に神とても護(まも)れぬ
沙汰があることを鷲に悟らせなければならなかったのです。

 「こりゃあ、うっかりしてしまった」 というシチュエーションと
「お前たちの産卵期は甲虫の現れない季節にしよう」 という
妥協案で鷲を納得させたということではないでしょうか。

 もうひとつ、<神の膝の上に置かれた卵>というのは、
実に象徴的で暗示的なものなのです。

 物語のなかで、ウサギは甲虫の棲み家を見つけ、そこに
逃げ込みます。

 そして、家主である甲虫に対して救済を求めます。 

 イソップも、捕縛される前にアポロンの神殿に逃げ込んで
神(アポロン)に救済を求めたのですが、デルフォイ人たち
によって曳き出されてしまったのです。

 ここで言う

 <神の膝の上に置かれた卵>とは、アポロンの神殿に
逃げ込んだイソップの命をも同時に象徴しているわけです。

 その卵は地上に落下して無惨にも グシャグシャ
割れてしまう。 

 つまり、崖から突き落とされて絶命する自分自身の運命を
前もってイソップは暗示していたということになります。

 そう思うと、それが物語の構成やプロットとしてどうしても
必要不可欠な仕掛けだったとしても、そこにイソップの罠と
いうか、わざと気づかせようとするかのような微妙な不自然
さというものを感じ取ってしまうわけなのです。

 さて

 そんな に、皆さんの方こそが大いなる 違和感
覚えてしまうというのが実情なのかもしれませんが …

 もう、これ以上続けると、しつこい甲虫だと言われかねない
ので、そろそろ終わりにしましょう。

    すっ、すでに、もう、とっくに …

 私って甲虫 right 甲虫 right (わし)と甲虫

 なの nose4nose9ase2


 『鷲と甲虫の物語』 でした

コメント一覧

十七年蝉
最後が意味不明ですが、作り話ですから上出来でしょ。
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