Aino's Dream

職業写真家Aino(日本写真家ユニオン会員)のオフィシャルブログ。写真って夢みたい。。ゆるりゆるりと夢を追い続けて。。

文章を書くことについて

2013年03月24日 | 独り言

 

文章を書くことについて、幼い頃から一定の評価を得てきたように思う。いや、この際、評価など、どうでもいい。私は文章を書くのを好んでいる。

これは、遺伝も大きく関わっているように思う。私の祖父はロシア文学・演劇の評論家であった。著書・訳著をたくさん世に送り出した。そして母も文章を書くのが好きだ。しかし、母がまだ若かりし頃、父である私の祖父に、作家になりたい、と言ったことがあったそうだ。そうすると、祖父はものすごい剣幕で怒り、作家というのはそんな甘っちょろいことじゃない、大変なことなんだ、と言ったという。

今となっては私にも、祖父が言ったことの意味が分かるような気がする。何かを生み出すことは身を削るようなことなんだと。

そして、私は最近、そういう類いの、身を削るような想いで文章を書いている。それは、あまりにも赤裸裸すぎると、自分でも分かっている。しかし、書かずにはいられないのだ。私には清算することが多い。それは、私の頼みの綱である、文章を書くことによってできるのではないかと、微かな、非常に微かな願いを持っている。だからといって、ちょっとした数の人が訪れるこのブログに書くことはないではないかとも思う。でも、個人的に文章を書いたなら、それはただの自己満足で終わってしまうのではないかと恐れているのだ。

誤解を招きたくないが、私は、文章の内容から伺えるような、真面目な人間、というのだろうか、物事の奥底をストイックに考えすぎる人間ではないかもしれない。よくわからないが、自分では非常に楽観的な人間で、本気で自分のことを運がいいと信じ込んでいるような人間である。ただ、その分、文章を書くことによって清算したいと思うことも増えることになるのだ。


生活について

2013年03月24日 | 独り言

 

私は今の生活をとても大切にしている。

朝はオットより2時間ほど前に起きる。最初にやることは、緑茶をいれることだ。ガラスのポットで湯が緑色になるのをぼーっと見ている。そうして30分かけてポットの緑茶を全部飲む。温かいあのきれいな緑色の液体が体に入っていくのを感じるのはとても素敵だ。

飲み終わると活動開始だ。ネコにご飯をあげて、新鮮な水を与える。洗い物ををして(私は後でも書くが夕飯を食べ終わった後の時間をとても大切にしているので、洗い物は次の日の朝にやる)、水で洗剤をきれいに落としながら昨日にさよならをする。その他にもいろいろなことをするが、一番楽しいのは、朝に常備菜を作ったり、夕飯のメニューを考えたりその下ごしらえをすることだ。オットが夜疲れて帰ってきた時に、何もかも吹っ飛んでしまうような温かい料理と温かい家庭でいることに、必須の条件だからだ。オットが私の作ったものを美味しいと言ってご満悦でビールを飲んでいるのを見るのが好きだ。そしてオットが起きてくると、味噌汁とご飯とちょっとしたおかずを出す。そうして、オットを元気よく送り出す。その後、私も自分の義務にとりかかる。

たまに、友達とランチをし、またたまに飲み会や友達と外食をする。

夕方、風呂に本を持ち込んで半身浴をする。汗がダラダラ出るのは素晴らしい感覚だと思う。そして、風呂を出てからはオンガクを聴きながら本を読み続ける。オットから帰るメールが届くと、なんだか生気がみなぎって、7匹のネコ達に「パパが帰ってくるよ」と告げる。オットの帰りを待ちながら料理をするのはとても幸せな気分がする。そして、1時間ほどでオットが門を開ける音がする、私はキッチンから飛び出して、玄関まで小走りする。ネコ達もついてくる。オットが玄関を開けたとき、元気に「お帰りなさい!」と言ってオットの鞄を受け取る。

夕食後は、寝室に行く。私は(オットもそうだろうが)その頃にはすっかり疲れきっているが、寝室でネコ達とテレビを観るその時間がとても好きだ。まさしくそれは「癒し」だ。テレビは大抵、お笑いを中心に観る。そうして、オットと笑う。ネコ達がくつろいでいて、私とオットが笑っていて、それはなんて幸福なひとときなんだろう、と思う。

というような、特に変わったことのない、ありふれた生活だ。でもどんなにありふれていようが、どんなにささやかなものであろうが、私はこの生活を宝物のように思っている。


「雪のひとひら」ポール・ギャリコ

2013年03月24日 | 

 

この本は雪のひとひらが地上に舞い降り、そして海で死んでいく物語である。

地上に舞い降りる時の生への喜び、美しさ、生きることの哀しさ、そして静謐な死。世界が、生きることが、とても素晴らしく美しく見えてくる本だった。

私は、原則として、本末尾の訳者あとがきや解説を読まないことにしている。以前、かもめのジョナサンを読んだ時に、訳者である五木寛之がその物語をめちゃくちゃに批判をしていたのを読んで以来だ。

この本の訳者あとがきも読まないつもりでいたのだが、誤ってページをめくってしまった。最初の数行に、この本は女の一生云々、だとか女の一生についてはこれまでも云々、などどという言葉が見えた。そして私はすぐに本を閉じた。

この本を女の一生などとあるいは前例があるなどと決めつけてほしくない。私はこの本の持つ、生と世界の美しさをただただ感じ、静かな感動を覚えた。そして歳をとるにつれ忘れかけていた、現実の世界も美しいものなのだということを本を閉じた後に、ただただ感じた。