国費を盗賊にとられてるとあたしがさいさん、おしえてるじゃないか。
442 : 朝まで名無しさん : 2012/07/06(金) 12:29:48.84 ID:
日本では今日、江戸の最下層民と皇室が縁組をするという異常事態、
しかもその最下層令嬢が、実家の親とつるんで皇室を我が物にしようとする異常事態。
許しがたいのは、その下賤な血のなせる業か、マスコミを使って皇室を攻撃する。国民を騙す。
1993年街道の集会で沖浦和光が「小和田雅子さんの先祖は民」だと発言。その後、なぜか川嶋家説が広まった
(何者かによって意図的に広められた)川嶋辰彦氏は同和問題の研究もしていたので、
いかにも信憑性をもって悪意のある噂が広められた。
そもそもは家柄ではなく、雅子さん本人と実家の行状が問題。雅子さんの先祖がたとえ出身でも、
3代前から不明でも、公害企業の社長でも、父親が機密費横領でも雅子さん本人がきちんとしていれば、
両親、先祖のことであれこれ言われることはなかったはず。
生まれが卑しい…という言い方をするべきではないが他の皇族方の出自を捏造して貶めるのだから
(このやり方、どこかの国に似ている)事実をはっきりさせたくなる。
家系を乗っ取るということをなんとも思わない一族。だから皇統も乗っ取ろうとした。
女系、雑系にして、小和田墓のように、ツギハギにしようとした。恐ろしい。
http://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/news2/1339764763/
小和田雅子さん(皇太子妃)の出自について
出自は本人の意思や責任とは関係ない。皇太子妃としての責務を果たし、その人柄が国民から敬愛され、
すばらしい人…すばらしくなくても普通に真面目に生きている人であれば、今更血筋がどうのなどとは言われなかったのかもしれない。
今の世で出自云々を問うこと自体、おかしいのかもしれない。実際、言ってはいけないこととされている。
だが、ろくに公務も祭祀もせず、自分勝手な振る舞いをしていれば、やっぱりお育ちが…と言われるのも仕方がない。
しかも、一部では雅子さんの後ろ暗い部分を紀子様にすり替えて噂を流し貶めている。
きちんとした家系図が存在する紀子様の出自に関する嘘の噂を嬉々として流している。
医学博士のH・S氏は公の場でこう言った「おい、が親王を生んだぞ!」
H氏はワールドメイトという団体に在籍している。ワールドメイトは創価学会とともに雅子さんを擁護し、
それ以外の皇族方を誹謗中傷している。
最終的には皇室の消滅→新しい世(教祖の自分が王となる)を目論んでいるのだろう。
内側から次々と皇室を破壊してくれる雅子さんは皇室を否定する人々にとって重宝な存在だと思われる。
紀子様の名誉を守るためにも、皇室のためにも、日本のためにも雅子さんの出自をはっきりとさせるべきだと思う。
「富田メモ」で、「真偽を確認する為に全文公開せよ」との声に
「皇太子妃の入室について書かれている部分があるから公開出来ない」という回答
反対の理由は、チッソ(雅子さん祖父)、男性関係の他に血筋も関係しているのでは、と言われている
当時のお妃候補の中で家系図の無い家は小和田家のみ。
宮内庁は皇太子の結婚にあたって小和田家の家系を公表し興信所に身元調査を依頼した。
そのとき、開放同盟は差別であるという申し入れを行っていた(ニュースにもなった)
そのため、身元調査は打ち切りになった。
わざわざ開放同盟が抗議。
小和田家
一代目 小和田金吉(生年月日、生地、両親不詳)
二代目 小和田毅夫
三代目 小和田恒
金吉の前は不明
金吉の父は道蔵匡利のはずだが、雅子さんの曽祖父金吉が道蔵匡利とはつながらない。
宮内庁が公表した家系図は、金吉で終わっていて匡利の名前はない。
この事実だけで、金吉は匡利の子供とは断定できない。
あるいは金吉の両親(もしくは父)は不明か、表に出せないということがわかる。
地方では割合先祖のことを調べることは容易である。
新潟で3代前までしかわからないということは非常に不自然。
雅子さんの皇室入りが決まったとき3代前の小和田金吉の父親がわからなくて宮内庁が困り、
小和田家が無理矢理でっちあげた家系図の元になったのが同じ地域出身の小和田本家の家系図。
小和田本家では雅子さんの曽祖父金吉のことを「知らない」と言っている。
匡利の次男に、確かに金吉(A)なる人物はいる。その本物の金吉(A)と、雅子の曽祖父の金吉(B)が同一人物なのかは不明。
お妃内定のときも結婚の時も本家筋の方は誰一人出てこなかった。
本籍地の村上市から新潟へお墓を移すときも金吉しか動かしていない。
村上市ですら、よくわからないと言っている。
「小和田新六から曽祖父金吉までは不明の点が多く、調査が待たれる」
村上市の西真寺と新潟市の泉性寺の言うことにも食い違いがある
1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺)
「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」
「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たがここに墓参していない
2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言
「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない 匡利(道蔵)の墓だけがあります
…30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」
泉性寺の檀家談
お墓は奥の方に非常にみすぼらしいのが建っていました。それが、皇太子のところに嫁ぐのが決まったら、場所もいいところに移動して、大変立派なのが俄かに 建てられました。
3 ご成婚前の小和田家の墓参り
両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり「小和田家の墓」ではない
(昭和55年(1980)に小和田毅夫(恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果異様なツギハギの墓)
4 金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫の幼い頃別居し金吉死亡後、竹野のお墓は所在不明
5 専門家の意見
「一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」
金吉が匡利の子なら匡利12~13歳の時に生まれた三男となり有り得ない。
一言でいえば「この小和田家ではない」と言っている
6 新潟県村上市小和田本家の証言
TVでのインタビューにて老当主が
「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」
と答えた
以上より
・「金吉の墓」または「小和田家の墓」の所在地が不明なのはなぜ?(再婚してない場合毅夫母の竹野の墓の所在も不明)
・毅夫は西真寺から泉性寺に父金吉の墓を移すと寺に言いながら泉性寺にお墓を作っていないのはなぜ?
・泉性寺の小和田家の墓が「金吉の墓」又は「小和田家の墓」ではなく「匡利(道蔵)の墓」なのはなぜ?
・仮に金吉が小和田兵五郎の三男なら西真寺に兵五郎の墓を残したままで恒、毅夫が当地に来ても墓参りしないのはなぜ?
・毅夫氏自身はどの小和田のお墓に入ったのだろうか?
江戸時代、犯罪者予備軍の無宿者は新潟の佐渡ヶ島の金山に送り人足として使役
明治維新で解放されたこの人らの戸籍や墓は?(ご先祖流れ者説)
戸籍を誰かから入手した?戸籍売買?(ご先祖は日本人ではない説)
金吉は認知されていない子だった?(私生児説)→母方から先祖はたどれるはず
同じ姓の墓をどこからか入手した?(捨て墓置き場から…説)(墓が個人名でツギハギな点と欠けている点がポイント)
先祖の墓参りをしない家なら先祖を敬うしつけや教育を受けていないので祭祀を無意味としか思えない雅子妃の態度にも合点がいく
▼小和田金吉
・人物像は不明、名前の読みも不明(きんきち?かねきち?かねよし?すら不明)
・どの読みでも「下級武士」の出とは考えられない。(小和田家主張=武士)
・墓がない(それほど昔の人ではない。恒氏の祖父である)曽祖父の墓はあるのに?
▼つぎはぎの墓
墓石つぎはぎの理由→昭和55年(1980)に小和田毅夫氏(=小和田恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調
墓石には「小和田匡利墓」とある(個人名)→小和田家、ではない。
墓石側面には「明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓」
小和田匡利→新潟県村上市の小和田本家「分からない」回答
金吉の墓はどこの寺にあるのかわかっていない。村上市の西真寺には小和田金吉の墓はない。
移したはずの泉性寺にも小和田金吉の墓はない。あるのは匡利の墓のみ)
皇室入りのため、急遽作られた家系図によると金吉は道蔵の次男(1867頃出生)
そうなると道蔵が14歳のときの子ということになる。しかも三男。14歳でもう2人(以上)の子??
明治時代に生きていた金吉以前の戸籍が存在しないというのは不可解。
私生児もしくは捨子とも考えられるが戸籍が存在しない出自とも考えられる。
民と言う話もあるし、犯罪者、あるいは半島から新潟へ流れ着いて戸籍を買った、または奪ってなりすましたという話も出てくる。
(成りすまし…元々戸籍を持たない人が、小和田家の金吉と言う人になりすましたということ)
だから現実として年齢が合わないなどのボロが出る。
後継ぎが居なかった小和田金吉の家系を利用してなりすます、このやり方で日本人になりすます朝鮮人は大勢居る。
小和田金吉は村上の小和田家とはなんの関係もない。
村上の士族小和田家が村上をはなれて戊辰戦争に負けてちりぢりになったのは明治の初年。
士族小和田家は明治初年以前も調べがつく
問題は小和田金吉が1867~1868年頃朝鮮で生れ、新潟に密航して住み着いたのは明治以後。
だから宮内庁は小和田家が1868年以前は何をやっていた人なのかわからないといったのは
事実隠蔽のためで本当に士族なら村上を調べたらわかるのである。
佐藤朝泰の「閨閥」という本に小和田金吉の代からしか載っていない。(川嶋家は高祖父の代までのっている)
朝鮮から密航してきたX=金吉。
明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に金吉氏の名前が初出となる。
もちろんこの金吉は小和田道蔵の息子で雅子の曽祖父の金吉とは別人。
X=金吉は新潟の吏員になるために(戸籍のない密航者だから)村上士族小和田匡利の息子金吉から家系図を購入し
士族に成りすまして朝鮮参加の男が小和田金吉に成りすました。その証拠に小和田家の世代の年齢があわない
婚約時代の墓前報告の写真によると、にわか作りの墓石の土台の上に苔むした古くて小さな墓石がちょこんと乗っかっている。
先祖の供養もしていないことがありありとわかる写真だった。
母方江頭
江頭という苗字だけでピンとくる人はいるかもしれない。
エガシラ→エタガシラ ※全ての江頭さんがそうだというわけではない。
江頭家は村上水軍につながる(と成婚時に発表)ので、さらに民に遡る可能性は高い
以前、雅子さんの母優美子さんのいとこで作家の江藤淳(本名江頭淳夫)が自分のルーツ探しに九州へ行った。
そこで知った現実に相当のショックを受けたという。
そこそこの家なら、わざわざルーツを探さなくても先祖のことなら代々受け継がれて聞いているはず。
なおタレントの江頭2:50も親戚(2:50の方が本家筋)
優美子さん父は豊(チッソ)、豊の父は安太郎。この安太郎が母親から青山の墓地に埋葬している。
それ以前の墓地は不明とあります。(結婚記念誌に記載)
江頭家の出身は九州ですが、不思議に父親のお骨は東京へは引き取っていない。
彼は九州の自分の出自を恥じてひた隠しにしていた。
また安太郎の妻米子が古賀家から嫁いで居るが、この古賀家も佐賀の阿弥陀寺にながい間無縁仏として放置されていた。
近年になってそれらの無縁仏を一箇所に集めて合祀されている。
雅子さん祖父・嘉蔵は明治維新までは鍋島家の家臣だったとされるが明治初年の佐賀藩侍着到(出勤簿)にその名はない。
番太出身で「いわれなき差別を受け」、小学校の小使いの職にしか就けなかった江頭嘉蔵。
息子の安太郎は、その出自を生涯ひた隠しに隠し、佐賀には一度も帰ることはなかった。
江藤淳は今上陛下を雑誌で批判(1999年7月21日自殺)
「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない…」
その叔父も自殺。遠縁の江頭2:50も精神を一時患った。
正田家は数百年遡れる名家、公家の血筋も入っている。
川嶋家も会津藩士(藩士録にちゃんと載ってる家)&紀州の名士
小和田は不明
442 : 朝まで名無しさん : 2012/07/06(金) 12:29:48.84 ID:
日本では今日、江戸の最下層民と皇室が縁組をするという異常事態、
しかもその最下層令嬢が、実家の親とつるんで皇室を我が物にしようとする異常事態。
許しがたいのは、その下賤な血のなせる業か、マスコミを使って皇室を攻撃する。国民を騙す。
1993年街道の集会で沖浦和光が「小和田雅子さんの先祖は民」だと発言。その後、なぜか川嶋家説が広まった
(何者かによって意図的に広められた)川嶋辰彦氏は同和問題の研究もしていたので、
いかにも信憑性をもって悪意のある噂が広められた。
そもそもは家柄ではなく、雅子さん本人と実家の行状が問題。雅子さんの先祖がたとえ出身でも、
3代前から不明でも、公害企業の社長でも、父親が機密費横領でも雅子さん本人がきちんとしていれば、
両親、先祖のことであれこれ言われることはなかったはず。
生まれが卑しい…という言い方をするべきではないが他の皇族方の出自を捏造して貶めるのだから
(このやり方、どこかの国に似ている)事実をはっきりさせたくなる。
家系を乗っ取るということをなんとも思わない一族。だから皇統も乗っ取ろうとした。
女系、雑系にして、小和田墓のように、ツギハギにしようとした。恐ろしい。
http://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/news2/1339764763/
小和田雅子さん(皇太子妃)の出自について
出自は本人の意思や責任とは関係ない。皇太子妃としての責務を果たし、その人柄が国民から敬愛され、
すばらしい人…すばらしくなくても普通に真面目に生きている人であれば、今更血筋がどうのなどとは言われなかったのかもしれない。
今の世で出自云々を問うこと自体、おかしいのかもしれない。実際、言ってはいけないこととされている。
だが、ろくに公務も祭祀もせず、自分勝手な振る舞いをしていれば、やっぱりお育ちが…と言われるのも仕方がない。
しかも、一部では雅子さんの後ろ暗い部分を紀子様にすり替えて噂を流し貶めている。
きちんとした家系図が存在する紀子様の出自に関する嘘の噂を嬉々として流している。
医学博士のH・S氏は公の場でこう言った「おい、が親王を生んだぞ!」
H氏はワールドメイトという団体に在籍している。ワールドメイトは創価学会とともに雅子さんを擁護し、
それ以外の皇族方を誹謗中傷している。
最終的には皇室の消滅→新しい世(教祖の自分が王となる)を目論んでいるのだろう。
内側から次々と皇室を破壊してくれる雅子さんは皇室を否定する人々にとって重宝な存在だと思われる。
紀子様の名誉を守るためにも、皇室のためにも、日本のためにも雅子さんの出自をはっきりとさせるべきだと思う。
「富田メモ」で、「真偽を確認する為に全文公開せよ」との声に
「皇太子妃の入室について書かれている部分があるから公開出来ない」という回答
反対の理由は、チッソ(雅子さん祖父)、男性関係の他に血筋も関係しているのでは、と言われている
当時のお妃候補の中で家系図の無い家は小和田家のみ。
宮内庁は皇太子の結婚にあたって小和田家の家系を公表し興信所に身元調査を依頼した。
そのとき、開放同盟は差別であるという申し入れを行っていた(ニュースにもなった)
そのため、身元調査は打ち切りになった。
わざわざ開放同盟が抗議。
小和田家
一代目 小和田金吉(生年月日、生地、両親不詳)
二代目 小和田毅夫
三代目 小和田恒
金吉の前は不明
金吉の父は道蔵匡利のはずだが、雅子さんの曽祖父金吉が道蔵匡利とはつながらない。
宮内庁が公表した家系図は、金吉で終わっていて匡利の名前はない。
この事実だけで、金吉は匡利の子供とは断定できない。
あるいは金吉の両親(もしくは父)は不明か、表に出せないということがわかる。
地方では割合先祖のことを調べることは容易である。
新潟で3代前までしかわからないということは非常に不自然。
雅子さんの皇室入りが決まったとき3代前の小和田金吉の父親がわからなくて宮内庁が困り、
小和田家が無理矢理でっちあげた家系図の元になったのが同じ地域出身の小和田本家の家系図。
小和田本家では雅子さんの曽祖父金吉のことを「知らない」と言っている。
匡利の次男に、確かに金吉(A)なる人物はいる。その本物の金吉(A)と、雅子の曽祖父の金吉(B)が同一人物なのかは不明。
お妃内定のときも結婚の時も本家筋の方は誰一人出てこなかった。
本籍地の村上市から新潟へお墓を移すときも金吉しか動かしていない。
村上市ですら、よくわからないと言っている。
「小和田新六から曽祖父金吉までは不明の点が多く、調査が待たれる」
村上市の西真寺と新潟市の泉性寺の言うことにも食い違いがある
1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺)
「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」
「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たがここに墓参していない
2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言
「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない 匡利(道蔵)の墓だけがあります
…30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」
泉性寺の檀家談
お墓は奥の方に非常にみすぼらしいのが建っていました。それが、皇太子のところに嫁ぐのが決まったら、場所もいいところに移動して、大変立派なのが俄かに 建てられました。
3 ご成婚前の小和田家の墓参り
両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり「小和田家の墓」ではない
(昭和55年(1980)に小和田毅夫(恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果異様なツギハギの墓)
4 金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫の幼い頃別居し金吉死亡後、竹野のお墓は所在不明
5 専門家の意見
「一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」
金吉が匡利の子なら匡利12~13歳の時に生まれた三男となり有り得ない。
一言でいえば「この小和田家ではない」と言っている
6 新潟県村上市小和田本家の証言
TVでのインタビューにて老当主が
「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」
と答えた
以上より
・「金吉の墓」または「小和田家の墓」の所在地が不明なのはなぜ?(再婚してない場合毅夫母の竹野の墓の所在も不明)
・毅夫は西真寺から泉性寺に父金吉の墓を移すと寺に言いながら泉性寺にお墓を作っていないのはなぜ?
・泉性寺の小和田家の墓が「金吉の墓」又は「小和田家の墓」ではなく「匡利(道蔵)の墓」なのはなぜ?
・仮に金吉が小和田兵五郎の三男なら西真寺に兵五郎の墓を残したままで恒、毅夫が当地に来ても墓参りしないのはなぜ?
・毅夫氏自身はどの小和田のお墓に入ったのだろうか?
江戸時代、犯罪者予備軍の無宿者は新潟の佐渡ヶ島の金山に送り人足として使役
明治維新で解放されたこの人らの戸籍や墓は?(ご先祖流れ者説)
戸籍を誰かから入手した?戸籍売買?(ご先祖は日本人ではない説)
金吉は認知されていない子だった?(私生児説)→母方から先祖はたどれるはず
同じ姓の墓をどこからか入手した?(捨て墓置き場から…説)(墓が個人名でツギハギな点と欠けている点がポイント)
先祖の墓参りをしない家なら先祖を敬うしつけや教育を受けていないので祭祀を無意味としか思えない雅子妃の態度にも合点がいく
▼小和田金吉
・人物像は不明、名前の読みも不明(きんきち?かねきち?かねよし?すら不明)
・どの読みでも「下級武士」の出とは考えられない。(小和田家主張=武士)
・墓がない(それほど昔の人ではない。恒氏の祖父である)曽祖父の墓はあるのに?
▼つぎはぎの墓
墓石つぎはぎの理由→昭和55年(1980)に小和田毅夫氏(=小和田恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調
墓石には「小和田匡利墓」とある(個人名)→小和田家、ではない。
墓石側面には「明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓」
小和田匡利→新潟県村上市の小和田本家「分からない」回答
金吉の墓はどこの寺にあるのかわかっていない。村上市の西真寺には小和田金吉の墓はない。
移したはずの泉性寺にも小和田金吉の墓はない。あるのは匡利の墓のみ)
皇室入りのため、急遽作られた家系図によると金吉は道蔵の次男(1867頃出生)
そうなると道蔵が14歳のときの子ということになる。しかも三男。14歳でもう2人(以上)の子??
明治時代に生きていた金吉以前の戸籍が存在しないというのは不可解。
私生児もしくは捨子とも考えられるが戸籍が存在しない出自とも考えられる。
民と言う話もあるし、犯罪者、あるいは半島から新潟へ流れ着いて戸籍を買った、または奪ってなりすましたという話も出てくる。
(成りすまし…元々戸籍を持たない人が、小和田家の金吉と言う人になりすましたということ)
だから現実として年齢が合わないなどのボロが出る。
後継ぎが居なかった小和田金吉の家系を利用してなりすます、このやり方で日本人になりすます朝鮮人は大勢居る。
小和田金吉は村上の小和田家とはなんの関係もない。
村上の士族小和田家が村上をはなれて戊辰戦争に負けてちりぢりになったのは明治の初年。
士族小和田家は明治初年以前も調べがつく
問題は小和田金吉が1867~1868年頃朝鮮で生れ、新潟に密航して住み着いたのは明治以後。
だから宮内庁は小和田家が1868年以前は何をやっていた人なのかわからないといったのは
事実隠蔽のためで本当に士族なら村上を調べたらわかるのである。
佐藤朝泰の「閨閥」という本に小和田金吉の代からしか載っていない。(川嶋家は高祖父の代までのっている)
朝鮮から密航してきたX=金吉。
明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に金吉氏の名前が初出となる。
もちろんこの金吉は小和田道蔵の息子で雅子の曽祖父の金吉とは別人。
X=金吉は新潟の吏員になるために(戸籍のない密航者だから)村上士族小和田匡利の息子金吉から家系図を購入し
士族に成りすまして朝鮮参加の男が小和田金吉に成りすました。その証拠に小和田家の世代の年齢があわない
婚約時代の墓前報告の写真によると、にわか作りの墓石の土台の上に苔むした古くて小さな墓石がちょこんと乗っかっている。
先祖の供養もしていないことがありありとわかる写真だった。
母方江頭
江頭という苗字だけでピンとくる人はいるかもしれない。
エガシラ→エタガシラ ※全ての江頭さんがそうだというわけではない。
江頭家は村上水軍につながる(と成婚時に発表)ので、さらに民に遡る可能性は高い
以前、雅子さんの母優美子さんのいとこで作家の江藤淳(本名江頭淳夫)が自分のルーツ探しに九州へ行った。
そこで知った現実に相当のショックを受けたという。
そこそこの家なら、わざわざルーツを探さなくても先祖のことなら代々受け継がれて聞いているはず。
なおタレントの江頭2:50も親戚(2:50の方が本家筋)
優美子さん父は豊(チッソ)、豊の父は安太郎。この安太郎が母親から青山の墓地に埋葬している。
それ以前の墓地は不明とあります。(結婚記念誌に記載)
江頭家の出身は九州ですが、不思議に父親のお骨は東京へは引き取っていない。
彼は九州の自分の出自を恥じてひた隠しにしていた。
また安太郎の妻米子が古賀家から嫁いで居るが、この古賀家も佐賀の阿弥陀寺にながい間無縁仏として放置されていた。
近年になってそれらの無縁仏を一箇所に集めて合祀されている。
雅子さん祖父・嘉蔵は明治維新までは鍋島家の家臣だったとされるが明治初年の佐賀藩侍着到(出勤簿)にその名はない。
番太出身で「いわれなき差別を受け」、小学校の小使いの職にしか就けなかった江頭嘉蔵。
息子の安太郎は、その出自を生涯ひた隠しに隠し、佐賀には一度も帰ることはなかった。
江藤淳は今上陛下を雑誌で批判(1999年7月21日自殺)
「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない…」
その叔父も自殺。遠縁の江頭2:50も精神を一時患った。
正田家は数百年遡れる名家、公家の血筋も入っている。
川嶋家も会津藩士(藩士録にちゃんと載ってる家)&紀州の名士
小和田は不明