転写
①後醍醐天皇は武士に政治をまかせておかないで、自ら政治を執り行うことにしました。
②そこで天皇は政治をまかせていた武士組織である鎌倉幕府を倒させました。
③政治はもともと公家のものだったから取り返したというわけです。
→これは帰化人天皇たちによる政治が続いたことで大和王権が潰されたことによる奪還の過程です。現に後醍醐天皇はこの時南朝方が持っていた゛三種の神器゛を持ってます。それすなわち、皇族の正統性の主張も含まれています。神器を持ってる天皇が干されて、神器を持ってない天皇が正統だと??その要因だけで天皇たちの相続や主体性が問われませんか??小学校では、こういう事を指導要綱に入れずに南朝が悪いと指導すんですか?? 福島の教育者はとことん北朝から賄賂もらってるんじゃないかと思いますね。そして、教育者たちのその指導によって、うちの家系みたいに先祖が消された恨みが多大にある事知るべきですね。あと、教育者ならば、大和政権が歴代天皇の前頭だということを、もう一回学習されるべきです。バカかとあたしに言われるだけですよ。
④しかし、後醍醐天皇は鎌倉幕府が倒れた後に行ったのは、功労のあった公家さん達はほめて
やりましたが、武士は功労があってもほめてやりませんでした。
→これは偏見もはなはだしい。ならば北朝天皇ならばほめてやったと??そもそも鎌倉幕府をなんで潰したかわかってますか?? 鎌倉幕府は南朝方の人間をことごとく格下げしてますが、北朝を潰したとも書かれています。しかし、北朝方を潰したと書いてる人に質問ですが、ではなぜ北朝方の天皇を擁立してんですか??後醍醐天皇が武士をほめなかったのは、頼朝側近の武士たちの事を指し、頼朝自体が崇拝した南朝方の武士を利用した形になってるからですよ。
⑤人間、こういうのは後にひいてしまうでしょ??
⑥天皇に味方してやった武士たちはおもしろくありません。
→引いてしまうより、ドンビキしてるこの言い草に。後醍醐天皇に味方した武士はおもしろくない??そもそも、そこにくるまでの天皇たちや側近がいろんな事を画策し人間飛ばしてるんだから、はっきり言うと言われる筋合いない。北朝サイドの腹黒画策士に同じ事を言ってもらいたい。そしてウィキにあるけども鎌倉幕府つまり頼朝の政治自体が後期には武士層から支持がなかったと書いてある。その頼朝が討伐されたのは後醍醐天皇のおかげであり、武士たちは感謝すべきところの話だろ??後醍醐天皇に味方した武士はおもしろくないっていうのは、足利尊氏の言い分を述べているにすぎない。現に足利尊氏の弟が鎌倉将軍府成立してるわけで、武士たちはおもしろくないというより、武士も重用していたのだから。
鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%94%BF
記録所、恩賞方、9月には雑訴決断所がそれぞれ設置される。関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立。12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%94%BF
⑦その武士たちの気持ちを感じたのが足利尊氏、のちの室町幕府の征夷大将軍でした。
⑧尊氏は自分と共に戦った武将にほうびをやりました。
⑨そんなこんなで尊氏と天皇の関係はうまくいかなくなりました。
→その武士たちの気持ちを感じたのが足利尊氏?? さも武士たちは尊氏に賛同してるかのような記述だけども、尊氏は後醍醐天皇から征東将軍に任命されてるので評価されてないとは言えないのでは??そして尊氏は新田氏を討つべきと提言し、後醍醐天皇は新田氏を重用。尊氏の一人から回りの感じさえあるのにな。後醍醐天皇は裏切りそうな人を使わなかっただけ。
この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、基本的には武士を嫌っている後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据え、乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張。討伐を後醍醐天皇に対して要請する。
後醍醐天皇は尊氏のこの要請を受けず、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は敗北する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%94%BF
⑩力をもった尊氏は後醍醐天皇とは別にもうひとりの天皇、光明天皇をたてたのです。
⑪それで後醍醐天皇の南朝、光明天皇の北朝、二つの朝廷ができてしまいました。
⑫それから約60年続くこの時代が南北朝時代です。
→案の定、尊氏は百済系北朝の天皇を擁立したではないですか??
以上が福島県浜通りの一部地域の教員が小学生に指導で使った資料文面の抜粋になります。
あたしはこの資料を数十年とっておいて、この文面を見るたびにイライラがおさまらなくなっていたのですが、こういう資料作成して小学生に指導している教員な。あとで名前も出してやろうか??
なんで北朝を持ち上げしているかと言うと、南朝を潰した相馬常胤を祖とする相馬氏が総大将相馬野馬追い行事を正当化だったからです。
これははっきりと、会津プロパガンダと同じ 政治利用があったという事。
会津藩士の子孫たちの大嘘捏造がネットでバレ、拡散されているのに、誰も謝罪も詫びも何もない。あつかましいやら、図々しいやら、鳥肌が立つほどに大嘘つきまくりで金集めした被害者産業と申し上げておきます。
ちなみに会津藩士も北朝の擁立にまわって大嘘で金を集めた組織で、その延長にインチキ皇室と提示している朝鮮人の天皇家がいるわけです。
そして、その朝鮮人家系の帰化人たちが過去何千年と朝廷というものを自分たちで動かし日本に寄生してきたもはっきり書いておきます。
そして、それと別に南朝正統論が大昔から文献が出ていたことと、江戸時代に南朝正統論が出回り、南朝方が幕府に通じていたことも書いておきます。
ゆうべ書いた、徳川綱吉の南朝方遺構の再建もあげておきます。
その前に書いた徳川家康が南朝方の新田氏家系図を欲しがったことも書いておきます。
そして、徳川家康から疎まれて改易させられた相馬氏一族だということも書いておきます。
陸奥相馬氏(中村相馬氏)は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州の小高に領地を受けた後、千葉氏族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まるとやや衰退し、室町時代後期に標葉氏を滅ぼしたものの、それでもなお戦国時代初期には、行方郡、標葉郡、宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては中立。豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていたため西軍寄りとみなされ、徳川家康によって改易された。
しかし、中村相馬氏は訴訟を起こして伊達氏を友に付けてこれを凌ぎきり、再び旧領を奪還して近世大名(中村藩主)として生き抜くことに成功した。
中村藩の末代(第13代)藩主であった相馬誠胤は、戊辰戦争当時には少年期にして中村藩主となったが、明治時代のスキャンダルである相馬事件(相馬騒動)の発端となった人物でもあった。これは、後に精神病者監護法の成立に影響し、実質的に座敷牢の合法化として機能し、民政に大きく影響した。
また、相馬氏は33代・和胤の時代に北海道へ、34代・行胤の世代で広島県へ移住した[3]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E6%B0%8F