アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

熊野権現窃盗し個人私有地に置いてる鹿島町住民 当家の北畠顕家の系図を仮で出すからちゃんと見なさい

2023-09-10 23:41:22 | 日記
①福島県南相馬市鹿島区御山にある「葉山國造神社」は昭和62年地図に載っていない 昔から存在してた神社ではなく、現地の住人らが作った特定利権に関わる機関の施設だった

②葉山という地名はここに存在していない

③葉山大権現と言う名称で国道6号線沿いに大きな縦看板があった
そこにもう1つ、出雲大社の文字が書いてあった
これは出雲大社が関与した工作機関の出先であった
島根県出雲市の出雲大社が、なぜ福島県南相馬市鹿島区の山中に出先を作ったのか 出雲大社の洗脳集団がなぜ鹿島区御山に関わっていたのか

④鹿島区御山に北畠顕家の妻 大江松代が死亡した1つの噂的伝説にかこつけた何かだと思われる だとしたら、死亡した場所はそこだと言うのか?
霊山記略P183
松代前、宇多郡真野の郷主真野氏の邸に逃れ、同地も賊の攻入るに及んで
夜逃れて山野の宿旅して・・・(以下は話が合わないから省く)
桜平の館か、中館の館 2つしか候補地がない真野氏の屋敷場所
立地的に賊に入られるような感じで、まず城になっていないのと部下が足りていない※真野は長者貴族であって武家所帯と言える身分でもなかった
そこに奇襲する側は相馬藩側だ
つまり、真野氏と相馬藩はもともと敵味方のような関係性だった

⑤霊山記略P183の山野の宿旅はまず、霊山脱出してから真野宅に着くまでが
宿旅になる 数日の間であってもだ
さらに、真野宅に行って世話になってる間に奇襲されて、夜逃げてると言うのは夜の移動、つまり見つからないように相当警戒し、護衛がさほどいない事をあらわす、当家にある源孫・與惣治の遺書では霊山脱出後一時的真野村に隠れていたと書いてある これは、真野宅を真野村の1つにカウントする
落ち延びてしばらく、数年いたと書いてあったが、たぶん数年真野宅にいれなかったように思う
さらに、真野宅以外の鹿島の地で宿とりながら移動してる期間を含めているだろう

⑥松代が丸森の大江宅に戻れた話と、そこで女子を産んだ話はデタラメ
霊山脱出の時に産まれたばかりの男児を抱いて逃げてる この男児が顕成で
それ以前に産まれたのが女子の顕
この時系列を大江方面で間違っている
大江宅で、自分達のそばで女子を産んだというのが本当で、その時期を顕家死んでからにしてるのが間違い そこまで文献にちゃんと書いてないだろう
松代が脱出後女子を産んだと言ってるのが大江の所のみ
他所では脱出の時の赤ん坊が男児だと認めている
大江の所だけで間違いが間違いを大きくしてきた これが大江の罪
松代が生きて大江宅に戻っていないからこそ、松代死亡地の噂が出ている
大江宅が顕家死んだ後女子を産んだとする事で、その父親・精子は誰の?って事になる 霊山脱出の時は、顕家が死んだ連絡によって起きた事であり、
その時赤子が居たら、顕家の子として女子を孕む事はタイミング的に不可能でしかないのと、生きて大江の所へは戻れていないのが、この話のポイント

⑦松代が賊に殺されたと思われる場所の候補は自分の調べ上2つある
1つは、この御山の周辺 この葉山神社の場所・もしくは近く
1つは、中館・桜平山から下りてきて真野神社とされてる場所 寺内
どうしたって、「相馬の熊野堂で天童丸と自害した」は起きないしでっちあげ
「相馬の寺前に稚児と松代が石にもたれて死んだ」というのもでっちあげ
「相馬の山上の地に逃れて死んだから塚を作った」というのは勝手な利己都合
熊野堂で死んだ👈これは結城中村黒木達が相馬と組んで作った
寺前の初発神社境内で死んだ👈相馬中村神社と初発神社運営陣が作った
山上の地で死んだから松母の地名ついてる👈松代殺害方面が自分の地に付けた?鹿島の中館・桜平から山上まで山賊から逃げ切ったと?
山賊相馬藩の誰かが山上出身か、山上に逃れてその名を現地に使い出した
※松代が馬に乗れたなら、山上どころかもっと移動し避難できてたはずで
それを感じない ましてや赤子がいる状態の2人の状態だ

⑧松代が先に死んで、赤子の顕成を一時的に養育したのは真野長者であって
真野長者が先に死んでたら松代と顕成は一緒に宇津峯まで避難できてた可能性がある 真野長者が顕成を顕信と側近に委託して死んでると見込んでいる
この死んだ時期に、真野長者の子供が桑折まで逃れたんだ!と桑折側が言ってる と言うか桑折側が自分らを真野だと言い張り、顕家の子孫は桑折だと言い張る理由は、桑折が松代を殺したからだろ?とあたしは書いてる
死んだ人が身分高いほど、死んだ人の伝承を自分に重ねてフカシはじまるのは今まで調べてきて起きてる事だ

➈顕成は宇津峯に行ってる 鹿島から宇津峯へ
赤子の時この移動は誰かにしてもらってないと出来ないのと、真野長者が宇津峯に行ってる気配がない、松代も宇津峯に行ってるような記録ではない事から
襲われて逃げてる時に霊山あたりで顕信一行に真野から顕成を渡されているように思う その時の真野長者は死んでる 息子が生きてどこへ逃げたか

⑩真野長者の子供が桑折へ行った話は救済でなく連行の可能性あり
桑折町だとしたら、桑折町ではやたら顕成の事や遺物について知ったかぶりするかもしれない 真野長者がいい人でも、子供が桑折へ逃れた場合、こちらの意向とは異なる事をする見込みもある
真野長者が襲われて死んでるのは間違いなく、襲ったのは相馬藩側だ
真野長者の子が桑折へ逃れたのではなく、連行されてた場合 「服従しろ!
いう事を聞け!」恫喝されてた可能性が高く、だとしたら桑折が味方側で
真野長者の子を助けた話は嘘になり、真野長者の子を捕虜のように連れて行ってた場合、桑折側が相馬藩と同じ事してた可能性を示唆するものになる

⑪桑折に捕虜にされたと見込んだ場合の、真野長者の子供
まず桑折は伊達の庶子 桑折の出目を称する桑折の地は昔 郡役所があった
これが、どれだけ古い時期かは定かではない
桑折自体が伊達庶子で、伊達政宗より偉いというなら政宗が出てこない
伊達庶子の桑折は相馬藩側にいる計算で、桑折と相馬の戦史がろくにない
伊達輝宗・晴宗時代、相馬藩と戦になってる件も、伊達庶子の桑折はその地位にもなっていない 
その地位にあって、真野長者を捕虜にし、相馬藩に真野の人間に成り代わり、入ってきてる
この成り代わりが入ってきてるのは、宇津峯・霊山城落城の時ではなく、
鹿島の田中城(館)の戦の頃
鹿島の真野長者の農民武士は、この戦で大量に死んだ 
もし、この時桑折が真野に成り代わっていたなら、殺害しないで使う事だって出来ただろう
しかし、あの田中エリアの近辺の3ケ所で塚を作ってる 
つまり、この時の真野長者子孫は、桑折に捕虜にされてた真野長者の子、が真野に戻って再興してた事を意味し顕胤と流布された人物は顕成の孫だった
真野長者が松代を助け、子孫がその地を再興してる時期、顕成の孫が真野長者を支援し、一時的に鹿島へ来てた計算になる
これを相馬藩では、顕成の孫を相馬藩主扱いに捏造し、真野長者の農民殺害をした
黒木含む相馬藩の一派が奇襲してきたと口実作って戦乱を用いて大量殺害し真野長者の子と入れ替わり、桑折達が従う農民を大量に入れるきっかけにした

⑫玉野式部少輔は顕成の第二子で熙成親王が第一子 九州征伐は長慶天皇
顕成が第二子だから、場合によっては自分を末子と言うだろうが
顕という女子は顕成が産まれる前の子
顕成が自分を第一子と思ってるならば末子とは言わない
さらに、福島の土湯温泉で松尾と遭遇した玉野式部少輔は顕成の子でないと時系列が合わない為、玉野式部少輔が自身を末子と思って言ってる場合には、その上に誰がいるのか これが熙成親王で長慶天皇
長慶天皇の時に九州征伐をやっていて、その時に海軍を使っている
この伊勢海軍が伊勢方面で長慶天皇に使われたと思いたくなくて、
長慶天皇の存在を後亀山天皇の系図に繋げようとしてる
後亀山天皇は長慶天皇と親子関係にあらず、長慶天皇と後村上天皇も親子関係ではない 朝廷側(伏見・宮内庁・中華朝鮮帰化豪族)が、伊勢=扶余の都合で、長慶天皇を後村上天皇の子だと捏造してきた※出雲も扶余

⑬宇津峯で幼少から元服時代くらいまでを過ごす顕成
厳重に匿われていた宇津峯を何度も襲撃してた連中は、そこに顕家の子が逃げているのを知ってた可能性がある
この襲撃隊は相馬藩を含む伏見集団朝廷側 
顕家が吉野行宮してたのはこちらが南朝 伏見集団朝廷とは平安京の北朝
北朝、南朝は血統の振り分け名分だと思いきや、朝廷の場所の位置を指す
北の朝廷側 南の朝廷側 北が平安京(四方囲いやってる呪い京)
南の朝廷側は吉野朝廷で、吉野朝廷に四方囲いの話はない
テレビや本でこの実態を明かしてないのは、その連中が不都合だからだ
伏見の一派は四方囲いで平安京を守ると言い分の陰陽道を用いていた
この連中が顕家の伊勢に立ち寄ってから大阪へ出るように親房を使った
※伊勢も扶余・宋中華陰陽道
顕家がその後大阪で死んだのは伊勢・平安京伏見達によるキリスト殺しに似た
軍作戦
だから、大阪阿倍野で祀る為の人身御供で殺害した

⑭徳川宗家 徳川御三家(紀州・尾張・水戸)
伊勢扶余・宋は吉左衛門の残した古い本で発覚
宋とは中国史にある国で、昔から伊勢と出雲は扶余だと言われていた情報に
合算すると、中華の宋家は呪いに関し韓国と同じ方向性を持っている
徳川宗家とは 徳川(韓国)宗家(宋)の事だろう?
徳川(韓国)宗家(宋・扶余)が紀州熊野をマーキング私物化
ここで熊野信仰の支配下
さらに尾張の名古屋で 伊勢・熱田神宮(神器扱いの剣)も管轄
伊勢で北畠顕家の子と村上の子とゴチャゴチャにしてる
伊勢が相馬師常に神託出したと昔から言ってるぐらい伊勢は相馬を臣下扱い
北畠顕家が死ぬ前、父親の親房に呼ばれて伊勢にまわってから大阪へ戦に出発し死んでるのは偶然ではない 青森浪岡が北畠顕家の子孫だと捏造し続けたのも伊勢が介入 霊山記略に証拠記載あり
水戸徳川は、松平容保の出た所、昔調べた時松平容保は水戸藩から出たと記憶しているし、相馬昌胤(浪江)が松平から娘を貰ったという記載が、森鎮雄の本に出ている 水戸の介入は江戸時代になってから
私達は日本人よと言ってるだろうが、中韓人が漢字・食文化・衣食住環境そっくりなら中韓の外人が日本人として国境越えても日本人として伊勢に加担し日本人として入ってくるから、いつまでも線引きができない
仮)モンゴル帝国宗教日本版
神社本庁  中華(清)伏見+竹田(中華・韓国)
仏教管理  中華(清)有馬頼底(中華北部?)

徳川    韓国
伊勢・出雲 扶余(韓国)
伏見稲荷  宋
八坂神社  北朝鮮(金)
八幡神社  北朝鮮(清)
浄土真宗  中華(宋)
浄土宗   北朝鮮(清)
曹洞宗   中華(宋)
真言宗   北朝鮮(金)
天台宗   中華(宋)
四方囲い 五芒星 六芒星 これで日本を守ってると思うか?
そこで囲んだ地区にいる人をカゴメカゴメやってると あたしが言ってる
近年 京都脱出者が増えたのは、これに勘づいた人達
カゴメカゴメをやってる人は守ってるんではなく脱走させないようにしてる
敵から守る為のカゴメカゴメだったら、そこが結界だと言って誰が守られている?住んでる人というより、神社仏閣経営者陣ではないの?守られてると思っているのは
この国の人が選んでシャーマンが存在してる訳ではなく、シャーマンが生計立て、威厳を出す為に住人を存在させているのでは?

⑮何年も出してきた うちの熊野権現は山王大権現として安倉観音堂に隠されていた
黒塗りの車で中韓人が取りにいけば渡すだろう 返して!と書いてきてる
それすらしない 何年も何年もしらばっくれてるだけ
もう 地図を露骨に使う 名前を出す
地方の田舎者ではなく、大日本帝国の工作員らがそこに定住し隠してきた
この国は戦犯国だ
鹿島の住民らは上に従っていると言うかもしれない では上とは?
李朝 清国と中華じゃないか
これ盗んで和歌山に熊野三山があるって? 和歌山に熊野大権現あるって?
では、盗んだのが徳川御三家の紀州と言える
そして、熊野権現を、桑折の守護仏だとデタラメ流布し公共機関で正当化してきた これは北畠顕家の遺物でうちの物で個人のもの
窃盗犯を放置し、窃盗事実を隠し、もとからココにあったと捏造する中韓の大日本帝国人民
戸籍を窃盗し、乗っ取りし、上級国民の臣下になろうとする
あるいは上級国民側に立つ
これはあたしが被害者自演してるのではなく、れっきとした犯罪
何百年もやってる窃盗犯人民の
上司清・李氏へ貢いで褒賞もらうという百姓根性からきてる
つまり日本の神とは自分達で食う対象 神を李氏へ備える精神みたいなもの
ニュアンスの精神論がDNAに濃く、これがモンゴル帝国の臣民と李氏宗家の
関係性なんだろう
何度も出してるが熊野権現とは 中国官僚みたいなビジュアル像で
山王大権現とは阿弥陀の事 詳しく言えば山王大権現は2体の脇仏あっての
セットになってる

⑯伊勢宗家(扶余も入ってる)と和歌山の高野山真言宗と、長野の皆神山にはダビデマークがどこかに入ってるらしいが、これがロンドンのフリーメイソン事務局やロスチャイルドのマーキングマーク
九曜紋は相馬家としてイギリス人が入って九曜紋を使っている計算だから
フリーメイソンは九曜紋も使ってる
さらに✮マーク陰陽師が使うと言って安倍晴明にかこつけた連中がどこかにこれを出してる 安倍晴明神社の祭神として、北畠顕家が使われてたのは
勝手に威厳あるエクソシスト自演する人物から、悪魔対象にされてた証拠
この国に昔、酷い目に合わされた天皇が祟ると言われ、その複数に陰陽師が
祟り防止をしてきたか?祭りが祀りであって、これが魔封じだと言うのか?
北畠顕家が陰陽師の祭神にされたのは、「陰陽師が封じてるんだ!」って事象を作る事に主体性があった為
なぜか この国の神代天皇が北畠顕家の血統だったからで、村上天皇や醍醐天皇なんて及びじゃない 神武天皇の存在と同じ血統が北畠顕家 親房らは関係ない 近年わかってきてると思うが、今もそう 昔も、誰の子かわからない家族になっていてそれを家族と表示し、財や能力を食ってきた貴族もどき達
親房が養子入れてても 子だと言ってれば親房の子にされる
10年以内に調べてきた宇多天皇即位でさえ、当時の調べで宇多天皇は皇子として13番目くらいになってた存在 こんなの血が繋がっておらず、ただ一家が子をかき集めしてたくさん子供産まれたようにでっち上げされてただけ
同じ事が、ここ数か月モンゴル帝国チンギスハンの系図調べで発覚した
北畠顕家封じを陰陽師がやるという事は、神代殺した連中が同じ匂いのする人間を殺し、遺物回収 キリスト殺したローマ帝国側と十字軍の真似だ

⑰熊野権現の対象は太伯だった可能性あり
北畠顕家をモンゴル源氏に改ざんした? 
北畠顕家がウイグルペルシャ混ざりだったら、これを敵対した桓武平氏とは
モンゴル桓国で契丹が混ざった一派で中国皇帝か宦官側
聖徳太子がベゼクリク壁画にある絵に姿図が似てるのだって、これはモンゴル桓にあらず、ソグドに縁がある昔のペルシャで、これに関わった中華側に
太伯がいた
熊野権現は太伯にビジュアルがよく似ている
本当は太伯と書き 泰伯と書いてる中華は秦に関わる苗字かそういう家系
何でも秦に結びつけ、本当は強力だった相手や組織を秦の大軍で捏造してきてる疑いもある
熊野権現は太伯に似てる、襟元がV 
ソグド人の服装はちょっと簡素で襟元はU
ソグド人のビジュアルの彫刻はイランに残ってる ここで行き来があったのは
自分の独断と偏見
聖徳太子の絵は襟元がUで描かれソグド人寄せ 頭部は鶏冠風
聖徳太子の口ひげはベゼクリク壁画の中にあったように思う
ウイグルと言われてしまうのか これは桓国とはまったく違う
桓国人はよくイラン人とトラブルようだけど、あたしが相馬藩や宮内庁方面の機関とトラブルのに、そっくり
盗んで成りすましした側は威圧的で偉そうに命令スタンスで虚勢もある
イランが受けた待遇は桓武平氏が古代ペルシャをイランと思った時に
成りすまししてる側の「悪が正義」と一緒
相馬藩がうちにしてきた事は「官軍正義」のメンタルかもしれなくて同じ
官軍のつもりしてる窃盗殺人大日本帝国側が九曜紋だらけにしてカゴメカゴメやってるのは そこから出さない 囲んでる 守ってるというのは嘘で
盗撮盗聴毎日のペット観察みたいなつもりをしてる徳川家広含む
大日本帝国側
徳川家広がベトナム人の奥さんいるという事から、韓国で近年ベトナム女性と結婚を推進してたのとリンクしてる

⑱カラスは鳥 烏という字を使った苗字があり、八咫烏というワードもある
イタリアやロンドンでカラス信仰があるように思うが、カラスは鳥
この国にある苗字のカラスは烏と書き、血統を指してる
別もののはずだが、烏カラスの文字は清国北西部と、砂漠地帯の寧夏回廊方面にある
ヤタガラスという言葉の響きに騙される人いるようだが、神武天皇を導いたとされる鳥はカラスではなく金鵄 トビだ
昔 金鵄トビの切手まで発行されてる時代もあったのに、ヤタガラスの単語を洗脳してきてた集団がいて、神武のまわりにヤタガラスがいると思い込まれてしまう
八咫ヤタ 烏カラス このワードには隠された利権とメンバーがいる
烏はあのエリアのモンゴル桓人だ ヤタは八の数にかこつけた何かだ
ユダヤ人の数字崇拝者が聖書にある8人とか中国史にある8人に拘った
何かの意味がある
この八咫烏ヤタガラスをマークにして、使っているのは熊野神社
宮城県名取市の熊野那智には九曜紋があって、紀州熊野那智に九曜紋があるのかはわからない これだけで遠のく足
宮城県名取市の熊野神社にはカラスマークはなかったように思うが
カラスマークあるのは喜多方市の熊野神社
このカラスマークに似たものがイタリアのメディチ家の家紋に似てるが
回廊族桓とイタリアの何かなのか?
中国内モンゴルにあった烏桓ウガンと読み、烏カラス+桓カンと書く
まさしくカラス これは古代ペルシャにあらず、ペルシャ成りすまし側
この先に桓武平氏が日本史に出てくる 烏と桓
どこまでいっても移動民の統一性が精神にあるようで、根っこはモンゴル帝国 

⑲北畠顕家が持ってた守護仏は山王大権現と熊野権現
この国で思ってる熊野信仰は宮司達や工作員によって違うものになってる

⑳熊野権現と式部少輔(顕成の子)と日蓮と吉野朝廷と不動明王
そのビジュアルを崇拝してるのではなく、あったから持っていないといけない
式部少輔は顕成の子なら守護仏がこれでないのはおかしい
兄弟がいて、その戦乱期持っていられない環境だったならば納得いく
式部少輔が霊山に出入りし日蓮の弟子扱いされてるなら間違い
昔の修験者 滝に関しては日蓮 山に関しては山王大権現(山神と言った?)
日蓮朝鮮人の生徒になったのではく、密教以外のまともな坊主教に出入りして
独自の説法と勉強をした ※後醍醐天皇時期、平安京朝廷の陰陽師利用に
対抗するように生きていかなければならない血統な為苦労して独自の仏法を
確立したはずだ 兄弟に熙成(長慶天皇)が吉野朝廷側で不動明王を扱っていたのは、この日蓮寄りの修験者との組織を作ってたんだろうと思う
吉野朝廷に不動明王あるだろ 長慶天皇が当時九州征伐に吉野朝廷で祈祷やってないと?霊山町史の本に日蓮の仏の写真があった 相当昔のヤツでもう廃棄してないんだが、これとうちのは製作者がたぶん同じ
式部少輔時代に福島市の中野不動尊に出入りもしてたように思う
しかし馬頭観音が嫌な事と、村上一派が関係してる事と、他人が介入しすぎた場所は もうその接点も解消したい

21、インド由来九曜紋と中華韓国の融合 馬頭観音とモンゴル帝国・原始キリスト教団
これは古代ペルシャにあらず モンゴル帝国のバトゥ側でキエフはこれを嫌う
これらは原始キリスト教団で、古代エジプトの太陽神信仰が原始キリスト教団の一部 イタリアで太陽神信仰が持ち込まれた時、これがローマ帝国側だったはずで、キリスト教を作っていった議会メンバーは12月25日をキリストにちなんだ祭日にしたようだけど、もともと異教徒太陽神信仰者の祭日だったという、ダビンチコード&天使と悪魔にあるフレーズはここで合致する

22、モンゴル帝国のイエスゲイ・バアトルとフラワシとアフラマズダ
原始キリスト教団がモンゴルアジア人と一部が合流した組織として分断されたペルシャ帝国と対峙する
ペルシャ帝国でキリスト教でなくイスラム教が誕生したのは原始キリスト教団に迎え撃つシンボルと宗教を取られてしまったからで
その原始キリスト教団側アジアにイエスゲイ・バアトル
イエスゲイとは、イエスのワードが中東の教祖的地位の単語らしいから
イエス・ ゲイは元ゲンのなまり? バアトル・バアル神のなまり?
ちゃんと中東ペルシャを意識した 身分詐称の人物だ
モンゴル人は日本に相当帰化してる 源氏が元とした場合、桓武平氏をモンゴル由来の自称ペルシャとした場合
古代ペルシャにゾロアスター教しか見えてこないのは古代ゾロアスター教軍団が他国へ移民し宗教を捨てたり、帝国民が主をなくした事による無宗教化が進んだ為
これがフラワシ 善と悪の宗教 自然崇拝
原始キリスト教団はフラワシ時代の後 フラワシがキリストに相当する
これが弱くなったのはインドにパルティア王国と称し、別宗教国が出来た為
このパルティア国王はフラワシから腕輪を渡したようにされてる(彫刻)
これはアフラマズダ側による古代ペルシャ引き継いだという工作
ソドムとゴムラ伝説しかり 全部インド起源のようにされてしまった

23、パルティア建国とペルシャ帝国衰退とUmma勢力と真言宗の馬頭観音
古代バビロン地図に明記されたUmmaがインドに移管されたような感じ
Ummaウンマ ウマ 馬 馬頭観音 馬頭バトゥ 馬頭ビシュヌ
これはモンゴル帝国がインドで相当融合して勢力化してた雰囲気もある
密教の真言宗しか馬頭観音信仰してない これとバトゥ インドの関係
自分が見てまわる古い土地に馬頭観音の石がよくある
これはバトゥ モンゴル帝国移民の桓武平氏らがあちこちに置いてまわった証拠だし、崇拝させてたし、崇拝してたんだろう
結構古い馬頭観音の石もある
これはUmmaに繋がるマーキングに近く、これを推奨してた桓武平氏と真言宗はその時からモンゴル帝国移民だったのを現す
確かに足がなければ馬が一番な時代かもしれないが、これにかこつけた名前を
モンゴル帝国ではチンギスハンの子孫がなのった
バトゥは馬頭バトウのなまりだ
ビシュヌは馬頭の特別な読み方で インド神話に馬の首を繋げた話がこれ
つまり、桓人がカタカナ読みに漢字をあてたり、漢字をカタカナ読みにした
もとは漢字言語だ

24、チンギスハンは源義経 源頼朝は義経を殺害という流布
両方モンゴル帝国側にあって どっちならマシっていうのはモンゴル帝国側の
振り回すネタ
鎌倉幕府が今の島津 徳川 伏見 細川達の政府ならば、義経が昔追われて殺された話持ち出すとモンゴル側の安心に見えたりする
ここまで調べたらモンゴル帝国が巨大な連携で、目くらまししてるだけ

25、相撲と古イスラエルと悪魔宗教の概念
相撲する人 日本人であってもモンゴル人が多い
これが古イスラエル民でヘブライ語を使ううんたら
イスラエルって国がどこにあったかわからなくていまだにいる中で
遺跡が出た云々も話がある
古イスラエル人がモンゴル人だと洗脳してたようなもの
モンゴル民の昔の顔は日本人の顔や体系に出ているものの、モンゴル行ってればモンゴル貴族は永久だとされても モンゴルはキエフの仇だし
呪詛使用者側が 北畠顕家を悪魔位置づけし、キリスト教におけるキリストの立ち位置を同じ事を強いてきてる 
悪魔教とはいったい何か 悪魔を誰にするかで、この概念はまったく変わる
悪魔教は人肉や子供の成分を食ってるという部分に集中し
悪魔教は人身御供を促進してると位置づければ こっちは封印される側に
あらず
原始キリスト教団が人身御供をやってきたと位置づけすればわりと一致する
キリストの子を探せ キリストの遺物を探せ
原始キリスト教団がやってるのは捏造の暴露を防ぎ、遺物は管理者としての地位を作る為に欲し、疑わしき人間の能力を己らの私利私欲に使う為に探す
それがあれば神託もらってると言い、大衆の反論をかわす口実に利用でき
未来予想に有利だと思われている
この上級国民ぶった人間らを誰が作ってる?犯罪捏造で作った肩書でいるのに

26、中東問題は油の資源問題だけでなくキリストの出生問題がある
キリストが中東血統混ざっていると原始キリスト教団にとって不利なんだ
こういう風に見える
だから中東の血 中東風の容姿だったと言える
キリストの肖像を中東風に描いたダビンチは嘘がなくても、後にその肖像が彫刻となって罪をかぶってくれる人だと、利用する議会や組織が利用した
モスクワ大公の肖像とトルコのキリスト肖像が似て見えるのは絵描きの腕か
絵描きの都合なんだろう
こっちは磔台に拘束されてないキリスト像になってる
最近ネットに中東顔で青い目風のキリスト絵が出てるが、あれが本当に近いように思う












アキヒトの姉 池田厚子
そもそも サーサーン朝ペルシャのドラゴンマークはうちのだ💢
今さっきわかった

池田輝政が使いだしてた 池田輝政はうちの人間だ!と昔出したはず
池田輝政がうちの人間ならサーサーン朝ペルシャのドラゴンマークはうちで使ったんだ💢あれ 他所で使用を禁止する

ペルシャのサーサーン朝ドラゴンマークはペルシャの人間しか使ってはダメだ というか中東問題のかなり 日本人化した中朝乗っ取り成りすまし人間どもが原因

平家のマークじゃなく うちのだ
うちが使ったのはサーサーン朝のドラゴンマークだ
池田輝政が使い出したのはフォルムが似てる蝶のマーク
そして池田輝政は池田恒興に出た養子
池田家が起きたとされてる始祖が池田恒興になってるのならば
そこに顕家の子孫入ってると全部乗っ取りに利用されてる計算だ

池田輝政が徳川家康の娘 督姫と結婚してるとあるから
徳川家康は最初から池田輝政が顕家の子孫だとわかってる
池田輝政は3代ですべて乗っ取りされてる 池田輝政と同期の徳川家康もそう
今の池田家は死んだ戸籍に乗っ取りした他人の貴族集団の一部
これが上級国民側のトリックだ





①徳川家康が接見した池田光政とは
①ー1 本物の、輝政の孫がいて光政と名付けてた場合、Aとして存在する
写真の光政像は偽物
徳川家康と接見した池田光政が当時本物だった場合、その事象を乗っ取り集団が「俺の事だ」と成り代わりした 成り代わりがB

①ー2 偽物が池田輝政の孫として光政と名乗っていた場合、徳川家康は偽物Bを本物の輝政の孫と思い込んで「三左衛門の孫よ 早く立派に成長しなされ」と言った

②池田輝政を挟み、池田恒興と池田利隆が父と息子を自演 同じやり口が相馬盛胤と相馬盛胤
②ー1池田利興は織田の家臣 つまり森蘭丸か同族の可能性あり
森と見た場合、三左衛門の子つまりうちの子を挟んで他人の利隆が息子の地位でセッティングされたら全部すり替え乗っ取り
森可成のウィキ画像に別名「三左衛門」とあって発狂した事がある
森蘭丸の一派 森可成か身内が池田恒興と名乗り、池田輝政(三左衛門の子)を息子の位置に入れて、徳川督姫と結婚させたら池田恒興(森可成?)は父親の身分を言いふらす事になる



池田輝政がなぜ三左衛門と呼ばれたか 森可成は池田輝政の成りすましをした
池田輝政本人が三左衛門であって、森可成は三左衛門を自称しただけ
なぜ三左衛門と言われたか 当家の吉左衛門 青森の吉左衛門 そこに入った
吉左衛門(池田輝政)たぶん、この3人を合わせて三左衛門と呼ばれていた
青森浪岡系図に吉左衛門の名前が混ざっている だいぶ前これで「うちに吉左衛門いるのに戸籍同じがいる訳ないだろ💢」と騒いだが、この吉左衛門がうちから出てる場合1人、うちで2人目、池田輝政の本名が吉左衛門だった場合これで3人目

青森の江戸時代初期 キツネ・ムジナ 宗教教祖が増えだした件調べた人には感謝する 時期は江戸初期からだったよ その話
つまり家康君臨の時代 青森に教祖まがいが増えていったのを1つあげる
その連中が青森の吉左衛門と交わっていないと自分は思う
青森浪岡の始祖は顕信側で うちの何代目かが、誰か行ってるんだろう
しかし、文献上の浪岡始祖の話や天童丸の話は受け入れない これは違うから

三左衛門は三人の吉左衛門って事 だと思う
青森に吉左衛門がいた時期は家康生前の頃だけで 浪岡系図だって1人か2人しかいないだろう 本見た、1人だけだ 茂儀吉左衛門って人だけ
うちはずっと使ってた うちが本体だから
菱垣廻船やりだした時期の息子を3人 吉左衛門にして配置したんだろうか
と思ってる しかし池田輝政は利用されて死んでる 子も狙われて逃げたように思う

森鎮雄は、この森可成から苗字をパクってるというか 名のってると思う
御子神社はじめ 森がウジャウジャ宮司側にいた原因は まず森可成役の
生活してたんだ だとしたら、森鎮雄の本にヒントがある 調べた通り
すり替えだ 上と下で挟んで上からカツアゲ 下からタカリ 池田輝政は
2人目の吉左衛門

森の集団が吉左衛門の身分を詐称してたら、バレたら困るって集団で隠ぺいしてくるだろう 鹿島含む相馬藩の森達は森の立場を守っていた
森可成 森てるのぶ(千葉昭和電工)森ビル 森喜朗 森鎮雄 森昭文
森の家紋が鶴マークになってる これは日野の家紋でもあって、鶴マーク=
日本航空 日本航空からの松平恒忠 
森の苗字は森可成を三左衛門と捏造したグループを中枢に池田・つまり池田厚子(アキヒト姉)の集団を守っていた 池田の系図に、烏丸、久邇宮、戸田などの名もあった

相馬藩のエリアでこの連中がやった捏造工作はもっと酷い
親が盛胤で子が顕胤で、その子がまた盛胤
これじゃ、盛胤の名使い放題 
盛胤に続き盛胤で、また盛胤だったら襲名の味方で考えられるが
間に顕家の子孫を顕胤と言う名ででっち上げ、その子がまた盛胤とされたら
文献で盛胤が複数出てきて顕胤の手柄は親が与えたと言い、子は親を受け継いだと言えば全部盛胤名義で利権作った集団がもっていく計算だ
顕家の子孫の文献を強行窃盗してきてるような連中が顕家の子孫に顕胤と名前つけ、あくまで藩主にカウントしてたら相馬歴代藩主が顕家の子孫みたいに
闇で捏造される 天童丸は顕家の第三子という大噓捏造は相馬藩主側が
架空の顕家の子を捏造して、そこに相馬藩主の子をだぶらせて恐喝強盗の
名分にしてたんだ



③池田輝政と督姫の子が師清方面に逃げてる
これが村上水軍海賊団

鶴姫 (大三島)👈これが池田輝政の外野環境から逃げた徳川鶴姫か、娘か、息子の嫁

Wikipediahttps://ja.wikipedia.org › wiki › 鶴姫_(大三島)
鶴姫(つるひめ)は、戦国時代の伊予(現・愛媛県)にいたとされる伝承上の女性←これは本当みたいだ ただし、逃げたんだ 愛媛へ
師清の名を使ったのは輝政の子供 いや輝政本人かもしれない
鶴姫が徳川鶴姫だった場合一緒に逃げた可能性もあるから
ただ、輝政の死亡時期や文献あるなら、鶴姫の名を使ったのは逃げた輝政の実子か、息子の嫁さん
もし徳川鶴姫が逃げた場合、これは池田利隆か、恒興からの求愛・夜這い・レイプや罠が見込まれる 徳川の娘というだけでその血統欲しい連中が狙う
息子が逃げた場合は、その環境が罠だと気づいた賢い男だと思う
罠と言うのは輝政が毒殺される環境にあるとか、自分も嫌疑かけられて暗殺されそうになるとわかったから。。とか
池田輝政は自分の後継ぎに名前の1字を入れると思う
天正16年(1588年)に豊臣秀吉が出した海賊衆(水軍)に対する3ヶ条の定 
豊臣秀吉が出した海賊禁止令とは、師清含む愛媛海軍に対してだ
毛利水軍は村上 「村上を襲った師清」と霊山記略に書いてある
その時の毛利は朝廷(伏見側)・滋賀天台宗についている
織田信長比叡山焼き討ちに対し、出資をしたのは毛利 毛利と豊臣秀吉が
組んでた計算 そこに京都 当時の久我も混ざってたんだろう、これが村上
久我の墓が京都にあるようだ この時から久我家・中院家はいたんだろう

こうなると、大江松代の方面が平安京朝廷側にまわってる感じ
毛利は大江の派生で松代の家側であっても、松代を殺した北部朝廷の伏見側に
寄っていってる そういう見方をしたら、北部平安京朝廷の伏見方面と、南の吉野朝廷 うち側は揉めるの当然 師清が海賊側にされ、これが全部師清水軍ならば村上水軍とは言わない気がする 久我京都が村上水軍にして後世、師清を省いたか、乗っ取りしてはいないか
村上の名を使う久我達は、南朝と言っても立ち回りは北朝平安京寄りだ


池田宣政 まさしく朝鮮(漢字使う中韓人)
池田詮政 名前見てわかった 銀治郎は寧夏の銀
画像に入れるスペースなかった この画像には池田厚子とアキヒトが入る
予定だった モンゴル帝国清朝は清算を早くしてください


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