私は学生の頃、通学時の電車内で本をよく読んだ。
文庫本は、持ち歩くのに不便のない大きさだ。
中でも星新一の短編集は、欠かせない存在だった
田中光二「怒りの聖樹」は長編だが、それもお気にいりの一つだった。
毎朝乗る電車、
何時もと同じ車両に、乗る習慣の人は多いだろう。
ご多分に漏れず、私もそのひとりだ。
ホームで待つ人々の顔ぶれは、決まっていた。
今朝は、その中に見知らぬ少女がいた。
清楚で美しいという言葉が似合う女学生だった。
私が今まで彼女に気づかぬはずがない。
察するに、彼女はこの駅から乗る新メンバーということになる。
翌日もその翌日も見かけた。
彼女も車内で文庫本を読んでいた。
来る日も来る日も同じように本を読んでいる。
彼女は時折、ふと顔を上げ車外の様子を見る。
彼女の爽やかな瞳に、いつも私は釘づけになった。
私は毎日の通学が、楽しくてならない。
文庫本を手にしたままの私は、
彼女を直接見つめるのではなく、彼女の姿が視界に入る位置に
自分の顔を向け、存在を感じ取っていた。
いつしか彼女への淡い思いを抱く自分が居た。
一方的な思い。
彼女は、私より先に電車を降りる。
今朝も胸の高なるひと時が過ぎようとしていた。
でも、今朝の彼女は私の前を通り過ぎる瞬間、
ふと、愛らしい瞳で私に微笑んだのだ。
その時、私は笑顔を作れずにひきつっていたに違いない。
彼女と視線が合うなんて思いもよらぬことで、
私には衝撃が大きすぎた。
私は、浮足立ったまま登校した。
学校にいる間、私の頭の中は彼女との妄想でごった返していた。
『どおして彼女は微笑んだのだろう、
彼女を見つめる僕に気づいて、彼女も僕に好意を持ってくれたのだろうか。
明日は、彼女に声をかけよう、
何と言って話しかけたらいいのだろうか、
あ~
明日は、どうしたらいいんだ。』
翌日。
いつもの電車の中、声をかけることのできる一瞬のチャンスが来た。
心臓の音が私の耳に響き渡る・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、
わたしは、声を発することが出来なかった。
私の妄想通りにはならず、ドラマは展開しなかった。
朝のひと時は、何事も起きず、
私のひとり芝居の妄想台本は毎朝、次々と書き換えられ、
青春ドラマは、期待通りの展開にはならなかった。
そうやってあっという間に時は、過ぎ去っていくのだった。
そして、彼女の微笑みは謎を秘めたまま、時の流れに消えて行った。