越中三大山城
富山県史跡 松倉城を訪ねた際最後に立ち寄った、
武隈屋敷が単なる家老の居宅ではなく、防御力を持って独立した城であったことに感動した。
なので詳細を改めてまとめることにしました。
【小菅沼城跡(武隈屋敷跡)】
武隈屋敷は小菅沼城とも呼ばれる城舘跡で、周囲が高い石垣で囲まれ、出入り口には枡形の門跡が残る。
室町時代の松倉城主椎名氏の家老と伝えられる武隈氏は椎名氏滅亡後もこの地に居住していたが大正期に他県に移転している。
屋敷跡は金山谷から松倉城への途中にあり、一辺が60~70mの方形で石垣が巡らされている。小菅沼地区にはこのほかにも土塁で囲まれた館跡が存在しており、松倉城の時代に支城や城舘群が小菅沼地区に多数存在していたと考えられている。
富山県教育委員会・魚津市教育委員会
まず松倉城との
【位置関係】
松倉城に至るルートは「ダム側登り口」と「金山谷登り口」があり、この小菅沼城跡(武隈屋敷跡)はその「金山谷登り口」と「北山鉱泉」からのルートが交差する要衝に建っている。つまり敵の侵入をいち早く松倉城に知らせ、侵攻を食い止める重要な役割を担っていたのではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/d5/32a2b4619cf311a8b846d044753dbb43.jpg)
【正面虎口】
松倉城に至る道と城下の金山谷と北山鉱泉を結ぶ道が交差する地点に立地している
写真右手が「武隈屋敷」、林道奥「松倉城」に至る林道。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/4f/b1c8ec98f9be4489de79dd2a9a58fa11.jpg)
そして松倉城に至る林道側の「史跡看板」のある虎口方向から侵入すると、直進からいきなり左折のクランク!これはまさに横矢掛けではないでしょうか?
すると虎口の土塁の切れ目には門(枡形門)があったのではないでしょうか? そして左へと誘導する土塁で「枡形」を構成し「本丸門」で遮断する。
枡形の上には敵を迎え撃つ迎撃部隊が配置されている、、、というような妄想。
写真左が松倉城方向。
左側の正面土塁と石垣、右側の側面土塁と石垣の切れ目が正面虎口で、突当りに土塁の壁があるので左に曲がるしかない。すなわち「横掛」?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/4b/b8604ceb2487a13f7f2fa4f5e85bcdee.jpg)
左に曲がると舘の平坦部が広がる。写真の作業小屋は関係ありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/d4/e6f515a7acc5bfe6794c1d0e787a4366.jpg)
目を転じると中央の平坦部を土塁が取り囲んでいることに気づく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/cd/3107e7c948781410bb63c2f66d9f259e.jpg)
ここで正面虎口の「横矢掛」を「枡形門」に置き換え(想像)、「正面図」にしてみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/f9/02d7879e42516ca757bdae2d80d5e775.jpg)
【舘側面】
写真奥が「金山谷」方向、手前が「北山鉱泉」方向、左側が「武隈屋敷」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/20/d286fe87ee547e0344b4625af734652c.jpg)
舘、側面の北山鉱泉-金山谷道は金山谷方向に向かって下り勾配となっている。
写真左手が舘の正門虎口方向(北山鉱泉側)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/98/21b0ad38f2417af45740e13e3c1195a8.jpg)
これを側面図で表すと
内部の平坦面、傾斜、土塁、石垣、を透視する方法で描写した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/5f/71bfe0893c9fb46bbc9b9fb5f25a140a.jpg)
【舘背後の虎口】
舘背後の谷側には民家の入り口があり、こちは県道に面しており両脇には「武隈一族」の忠魂碑と作業小屋が現存している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/af/4843c819a384fec6f626a2215705fcb0.jpg)
こちらの後部を正面図にしてみた。
手前に向かって下り勾配。また左から右(金山谷方向)に向かって下り勾配となっている。
一段高い平坦面に現在は民家(空き家)が建っているが武隈屋敷との関係は分かりません。また道路側の入り口には明治時代のものと思われる「武隈一族の忠魂碑」が建立されています。
民家が建つ平坦面から、舘の平坦面を覆い隠すように土塁と石垣が積まれています。
また石垣の虎口と道路側の入り口とは直線で結ばれておらず、クランクしていることからこちらにも「横矢掛け」があったのではないかと想像されます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/b5/c681d5312b823ae1ddbe270abf6cc1d4.jpg)
【全体図】
外周3面が道に面しており、それぞれ土塁と石垣によって囲まれて、もう一方の面は竹藪に覆われている。
三面がいずれも違う勾配を持つという複雑な地形に平坦面を確保して、外周を傾斜に合わせて法面と石垣を積むという高度な土木技術。そしてそれが現存していることに驚きを覚えます。
虎口は前後二か所にあり、敵の直進を止めるため「横矢掛」もしくは「枡形」の工夫が凝らされていたと考えられます。
藪側には二重の土塁と空堀が施されていますが、こちらからの侵入の可能性は少なかったのでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/99/a750882e156b1ab156fd608c4c90cc43.jpg)
側面側の土塁は幅が広く、平坦面が確保されているので、もしかしたら何かの防御施設が建っていたのかも知れません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/c3/9a224bc3610bdc992527d4677df97b37.jpg)
民家側の傾斜面に施された土塁と石垣は「角石」もしっかり残り堅固なものです。
法面の護岸と言うほかに、舘内側を防御する土塁でもあり、下から見上げると城内の様子が窺い知ることはできなかったことでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/6b/7884b18fe0b00548d7309b8d3a7f5145.jpg)
舘内に一か所石積みの土塁跡が見受けられました。民家側に横一線で築かれていますが盛り土などは見当たらず、櫓があった跡とは考えにくいのですが
二重の石垣で守られていた本丸跡(舘跡)ということでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/f3/079a6b13a198a6681b9ffe868da8302c.jpg)
これを平面図にしてみました。
こうして全体をみてみると、小さいながらも周囲を土塁と石垣で固めた要塞としての「武隈屋敷」の様子が浮かび上がってくるようです。
側面の平坦地と、一段下がった現在民家がある場所は、当時なんらかの曲輪があったのかもしれませんね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/96/2c2930b82ba41f4fb1a36b8863c9cd22.jpg)
当時の遺構がハッキリと確認出来て妄想は膨らむばかり。
これが山城歩きの醍醐味だと意気揚々として下山しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/c6/f09f3d49a07edbbdf36becfdfbda9ddd.jpg)
【小菅沼城】
《松倉城郭郡を構成する松倉城家老の居宅》
名称(別名);武隈屋敷
所在地;富山県魚津市小菅沼1181
城地種類;屋敷地(230m/-)
築城年代;戦国期
廃城;戦国期
築城者;武隈氏
主な城主;武隈氏
文化財区分;
遺構;削平地・切岸・土塁・石垣・横堀
近年の主な復元等;
※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅱ
地図;