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あみの3ブログ

012 会津若松城@福島県会津若松市 令和元年(2019)5月5日、6日

訪れたのは平成から令和に改元した2019年の大型連休
ラーメン食べ歩きと、城歩きの二兎を追う旅です(笑)

【初日5月5日】
磐越道で一旦会津若松を通り過ぎ、東北道から白河と福島市内でそれぞれ目的のラーメンを食べてから会津若松へ戻るという行程。
時間的にその日のお城見学は無理と判断し、白虎隊が最後を迎えた「飯盛山」を訪ねることにしました。


16時半近くにもなるとさすがに観光客の姿も少なく、最寄りの駐車場はどこもガラガラ。お土産屋さん併設の駐車場に無料で停め参道を動く歩道で登りました(笑)


中腹のお土産屋さん街を抜け山腹にある慰霊碑から階段を下りたお城が一望できるところに白虎隊の像が建立されています。


少年隊士の見つめる方向に電柱のような高いポールが見え(目印でしょうか?)、その先に鶴ヶ城が有ります。


当時はこの場所からお城を望み、官軍の砲撃で炎上する城下の煙をお城が炎上していると錯覚し、落城する鶴ヶ城と共に自刃を決意したそうです。
しばしその場で鶴ヶ城をみながら往時に思いを馳せ少年兵たちのことを想像していました。


そして先ほど来た山腹の慰霊碑に戻り、白虎隊士十九士の墓に詣でる。
飯盛山で自刃した14歳から17歳の少年たちが葬られています。


【そもそも白虎隊とは】
フランスの軍制に習い年齢別に部隊編成、方角の守護神である玄武(げんぶ)、青龍(せいりゅう)、朱雀(すざく・しゅじゃく)、白虎(びゃっこ)を隊名につけました。
玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36歳から49歳)、朱雀隊(18歳から35歳)、白虎隊(16,17歳)に大きく分けられ、さらに身分により高い方から、士中(しちゅう)、寄合(よりあい)、足軽隊に分けられていました。
「白虎隊」は約340名おり、「士中一、二番」「寄合一、二番」「足軽隊」の5隊に分かれていました。 この中の「士中二番隊」42名が、慶応4年8月23日(太陽暦では10月8日相当)に、猪苗代湖近くの「戸ノ口原」で戦いましたが、退却を余儀なくされ、うち20名が(人数には諸説あり。他所での戦死者も飯盛山での自刃(じじん)者に含まれている模様)、飯盛山に逃れてきましたが、城下で発生していた戦火を見て、もはや会津に勝ち目無しと思い、敵の手にかかるよりはと、自刃しました。(理由には諸説あり)  元号が明治に変わる16日前の出来事でした。
、、、白虎隊記念館HPより引用




【二日目5月6日】
早朝から予定通り喜多方でラーメンを食べてから会津若松に戻り、いよいよお城見学です。
おりしも「鶴ヶ城桜まつり4月5日~5月6日」期間中でいろんなイベントや行事が行われていました。


天守の内部は博物館となっており会津の歴史に触れることができます。平成23年には「赤瓦」へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現し、現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守となっています。


会津若松城の歴史の中で最も重要なのは会津戦争で新政府軍の砲撃を受けながらも1か月間耐え抜いたこと。
会津藩が逆賊の汚名を着せられ攻撃されなければならなかったこと。
会津藩の家訓を守りその決断をした会津藩主松平容保(かたもり)
会津藩が幕府・徳川家への忠勤を誓った理由

【初代藩主保科正之は】
二代将軍徳川秀忠と侍女の間に生まれた四男(庶子)。つまり三代将軍家光の異母兄弟(庶弟)
織田信長の妹「お市の方」が戦国大名「浅井長政」との間に設けた三人の姫(長女は秀吉の側室になった「茶々」、三女は「京極高次」の正室の「初」)の次女「江」が秀忠の正室になっており、いわば「江」に隠れた不倫の子(;'∀') 旧武田信玄の家臣であった信濃高遠藩主「保科正光」が預かり正光の子として養育された。
その後正光の後を継ぎ信濃高遠藩三万石の藩主となり、幕府より「松平」姓を名乗ることを勧められたが、保科家への恩義を忘れず生涯「保科」姓を通した。
将軍秀忠の死後三代将軍家光は、この謹直謙虚で有能な異母兄弟を厚く信頼し、会津藩二十三万石の大名に引き立てた。
家光は死に臨んで正之を枕頭に呼び『宗家を頼むと』言い残した。このことに感奮した正之は「会津家訓十五箇条」を定めた。

【会津藩の風土と家格】
第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり藩主が裏切るようなことがあれば家臣はこれに従ってはならぬ」と記し、以降藩主・藩士はこれを忠実に守った。
三代藩主正容(まさかた)公の時に、松平姓を名乗るようになり、会津松平家は「御三家」につぐ「御家門」という家格を持っていました。

【幕末の藩主松平容保は】
水戸徳川家の系統
高須藩主松平義健(よしたつ)の七男として生まれ後に、慶勝、茂栄、容保、定敬の4人は高須四兄弟と呼ばれるようになった。
次男:慶勝 尾張藩尾張徳川家養子 《第14代尾張藩主》
五男:茂栄 高須藩主(義比)→尾張藩主(茂徳)→一橋徳川家養子(茂栄)《尾張藩15代藩主》→《一橋家当主》
九男:定敬 桑名藩久松松平家養子 《桑名藩主・京都所司代》

この遺訓を守り、京都守護職を引き受け佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。
幕末、江戸幕府の力が衰えると、京都の治安の回復のために「京都守護職」が創設され、会津藩に白羽の矢が立ちました。藩内では「薪を背負って火を消しにいくようなもの」と反対意見が多数を占め、九代藩主松平容保(まつだいら・かたもり)公も固辞していましたが、幕府の重臣達は強引に会津藩に引き受けさせました。 会津藩は外交政策をめぐっての朝廷、幕府、諸藩の主導権争いに巻き込まれてしまいました。(文久2(1862)年)
元治元(1864)年、「一会桑」(一橋慶喜、会津藩、※桑名藩)勢力は、孝明天皇の支持のもと、「禁門の変」において、急進攘夷派の長州藩らの勢力を京都から追放しました。
しかし、慶応2(1866)年、孝明天皇が急死すると、「一会桑」勢力に対する諸藩の不満が高まり、会津藩は対幕強硬派の標的にされてしまったのです。
慶応4(1868)年1月、大政奉還後の権力争いから、「戊辰(ぼしん)戦争」という国内を二分する大きな内戦になりました。薩摩藩、長州藩などの「新政府軍」と、会津藩、桑名藩、庄内藩などの「旧幕府軍」との戦いになりました。
※桑名藩主松平定敬は容保の実弟で、容保が京都守護職、定敬が京都所司代という幕府による兄弟人事であったと言われている。

■徳川幕府の終焉
 慶応3年(1867)11月、薩長両藩を中心とする倒幕派が攻勢に転じると、十五代将軍慶喜は大政奉還し、徳川家を中心とする天皇親政を目指しますが、倒幕派の策に敗れると一転して大坂より兵を進め、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で戊辰戦争は火蓋を切りました。戦意にあふれ、兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は大敗し、ついに江戸開城によって徳川三百年の歴史は終わりを告げました。

■会津の悲劇
 しかし、弟定敬(桑名藩主)ともども朝敵の筆頭にあげられた容保にとって、これからが悪夢のはじまりでした。主戦派に後押しされた容保は、恭順を主張する家老神保修理を切腹させ、軍制を改革して朱雀・青龍・玄武・白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備えはじめました。こうして5月には奥羽越列藩同盟が成立して、新潟から東北にかけての諸藩は、新政府軍との武力衝突をはじめたのです。
 初戦では新政府軍の兵力不足もあって列藩同盟は善戦しますが、越後長岡城(新潟県)や二本松城の落城のころから戦雲は急速に傾き、8月20日には新政府軍に会津攻撃の命令が下りました。福島へ通じる街道の母成峠から会津に侵入してきた新政府軍は、白虎隊などの予備兵の抵抗を蹴散らし、8月23日には鶴ヶ城を囲みました。この時、白虎隊士中二番隊や西郷頼母一族の自刃など、幾多の悲劇が生まれたのです。

■一ヶ月に及ぶ籠城
 孤立無援の中で容保は籠城しましたが、蒲生氏郷が築き、加藤明成が改修した鶴ヶ城はさすがに名城、1ヶ月にもおよぶ戦闘に耐え続けました。しかし、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、容保は降伏を決意します。この日に会津秋まつりが開催されるのは、戊辰戦争に倒れた先人の霊を祀るためでもあります。


■戦争が終わって…
藩主容保以下の将兵は、猪苗代や塩川などに謹慎して敗戦処理を待ちました。その結果、家老萱野権兵衛の切腹によって会津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子容大に斗南藩3万石(青森県東北部)が与えられました。北辺の酷烈な地を目指し、山川浩をはじめとする沢山の会津藩士とその家族が会津を去りました。

『明日よりは何処かの誰か眺むらむ 馴れにし大城に残る月影』
(城を去るにあたって山本八重子が白壁に刻んだ一首。詠人は、同志社創立者新島譲の夫人となった) 、、、会津の歴史より引用→こちら




【歴史】
室町時代からあった葦名氏の黒川城を蒲生氏郷が文禄元年(1592)から改修し、町の名称を黒川から会津若松に改めた。その後も加藤氏の時代に空堀を水堀に変えたり、地震で壊れた七重の天守を五重にするなどの大規模な改修が行われ、東北地方屈指の名城となった。幕末の戊辰戦争では会津藩は新政府軍との戦いにおいて1か月も籠城に耐え城の検漏ぶりを見せつけた。多用された石垣には野面積みはじめとするいろいろな技法のものがある。戊辰戦争でダメージを受け明治初めに取り壊された天守は昭和40年(1965)に再建された。

【歴代城主】
葦名氏 1189~1589(400年間)
南北朝時代小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされ、戦国時代中期までには黒川城とその城下町が成立していた。

伊達氏 1589~1590年の1年間)
天正17年(1589)東北の覇者伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して葦名氏を滅ぼし黒川城を手に入れた。しかし政宗は秀吉に臣従し会津を召し上げられた。

蒲生氏 1590~1598 1601~1627(8年間、26年間)
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で文禄元年(1592)近世城郭に改修し城下町を整備した。町の名前を黒川から若松に改めた。(出身地の滋賀県蒲生、若松の杜に由来との説もある)文禄2年(1593)望楼型七重天守が竣工し名は「鶴ヶ城」に改められた。
慶長3年(1598)氏郷の子秀行は家中騒動92万石から18万石に引き下げられ下野の国宇都宮に移封された。

上杉氏 1598~1601(3年間)
代わって越後の国春日山から上杉景勝が120万石で入封。慶長5年(1600)徳川家康は、関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ出羽の国米沢に移封した。

加藤氏 1627~1643(16年間)
翌慶長6年(1601)再び蒲生秀行が入城したが寛永4年(1627)嗣子(しし=跡取り)がいなかったため伊予の国松山の加藤嘉明と国替え。
慶長16年(1611)会津地震で倒壊した天守を現在みられるような層塔型天守に組み替えた。

保科氏松平氏 1643~1868(225年間)
寛永20年(1643)加藤明成は改易され出羽の国山形より徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。その後明治維新まで(松平に改名)居城となる。
慶応4年(1868)戊辰戦争の際には会津戦争にて会津勢が立て籠もる鶴ヶ城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に薩摩勢の援軍の助けを借りても遂に城は落ちなかったがその後開城された。天守を含む多くの建物が被弾し傷みも激しかったが、そのまま放置され破却を迎えている。




【会津若松城】
《戊辰戦争を戦い抜いた奥州屈指の堅城》


名称(別名);会津若松城(あいずわかまつじょう)別名鶴ヶ城(つるがじょう)
所在地;福島県会津若松市追手町1-1
城地種類;平山城
築城年代;至徳元年(1384)、文禄元年1592)
築城者;葦名直盛、蒲生氏郷、加藤明成
主な城主;葦名氏、蒲生氏、加藤氏、保科氏、松平氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成13年干飯櫓、南走長屋復元 平成23年赤瓦に葺き替え
天守の現状・形態;層塔型、五層五階 鉄筋コンクリート作り(再建)
地図;



※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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