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周山城・後編「曲輪・石垣・西の城」→こちら
周山城は天正年間(1570年代)丹波平定を命じられた明智光秀が築城したと伝わる。
若狭から京都を結ぶ周山街道の押さえを目的とした城で、山頂部は主郭を中心に東西南北の尾根上に曲輪を造成。主郭東側には低い石塁で囲い込まれた通路があり、石塁上に土塀を巡らせていたと推察される。虎口や井戸の跡、建物の存在を示す瓦片からは織豊期の特徴が見られ、現存する総石垣の遺構は壮大である。主郭から西へ続く尾根にある曲輪群の石垣は特に当時の様子を残しており、野面積みながらも非常に高い石垣が見られる。また、西尾根部分には土の城跡があり、支城の存在が確認できる。
当城は、天正9年(1581)8月に光秀が津田宗及と十五夜の月見を楽しんだほか、本能寺の変後の天正12年(1584)2月に豊臣秀吉が入城した記録も残る。
織豊期の築城技術の特徴を残し、文化財の価値も高い、中世京北町史の貴重な遺産である。、、、京都市(現地案内板より)
場所は京都市右京区京北周山町城山
第1目標地点は「道の駅 ウッディー京北」
そこから第2目標地点として「くろみつ(黒塗りの光秀座像所蔵)として有名な慈眼寺」を目指します。 道案内・番外編は→こちら
慈眼寺の前の通りを35mほど北へ進み、クランクした通りの先を左に曲がると、突き当たりが登城口です。
※ヤマップ3D
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登城口
民家の右手の農道を進みますが、周辺には駐車場や車を停める場所はありませんので、慈眼寺横の「代官所跡」まで戻って駐車しました。
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車進入禁止のロープが張られ、城址案内看板もあります。
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登城道は「京都1周トレイル」のハイキングコースにもなっているため凄く整備されています。また、要所要所に案内看板もあり、道迷いすることはありませんでした。
「本丸まで1500m」
ここから山の中に向かって登りとなります。
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ここから先は尾根に向かって、山腹のつづら折れを登るキツいコースです。
途中には道を掘り下げ、「S字」にくねくねさせた、狭くて薄暗い箇所があります。半地下道みたいで敵の侵入に対処する防御施設と思われます。(友人談)
この辺りから城域のような雰囲気です。
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「本丸まで800m」
山腹のつづら折れの先、尾根の稜線上に到達しました。ここからが城域となります。
※周山城址を守る会作成パンフ(道の駅ウッディ、慈眼寺にて配布中)に加筆
※青丸は未訪
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この分岐の右手には最初の曲輪、北東尾根上に築かれた作平地があります。帰路に見学するつもりで先を急ぎましたが帰路では。。。
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「本丸まで500m」
南東尾根の分岐で、こちらも尾根先に曲輪群が展開していますが、帰路に見学するつもりで先を急ぎましたが帰路では。。。
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眺望
京都と日本海の小浜を結ぶ周山街道【鯖街道】(現在の国道162号線)、琵琶湖の堅田と亀岡から丹波へ抜ける主要道(現在の国道477号線)を眼下に見下ろすことができます。
また、桂川と弓削川の合流点があり、まさに陸路・水路の両面で京都への要衝の地であったことがわかります。
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「本丸まで300m」
東の支尾根上に築かれた曲輪の西端(本丸側)に石垣造りの虎口が現れました。
尾根と平行に斜面を登る大手道を右にクランクさせて石造りの城門・虎口に誘導し、城門・虎口を抜けた先でさらに左へクランクさせ細い尾根を本丸に向かって登っていくというイメージです。
この石垣は令和4年の第2次調査(倒木破壊による緊急発掘調査)で明らかになった場所です。
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虎口正面(やや左側より)撮影
左右両側に石塁があり城門が存在したと考えられ、中央はスロープになっているが元は石の階段だったと思われます。
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左側(西側)の状態が極めてよいです。(一部土嚢で補強)
隅石
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側面
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虎口石垣の下、斜面にも石垣の一部が残存しています。
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虎口曲輪の周囲にも石垣の跡が散見できます。帰路に見学するつもりで先を急ぎましたが帰路では。。。
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本丸まであと300m
細い尾根に大手道は続きます。
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いよいよ本尾根に到達。
発掘調査現場です。
先ほどの城門・虎口と同じように
尾根と平行に斜面を登る大手道を右にクランクさせて石造りの城門・虎口(二の丸虎口)に誘導し、そこを抜けた先は「二の丸」。さらに左へクランクさせ細い尾根に築かれた登り石垣を本丸に向かって登っていくというイメージです。
発掘調査によって現れた二の丸虎口石垣(手前は東側斜面)と奥は虎口階段、左端が大手道
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発掘された二の丸虎口石垣東側
手前の看板は転用石の場所と内容を示しています。
目地を横方向に揃えた丁寧な積み方で、当時は今より4m以上高く積まれていた可能性があります。石垣の内側には小石が裏込めとして詰め込まれていましたが、廃城の後徹底した破城が行われ、石材と共に石垣前面に散乱していました。
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虎口階段脇の中段辺りで発見された「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」の基礎部分。
近隣の寺社から徴用した転用石を敢えて目立つところに据えたのは、新たな領主としての光秀の厳しい一面を示したものと考えられています。
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このほかにも石仏等(道祖神)も出土しています。
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二の丸虎口階段
奥は西側虎口石垣と仮設通路(未発掘部分)
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同正面から
階段は長さ9mで11段あり、9段目に平坦部と礎石が見つかったことから城門が存在していたことがわかりました。城門をくぐり、さらに2段上がり二の丸に入る構造です。
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城門
階段を登った先には礎石が発見されています。
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階段の途中に門の鏡柱(親柱)があり、登り切ったところに控え柱がある四足門となり、基礎幅などから大型の「薬医門」であったことがわかりました。
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丸瓦等の出土品から瓦屋根の城門であることがわかります。
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発掘調査風景
調査期間は令和6年11月5日~12月13日
京都市文化市民局文化財保護課が担当し、調査終了後遺跡保護のため《埋め戻し》が予定されています。
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調査結果からは
二の丸虎口は長大な階段と大型の薬医門で構成される総石垣の虎口であったことがわかりましたが、二の丸の曲輪規模に対して不相応の大きさであることから、実質上の大手門であったと考えられます。光秀の威厳と格式の高さを示し、大きな視覚的効果を狙ったものと評価できると結んでいます。
短い築城期間で険しい山中に、これだけの石垣と城門や天守を築いた光秀の人員や資材の動員能力・築城技術は卓越していると言えるでしょう。
続きは→こちら 周山城・後編【石垣・西の城】
※参考、、、現地案内板、周山城址パンフ、令和6年度記者発表資料(京都市文化市民局文化財保護課)他
【周山城】
《》
名称(別名);なし
所在地;京都市右京区京北周山町城山
城地種類;山城
標高/比高;480m/220m
築城年代;天正8年(1580)
廃城年代;天正10年(1582)破城による
築城者;明智光秀
主な改修者;
主な城主;明智光忠、加藤光泰
文化財区分;なし
主な遺構;曲輪、堀切、石垣、石塁、虎口、枡形虎口、井戸
近年の主な復元等;2023年、2024年発掘調査
地図;