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あみの3ブログ

周山城・後編【石垣・西の城】@京都市右京区 2024年12月10日

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東の城、西の城、、、全体図
※京都府教育委員会資料より、以下同



東の城、中心部



二の丸は発掘調査のため立ち入り禁止となっています。(12月13日までの予定)


なので、二の丸の北側斜面に下りてみました。
虎口


二の丸北側斜面に残る石垣


学芸員さんから転用石があると教えられ


見る方向を変えると、ハッキリわかりました。



二の丸北側斜面から本丸にかけて石垣の跡がずっと続いています。
南面は大手道から見える(見せる)場所なので見栄えよく丁寧に積まれていますが、北面はあまり人目に触れない場所にも関わらず全域にわたって石垣で覆われています。



「登り石垣」
二の丸から本丸にかけての斜面に積まれた石塁。大型の薬医門とこの石塁が、二の丸と本丸を一体的に見せています。

尾根の左右に積まれた石塁がバラバラに崩落しています。これは破城の跡と考えられています。




「本丸」
本丸虎口の土塁


石塁、石段の跡?
積み石が散乱しています。


本丸に建つ看板、案内板



本丸中央に残る三つの土塁
穴蔵をもつ天守台の跡だそうです。


側面から



北側の虎口を出て西側の曲輪へ下りてみます。


振り返って本丸方向を見る
階段状の石段と両側に石塁らしき積み石






「壮大な石垣①」
本丸下、西に向かう尾根の付け根から南西面、西面と石垣が連続しています。




途中には一部屈折させる「折れ」を見ることができます。これは地形に合わせたものか、それとも横矢をかけるための防御の工夫なのか?



城道にも石塁が施され、下から見上げると一体化して高石垣に見えます。



石垣は南尾根にまで続き、グルッと回り込んで本丸南側の虎口に到達しました。
こちらも石の階段をもつ枡形虎口で、斜面から左にクランクして階段を登ると今度は右にクランクする構造です。


「鷹屋曲輪」の看板があるところから見下ろすと、内枡形であることがよくわかります。




「井戸跡」
本丸北側虎口を出て北面を少し行くと井戸の案内看板があります。案内に従って下へ下りてみました。
素掘りの井戸と違って、周囲を石組みした立派な井戸です。
この井戸を見ただけで光秀の凄さが伝わってきます。


もう少し下っていくと北尾根も曲輪群が有りますが、案内表示もなく若干不安があったので、確実に押さえたいポイント「壮大な石垣②」と西の城を優先させました。


本丸に接続する西尾根のほぼ先端部「小姓曲輪」


小姓曲輪石塁



小姓曲輪の切岸部分に「壮大な石垣②」が残っています。


北西隅部石垣
隅部は「算木積み」的な積み方ですが、石垣の発展段階からすると「過渡的な段階」のものと考えられています。


北面石垣
野面積みですが、まるで高石垣ですね。調査では高さが4.5mも有るそうです。
石の大きさは50~60㎝で10㎝前後の間詰め石が詰められています。



西側先端部分から石塁が高石垣に向かって続いています。


最先端は崩落しているので立ち入り禁止。資料によるとそこにも転用石(宝篋印塔の基礎部)があったとのことです。



長さ21m、高さ1.2~1.6mの石塁が高石垣に接続した構造で、幅1.5mの築地(ついじ)の基礎と考えられています。
築地とはこの石塁の上に、屋根瓦を葺いた板塀のことで、後の多聞(多聞櫓)のような城壁でしょうね。



この先西尾根の先にある「西の城」を目指します。
西の城まで500m看板


途中で出会った城道の石積み


西尾根を分断する「大堀切①」


堀底から断面



「大堀切②」



西尾根


西の城拡大図
※京都府教育委員会資料より



手前の見張り台みたいなところから西の城側面(西側)


西の城中心部


比田曲輪


西の城最西端
自然地形なのか、それとも加工したものなのか? 丘のような高台(切岸?)の両側に尾根を通る道があります。
丘のような高台から道の監視や、西尾根を攻め上ってくる敵の監視・迎撃が目的だったのでしょうか?



最西端から切岸を登ると、二つのコブ状の土塁(虎口か?)が有ります。


コブ状の土塁に上がって下を見下ろすと、西尾根の通路が丸見えです。
ここで監視と迎撃の出丸的役割があったものと思われます。


藤本曲輪



曲輪館を仕切る土塁や虎口土塁も確認できます。





南西面斜面の横堀みたいな加工跡
まさか後生の林道?



当日の活動データ
活動時間;3時間55分
移動距離;5000m
高低差;370m



行程記録
ヤマップ3D





調査機関による報告書のまとめでは、
『周山城は存続期間がほぼ天正年間中頃に限定でき、築城技術が飛躍的発展を遂げた織豊系城郭の発達過程を把握する定点となり得る城郭です。築城に造詣が深いと評された光秀の城ですが、亀山城・福知山城は後生に改変を受け、坂本城は廃城となり資材は転用されていることから、周山城は当時の築城技術を今もうかがい知る貴重な城郭と言えるでしょう。』と結んでいます。

土の城が全盛の山城において、全山総石垣で格式の高い門や天守をもつ周山城は、これからも新たな発見があることでしょう。そして、地域の保全活動には感謝しか有りませんね。また、行政には国の史跡に指定されるよう取り組みをお願いしたいものです。


※参考、、、現地案内板、周山城址パンフ、令和6年度記者発表資料(京都市文化市民局文化財保護課)他

【周山城】
《》

名称(別名);なし
所在地;京都市右京区京北周山町城山
城地種類;山城
標高/比高;480m/220m
築城年代;天正8年(1580)
廃城年代;天正10年(1582)破城による
築城者;明智光秀
主な改修者;
主な城主;明智光忠、加藤光泰
文化財区分;なし
主な遺構;曲輪、堀切、石垣、石塁、虎口、枡形虎口、井戸
近年の主な復元等;2023年、2024年発掘調査
地図;



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