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加賀八家 前田土佐の守@金沢 令和元年(2019)10月26日 

ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思いに日記代わりに記録していきたいと思います。

北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖前田利長
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の金沢城であり、加賀藩主前田氏です。
先ずは身近なここらから歩いていきたいと思います。


【前田土佐守家資料館】
金沢片町 せせらぎ通りに鉄筋コンクリート造り2階建て、門を備えた日本家屋の資料館です。


周辺には武家屋敷跡もあり、土壁が趣の風情を醸し出しています。




前田土佐守家(小松城代1万1000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は木瓜ノ内梅鉢。
前田利家の没後に能登一国を与えられた二男・前田利政を祖とする。利政は関ヶ原の戦いで西軍に加担した疑いで改易されたが、利家の正室・芳春院の奔走でその嫡男が召しだされた。宗家では断たれた芳春院の血筋を伝えることから家格(筆頭家老とは別のもの)は八家筆頭とされたが、石高は逆に八家最小である。
前田利政(利家の二男)- 直之 - 直作 - 直堅 - 直躬 - 直方 = 直時(直方四男直養の子)- 直良 = 直会(13代藩主斉泰の八男)= 直信(直良長男)出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




前田土佐守家すなわち直之系前田家は、藩政期においては利政から直信までの10代を数え、初め1万50石、4代直堅以降は1万1000石の禄を世襲した。当家の家祖となる前田利政は、加賀藩祖前田利家・その夫人まつの次男である。したがって当家は加賀藩主前田家の分家筋にあたる(→系図参照)。


家祖利政は七尾城にあって能登国22万石余りを領有していたが、関ヶ原の戦いで徳川家康の出兵要請に応じなかったことにより領知を没収された。その後京都に隠棲し、かの地では多くの文化人や豪商たちと交流を重ね、寛永10年(1633)京都で没した。
利政の嫡男である2代当主直之は、幼少時に祖母芳春院(前田利家夫人まつ)にひきとられて養育された。祖母芳春院の尽力があって、元和元年(1615)12歳の時、3代藩主前田利常に召し抱えられた。これ以後、前田土佐守家は藩政期を通じ1万余石の禄高をもって代々「八家」の一つとして藩の要職を歴任し、10代当主直信の時に明治維新を迎えた。




「八家」とは、加賀藩行政組織の最高職である年寄役の職に就く門閥のことである。いずれも万石以上の禄高を有する大身の家臣で全部で8家あったことからこう呼ばれた。他藩でいうところの家老にあたる。八家の制度は元禄期(17世紀末)に5代加賀藩主前田綱紀によって定められ、本多家(5万石)・長家(3万3000石)・横山家(3万石)・前田家(直之系1万1000石)・前田家(長種系1万8000石)・奥村家(宗家1万7000石)・奥村家(支家1万2000石)・村井家(1万6569石)であった(禄高は幕末時の石高)。
藩政期の当主10人のうち利政を除く6人が従五位下土佐守または近江守に叙爵されている。 このうち5代直躬・6代直方・7代直時・10代直信が土佐守を通称としたことから、当家は一般に「前田土佐守家」と称されたのである。4代直堅・8代直良は近江守を通称とした。ちなみに、家祖利政は従四位下侍従に叙任されている。


人持組頭(加賀八家) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「本多家」(5万石)筆頭家老、維新後男爵。家紋は丸ノ内立葵。
初代本多政重は徳川家康の重臣本多正信の次男で上杉景勝の重臣直江兼続の養子であったが、故あって徳川・上杉両家を去って前田利長に仕える。
本多政重 - 政長 - 政敏 - 政質=政昌(政質の弟)=政行(政長四男政冬の子) - 政成 - 政礼 - 政和 - 政通=政均(政通の弟) - 政以。

「長家」(穴水城主3万3000石) 維新後男爵。家紋は銭九曜。
能登の在地勢力であり、畠山七人衆として知られた能登畠山氏旧臣。利家が能登を領して以来、臣従する。
長連龍 - 連頼 - 元連 - 尚連=高連(尚連弟連房の子) - 善連=連起(高連弟連安の子) - 連愛=連弘(本多政礼次男、連愛外孫、黒羽織党首) - 連恭=成連(連恭弟)。

「横山家」(富山城代3万石・国家老) 維新後男爵。家紋は丸ノ内万字。
前田利長に仕え、賎ケ岳の戦で戦死した横山長隆を祖とする。利長が家督を継ぐと共に、利長の直臣から前田宗家の家臣に編入された。
横山長隆 - 長知 - 康玄 - 忠次 - 玄位=任風(玄位の弟)=貴林(奥村悳輝の三男) - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - 隆貴 - 隆平(祖父隆章の嫡孫承祖)

「前田対馬守家」(越中守山城代1万8000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は角ノ内梅鉢。
尾張前田同族の別家(元はこちらが本家筋ともいう)。初代前田長種の妻は利家の長女幸。
前田長種 - 直知 - 直正 - 孝貞 - 孝行 - 孝資 - 孝昌 - 孝友 - 孝本 - 孝中=孝敬(分家前田孝備の子)。

「奥村河内守家」(奥村宗家、末森城代1万7000石) 維新後男爵。家紋は丸ノ内九枚笹。
奥村家は尾張前田家代々の譜代の臣。奥村永福が祖。
奥村永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝=有定(横山貴林の子)=修古(奥村温良の子) - 栄輇=尚寛(奥村隆振次男) - 栄実 - 栄親=栄通(奥村質直八男) - 栄滋。

「村井家」(松根城代1万6500石余) 維新後男爵。家紋は丸ノ内上羽蝶。
利家の尾張時代からの臣・村井長頼が祖。当初七家だった人持組に後から村井家が加わり、以降八家と称される。
村井長頼 - 長次=長光(織田有楽斎の長男長孝の四男) - 長朝 - 親長=長堅(前田孝行五男)=長穹(前田孝資三男) - 長世 - 長道=長貞(奥村質直七男)=長在(前田孝保次男)。

「奥村内膳家」(奥村分家、1万2000石・留守居役) 維新後男爵。家紋は丸ノ内九枚笹。
奥村永福の次男易英を祖とする。
奥村易英 - 和忠 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬=温良(明敬弟) - 保命=易直(保命弟)=煕殷(易直弟)=成象(奥村忠順の子)=隆振(横山貴林の子) - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝=則友(惇叙三男)。

「前田土佐守家」(小松城代1万1000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は木瓜ノ内梅鉢。
前田利家の没後に能登一国を与えられた二男・前田利政を祖とする。利政は関ヶ原の戦いで西軍に加担した疑いで改易されたが、利家の正室・芳春院の奔走でその嫡男が召しだされた。宗家では断たれた芳春院の血筋を伝えることから家格(筆頭家老とは別のもの)は八家筆頭とされたが、石高は逆に八家最小である。
前田利政(利家の二男)- 直之 - 直作 - 直堅 - 直躬 - 直方 = 直時(直方四男直養の子)- 直良 = 直会(13代藩主斉泰の八男)= 直信(直良長男)。





【前田土佐守家資料館】


名称(別名);
所在地;石川県金沢市片町2-10-17
城地種類;
築城年代;
築城者;前田利政(藩祖利家次男)
主な城主;
文化財区分;
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;
地図;



※出典、、、前田土佐の守資料館
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