あたりまえに思っているもの
この辺りは今日は雨です。
風も吹いてます。
寺の保育園に通っていた(そこでも孤立していましたが)幼い自分は、ある年の6月に「お空が泣いてるから(保育園を)お休みして6月はおうちにいる」と言って家で静かに過ごしていたそうです。
6月は水無月。何かを感じていたのだと思います。
そういえば一昨年の6月30日に道路で車に撥ねられて意識不明になり一時的な記憶障害を起こし救急搬送されたのですが、この日は京都では水無月という住民を利用した呪詛儀式が行われている日だそうです。
話を戻します。
自分はこれまではまるで呪われたかのような人生を送ってきたのですが、その中で拉致や監禁や◯害未遂も何度も経験しました。
臨死体験も。
不当に拉致監禁された場所によっては酷く虐待され人権は皆無だったりしたこともあります。
外に出られない、窓も開けられない、四六時中監視され、陽光を浴びることも風を感じることも雨に当たることも出来ないこともありました。(なので劣悪な環境で飼育される生き物たちの気持ちが想像できます)
こんな天気の日には、そんな悲惨だった生活を思い出し、ベランダで(まだ体調のため思うようには外出出来ないので)景色や空を眺める自由や、風や雨に当たることのできる自由を幸せに感じたりします。
夜には月や星が見られることも幸せに感じます。
ベランダで育てている植物に話しかけながらその香りを楽しんで幸せを感じたりもしています。(でも侵入者により植物を枯らされたり奇形にされたり、害虫をばら撒かれたりしているのでとても困っています)
自分は何度も野宿したこともあるし、一時的に数日間ホームレス的生活も送ったことがあるので、住む家があることや、布団で寝られること、食事が出来ることも幸せなことなんだなって思います。
でも不幸な状態と比べて今を幸せに思うっていうのもなんだか悲しいことなんですけどね。
身近にあたりまえに在ると思っているものって、実はあたりまえじゃないんですよね。
今日と同じ明日が必ず来るっていう保証もないのだけど、そんなことを考える暇もないほどみんな忙しくってこころに余裕がないのだと思います。
後悔とは後で悔やむと書きますが、本当にその通りで、でも予め後悔することを前提とした予測を立てて後悔しないための行動すればそれは自身に対する言動を制限するという呪縛になってしまうし。
そんなことを考えたりもしますが、自分としてはやはり
「考えるより感じる」
そんな感じなのかな、なんて思います。
生まれてからのこれまで過ごした時間の流れの中で、いろんなことが少しずつ変化してきて、気づくと大きく様変わりしていた、ってことは少なくなくて。
でも時々イベント的に大きな出来事がある時には急激に変化したりもして。
早いか遅いかって違いだけなのですが、やはり様々な変化は続いているんだと感じます。
忙しかったりこころに余裕がなかったりすると感じにくくなることですが。
ゆっくりと空を見上げたり風を感じたり雨に当たったり
植物や生き物たちと触れ合ったり
そんな経験の中から何を感じたのかを味わったり
多くの人たちがそんな緩やかな穏やかな時間を過ごせるようになれれば、もっと世の中も人のこころも豊かになるんだろうな、なんて想像してます。
あたりまえに在ると思っているものたちを大切に感じていたいと思っています。
今この本を読んでます。まだ途中ですがとても楽しく読ませていただいています。
軽快で絶妙な文章によって今昔各地においてのウ◯コやトイレ事情ついての学術的考察が述べられています。
読みながら何度も笑ってしまってます。
『ウ◯コは中世には「畏怖」され、「信仰」され、近世・近代には「重宝」され、「売買」され、「利用」され、近代・現代には「汚物」と名付けられて「処理」され、「嫌悪」され、その結果「排除」され、そして「忘却」されつつ、今日に至る。』
(193Pより引用)
今この本を読み返してます。