時には目食耳視も悪くない。

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好きな和歌:落窪物語から(16)第一位

2020年09月30日 | 文学
 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(「古今集」小野小町)という歌があります。

 長雨の時季に、しとしとと雨の降る様を眺めつつぼんやりと物思いをしている間に、自分も世界も変わり果ててしまった…という風流な歌ですが、昨今の雨の降り方を見ると、前触れもなく唐突に、物を思う間もなく、物思いを押し流さんばかりに激しく降るので、小町もびっくり!というところでしょうか。

 日本には春夏秋冬、それぞれの季節に風情があり、人々はそれらを和歌に詠み込んで伝え残してきました。
 1つの和歌から、さまざまな情景が思い描かれ、まるでその歌が詠まれた瞬間、その場所に自分が立ち会っているような気分に浸ることができます。

 平安時代には、今のようなテレビやインターネット、携帯ゲームなどの楽しみがないから、さぞかしつまらないだろうと考える人が多いかもしれませんが、私は反対に想像力の豊かな人が多かったのではないかと思います。

 星座なども、現代の私たちから見れば、とうていそうは見えないと思う星の並びが、昔の人には犬や牛に見えていたようです。
 街の灯りなどない真の暗闇の中で夜空を眺め、みな好き好きに星をつなぎながら長い夜を過ごしていたのでしょうか。

 一人で布団をかぶって、スマホの画面で世界中から配信される動画を見ながら寝落ちする夜とどちらが魅力的だと思うかは人によるかもしれませんが。

 星の見え方も、雨の降り方も昔とは違うかもしれませんが、人が自然に触れ、あるいは人と出会い、別れる時に何かを感じ、それを言葉で表現したいという衝動は今なお変わっておらず、使われる言葉に変化はあるものの、行為自体は誰もが生まれながらに持っている本能といっても過言ではないような気がします。

 物質的に豊かな社会になり、本(文字)を読むこと以外の娯楽や、一人でも便利に暮らせる道具が増えた現代では、誰かの言葉に耳を傾けることや、言葉のやりとりを煩わしく思う人も多いかもしれません。

 センスの良い便箋やペンのインクを選んで、書き損じに気をつけながら、慎重に手紙を書き綴ることを非合理的なことだと思う人もいるでしょう。

 最近では、LINEで一言「さようなら」と送って、恋愛関係を終わらせる人もいると聞きます。
 中には、それすらもなく、お互いに何も言葉を交わさぬまま疎遠になり、いわゆる自然消滅する場合もあるようですが。

 しかし、大きな困難にぶち当たった時、苦しみのどん底に突き落とされた時、人を救ってくれるのは人の言葉なのです。

 《落窪物語》のヒロイン・女君は、実の母に先立たれ、意地悪な継母からつらい仕打ちを受けながら育ちました。

 しかし、女君が5~6歳頃まで生きていたという実母は、筝を習わせるなど、上流階級の子女が受ける教育を女君に施していたということが物語から読み取ることができます。

 そして、女君は和歌を詠むこともできました。
 平安時代の貴族が全員、和歌を上手に詠めたかというと、必ずしもそうではなく、例えば、清少納言の旦那さんの橘則光が和歌が苦手で、歌詠み家系の奥さんとはしっくりいかずに別れたなんて言われています。(事の真相は定かではありませんが、、、)

 当時、和歌を詠むためのハウツー本などはありませんでした。
 そのため、和歌を詠めるようにするには、万葉集や古代から詠まれている大量の和歌を実際に読み、覚え、それらに習うように歌を作る練習をしなければなりませんでした。

 それができる人が教養人とみなされ、周囲の尊敬を集めたのです。
 ただ単に和歌を沢山暗誦できればいいわけではなく、覚えた和歌を参考に独自の歌を詠まなければいけません。
 これは、並大抵の技術ではできないことだと思います。数々の和歌集に名を残している人は歌人(いわゆる文学者)と呼ばれ、特に優れた歌人は「歌仙」の称号を与えられるほど貴ばれています。

 《落窪物語》で、女君が和歌を詠むことができたということは、彼女の教養の高さを意味しており、また、歌集や物語などの書物が身近にあったという事実を物語っています。
 それらの書物から、女君は沢山の言葉、それらに付随する人々の心を学び、自らのものとし、文字通り「習得」したのです。

 しかし、女君が暮らしていた中納言家には、それら人々が残した言葉たちを分かち合う人がいませんでした。
 仲の良い侍女の阿漕も、いつも女君のそばにいられるわけではありませんでしたし、阿漕には通ってくる恋人がいたので、女君が気を遣って、自分のそばにいるよりも恋人との時間を優先するように言う場面もあります。

 いつも、女君はふと心に浮かんだ和歌や言葉を、誰にも聞いてもらえずに一人で呟いていることが多かったのです。
 そんな時に、男君からの歌「君ありと―」(本ブログ『好きな和歌:落窪物語から(15)第二位』参照)が届いたのです。

 女君は内心、嬉しかったのではないかと思います。しかし、実母を亡くしているという負い目や、継母の北の方に知られたら無事では済まないだろうという危惧もあり、また、男性とのつきあい方にも慣れていない女君は何のリアクションもしませんでした。

 結局、しびれを切らした男君の行動力で二人は逢うようになりましたが、その三日目の晩。その日は雨がひどく降っていました。

 当時、男が女のもとへ通い始めて三日目の晩に、男に餅を食べさせるという風習がありました。
 女の家で作った餅を男に食べさせることで、男を一族の者に加える(つまり、婿にする)という、一種のまじないのような意味があるのですが、中納言家では、男君が女君のもとへ通っていることを知っているのは、阿漕しかいません。

 正式な婿取りとは言えないかもしれませんが、阿漕は女君のために、この「三日夜の餅(みかよのもちい)」の儀式の準備を整えようと八方手を尽くします。

 しかし、折り悪く、その晩は大雨で男君も今夜は行くのをやめようか…とためらいます。それでも、その夜が三日目の晩だということは分かっています。
 
 ずっと歌を送り続けて返事もくれなかった女君に半ば強引に迫っておいて、三日目に逢いに行かなければ、やっぱり遊びだったのかと思われてしまうかもしれない。。。

 それよりも、女君を悲しませてしまうことが嫌だったのかもしれません。
 男君は阿漕の恋人・帯刀と二人、大傘一本差して土砂降りの中、道中散々な目に遭いながら女君のところへやってきます。

 そして、涙で濡れている女君の着物の袖に触れて、「何事を思へるさまの袖ならむ」(なんで泣いてるの?)と和歌の上の句を投げかけます。
 すると、女君が「身を知る雨のしづくなるべし」(来てくれないかと思って…)と下の句を答えます。

 初めての二人の共同作業で作ったこの歌が、《落窪物語》から選ぶ好きな和歌ランキングの第一位の和歌です。
 個人的には、男君が阿漕の用意した餅を食べた時ではなく、この歌を詠み合ったこの時が、本当の意味で二人が夫婦になった瞬間なのではないかと思います。

 一人ぼっちで歌の言葉を口ずさんでいた女君も、今や愛する人と二人で言葉を紡ぐことができるのです。
 なんという幸せでしょう。

 自分の運命を思い知る冷たい雨が、恋人との絆を強くする恵の雨に変わりました。
 気持ち一つで、同じ雨でも降り方が違って見えるのかもしれませんね。


 今回で「好きな和歌:落窪物語から」は終わりです。
 拙い文章(特に今回は冗漫になりました…)に目を通していただき、ありがとうございました。

 私は決して文学者ではなく、好きな本を好き勝手に読み散らかし、好き勝手なことを書いているだけの人間なのですが、今までそれができる時間と気力があったことがとても恵まれていたのだと実感する今日この頃です。
 たとえ誰にも読んでもらえなくても、私にとって文章を書くことはある種の精神安定剤のような、心の支えでした。

 コロナ禍による仕事環境の変化で、定期的なブログ更新も難しくなってきました。
 何年後になるか分かりませんが、また好き勝手なことを書き綴れる機会が来ることを願いながら、今はいったん筆を擱きたいと思います。


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