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●本日のコトノハ●
芸術とか文化に「正解」はない。
音楽は数学の方程式ではないのである。
『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』中野雄著(2017)文藝春秋
「芸術に正解はない」という考えには、ある程度同意できます。
確かに、ただ一つの正解はありません。
しかし、この芸術の分野においてしばしば取り沙汰されるのは「正統性」なのです。
例えば、私が携わっている西洋音楽、いわゆるクラシック音楽の分野では、この「正統性」を論じようとする人が多いという印象を受けます。
楽器の演奏における「正統性」とは何か、このとても曖昧なものへの答えを出すのは容易ではありません。
そもそも、西洋文化であるクラシック音楽をアジア人である日本の人が演奏すること自体が正統ではないと考える人も世界にはいると思います。
ヨーロッパの人が演じる能や狂言、落語を、私たち日本人は正統だと感じるでしょうか?
私は学生の頃、音楽大学でクラシック音楽を勉強しながら、日本人の自分がピアノやヴァイオリンを弾き、イタリア語やドイツ語の歌曲を歌うことに何とも言えない違和感を抱いていました。
海外の国のことを知る、という意味ではそれらの勉強はとても有意義なものでしたが、私自身が演奏するということについては積極的に取り組むことができませんでした。
もちろん、日本人のクラシック演奏家が沢山海外で活躍していることは知っていますし、それはとても凄いことだと素直に尊敬しています。
そうした日本の人たちが、西洋人ではないからと、海外のステージで不当な扱いを受けたという話もあまり聞きません。
(私が知らないだけで、実際にはあるのかもしれませんが…)
芸術には正解がないのだから、本来ならば表現者の国籍は問題にはならないはずですし、一人一人の感性が違うのですから、どんな演奏でもそれは表現の自由だと私は思います。
にもかかわらず、日本のクラシック音楽批評家の間では、「正統」かどうかが問題となるのです。
学生の時にも、「正統」な演奏表現にこだわっている学生がいましたが、私にはそれが何の意味を持つのか分かりませんでした。
そもそも、人間にとって音楽とは何なのでしょうか?
初めは、何もない空間や退屈な時間を紛らすために生まれたものなのかもしれません。
あるいは、言葉では言い表せない感謝や喜び、悲しみや不満を代わりに表現してくれるものでもあったでしょうし、気持ちを奮い立たせたり、願いを成就させる祈りであったり、人の力の及ばないものへの呼びかけでもあったでしょう。
それこそ正解はないと思いますが、それでも、決して、音楽は知識や技術をひけらかしたり、掴みどころのない「権威」となって、自分の虚栄心を満たすためだけのツールではなかったと、信じたいのです。
ヒトコトリのコトノハ vol.23
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音楽は数学の方程式ではないのである。
『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』中野雄著(2017)文藝春秋
「芸術に正解はない」という考えには、ある程度同意できます。
確かに、ただ一つの正解はありません。
しかし、この芸術の分野においてしばしば取り沙汰されるのは「正統性」なのです。
例えば、私が携わっている西洋音楽、いわゆるクラシック音楽の分野では、この「正統性」を論じようとする人が多いという印象を受けます。
楽器の演奏における「正統性」とは何か、このとても曖昧なものへの答えを出すのは容易ではありません。
そもそも、西洋文化であるクラシック音楽をアジア人である日本の人が演奏すること自体が正統ではないと考える人も世界にはいると思います。
ヨーロッパの人が演じる能や狂言、落語を、私たち日本人は正統だと感じるでしょうか?
私は学生の頃、音楽大学でクラシック音楽を勉強しながら、日本人の自分がピアノやヴァイオリンを弾き、イタリア語やドイツ語の歌曲を歌うことに何とも言えない違和感を抱いていました。
海外の国のことを知る、という意味ではそれらの勉強はとても有意義なものでしたが、私自身が演奏するということについては積極的に取り組むことができませんでした。
もちろん、日本人のクラシック演奏家が沢山海外で活躍していることは知っていますし、それはとても凄いことだと素直に尊敬しています。
そうした日本の人たちが、西洋人ではないからと、海外のステージで不当な扱いを受けたという話もあまり聞きません。
(私が知らないだけで、実際にはあるのかもしれませんが…)
芸術には正解がないのだから、本来ならば表現者の国籍は問題にはならないはずですし、一人一人の感性が違うのですから、どんな演奏でもそれは表現の自由だと私は思います。
にもかかわらず、日本のクラシック音楽批評家の間では、「正統」かどうかが問題となるのです。
学生の時にも、「正統」な演奏表現にこだわっている学生がいましたが、私にはそれが何の意味を持つのか分かりませんでした。
そもそも、人間にとって音楽とは何なのでしょうか?
初めは、何もない空間や退屈な時間を紛らすために生まれたものなのかもしれません。
あるいは、言葉では言い表せない感謝や喜び、悲しみや不満を代わりに表現してくれるものでもあったでしょうし、気持ちを奮い立たせたり、願いを成就させる祈りであったり、人の力の及ばないものへの呼びかけでもあったでしょう。
それこそ正解はないと思いますが、それでも、決して、音楽は知識や技術をひけらかしたり、掴みどころのない「権威」となって、自分の虚栄心を満たすためだけのツールではなかったと、信じたいのです。
ヒトコトリのコトノハ vol.23
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