しわくちゃ響子さんと、孫娘の母親と、三人で東京に行ってきた
当日ご遺族の挨拶をお願いします、と言われている
実は、その前の10日(木曜日)、11日(金曜日)の二日間は、
無性にというか、絶対にというか、
東京に行きたくない、出席したくない、という恐怖観念に襲われました
涙を流すみっともない父親を世間に見せたくない、見られたくない、
健太郎さんの父親って、だらしないと思われたら、
健太郎の価値も下がってしまうというような・・・・・
実際以下略は、8,9人の班の朝礼を担当することすら、
おどおどする、
なにかあると、あがったり緊張する小心者です
いてもたっても、というか、思い立って11日の夕方、西尾の病気療養中の兄貴を訪ねた
健太郎の俳句の師匠でもある兄貴と話をして、涙を流して、涙を涸らしておこうと思って・・・・・
しかし、現実が目の前にあった
兄貴とは会話は出来る、
兄貴はマイクで原稿入力を練習してる、
兄貴は一人でベッドから車椅子に移れる、
兄貴は着実に、復帰へむかっている
必死で努力をしている兄貴を見ると、
以下略の愚痴を、悩みを聞いてもらう気になれなかった
いつものように雑談をして、兄貴の家を出た
健太郎が大好きだった98歳の母親も、
健太郎の死の3週間後に亡くなってもう居ない
岡崎に戻るとき、何か、ひとりぽっちだという、実感が残った
でも、寂しい、悲しい、といった孤独感ではなく、
おまえはおまえで歩いて行くしかない、
といった自立心というか、独立心というか、
なにか、吹っ切れたような実感だった
偲ぶ会の前日、12日、しわくちゃ京子さんに、
偲ぶ会の当日は、
涙を流して本日は有難うございました、
と言って、挨拶を終わりにする、
か、
健太郎の俳句を一句読みあげてその句の絡みをしゃべって、本日は有難うございました
のどちらか,
と宣言をした
三人で東京に行ってきた
会場はいっぱいの人々で立っておられる人もいた
顔見知りは数人しか居ないという孤独感、
遺族挨拶は、本日は有難うございました、の一言で終ろうと決めた
野中剛さんという方の進行で始まった
不思議と、いつものおどおど感、緊張感はあまりなかった
健太郎の足跡紹介
新聞で健太郎のことを書いてくださった方々や評論家の方など、
始めてお会いする人ばかりの講演が続き、
そして、ご遺族のご挨拶をと呼ばれた
不思議におどおど感はなかった
マイクを受け取り壇上に上がる数秒の時間、どの言葉からしゃべり出すかを考えている自分がいた
『健太郎がよちよち歩きのころ、階段から転げ落ちたことがあって・・・・』
ふー、なんとかなった、と思う