神宮橋で行われたイベントは一風変っている。一帯を白いバリケードが囲み、その中が幾つかのスフィアの溜まり場になっていた。デウ・エクス・マキーナを含めた思い思いのキャラクターの格好をしてるのと、その取り巻きとで異様な光景になっていた。R.I.P.の殴り書きとイナギとヨミの写真を大きく引き伸ばしたプラカードが高々と掲げられている。まるで若くして死んだ伝説のパンクロッカーとその恋人だ。
「大変なことになってるな…」
目の前の光景に僕は目指し帽を深くかぶり直した。
「今日はスフィアの合同イベントだからね…オリジナル・シンも来てるし…」
僕の隣でマキーナになったアノンが言う。片隅に数人固まってるのは、血のにじんだ包帯に、車椅子、背負っている小さな十字架の集団。スフィアの名前は…オリジナル・シンだったか…
「ああ、あのプラカードはアイツらのか…それで…」
「いや…よね?」アノンは不安気に聞いた。
「ああ。でも覚悟はしてたよ」
自分から来たにせよ、胸の奥から込み上げてくる嫌悪感はぬぐえない。
「…気をつけてね。シルシだってここじゃ有名人なんだから…」
「頭に入れておく」
「みんな、アノンが来たよ!」
誰かがアノンを見つけてそう叫んだ。すると、瞬く間にスフィアの連中がアノンを取り囲んでしまう。
「…アノン!」
「…や、やあみんな…」
「アノン!アノン!」
僕は遠のきだんだんと小さくなっていくアノンをただ寂しく見守っていた。気持ちを紛らわそうと周りをざっと見渡す。と、その中で知った顔を見かけた。こいつは…アノンとトトの知り合いでモノとかいったっけ…今日も髪を真っ青に染め上げて、その格好はマキーナを研究所から救いだした『マキーノ』という男のアイドロイドのようだ。声をかけようか迷っていると、向こうからどよめきが聞こえてそれがみるみるうちに周囲一帯に広がった。遠くに見えるステージの上にはヘッドセットマイクをつけたアノンがいた。
「アノン、おめでとう!」
誰かが声を上げる。
「ありがと。ねえ、私に起こったこと今でも信じられないんだ。でも、今の私が今までの私と違うって行ったら信じてくれる?私は事故がどんな意味を持っていたのか…これからどんな意味を持つのかも分からない。でもね、私の…私達のお話はまだまだ続くんだ…マキーナとそのスフィアと一緒に…みんながそれを伝えていって、そしたらマキーナの歌はどんどん大きく響いていって、いつか私達の背中には羽が生えるんだ。これって本当にすごいことだよ?そうだよね?!」
アノンが叫ぶと、それにもまして大きな歓声が上がった。『アノン』と呼ぶ声と『マキーナ』と呼ぶ声が半々。
「すごいだろ?あの事故以来…アノンがマキーナにフィードバックして行ってるんだ。いつかマキーナのアノンじゃなくってアノンのマキーナってそう言われるようになるよ」
僕の隣にいたモノが言う。どうやら僕だということはとっくにばれてたらしい。
「…そうだとして何の意味があるんだ?」
「マキーナはヨミのことだって説もあるんだぜ?本当はお金持ちの娘で、イナギがさらってきたという話になってた。自分が恵まれた家庭に生まれたヨミはね、そのことに罪の意識があって慈善活動にのめりこんで、家を飛び出した。そうさせたのがイナギだっていうんだ。どう?デウ・エクス・マキーナみたいだろ?」
「どうだろうな…ありそうな話だけど…」
「そう!そこが神話なんだ。みんなの意識の元型に触れるからマキーナ神話が普遍的な価値を持つんだよ」
ふと見ると、会場の盛り上がりとは別に白衣を着たメガネの男が一段高いところからメガホンを持って演説を打ってる。
「…あれは?オリジナル・シンだったか…」
「そうさ…イナギとヨミのスフィア化したやつらさ…」
僕は嫌悪感と裏腹にオリジナル・シンが訴える話の断片が耳に入ってくる。どうしても聞き流せない単語ばかりを並べていたから。
---君達は予感していたか?時代の予感を知っていただろうか?始まりは今から三年前。ここで死んだ一人の少女の物語から始まる。名前はヤエコ。彼女はまだ若くして死んだ。それを深く悲しんだ兄のシルシはここで『周知活動』を行うことにした!なぜか?彼女という存在が確かにあったことを、そしてここで短い命を閉じなければならなかったことを、シルシは私達に知らしめたかったのだ!それを知るものもいた。それがイナギ。彼はヤエコを蘇らせることにした。それがデウ・エクス・マキーナだ。これは断じてただの物語ではない!ヤエコが架空上の死を越えてできた仮想空間、スフィアなのだ。そしてヤエコが生きている間に見た現実と言う名の夢は様々な形にメタファーしてスフィア化していった。しかしそれもイナギの描いた理想にはまだ途半ば。デウ・エクス・マキーナ神話をスフィア化してもこの現実とつなぐインターフェースとしては不十分だ。そのために必要だったのは…それはシルシだ。そしてアノンだ。シルシはこの神話の起源であり、真実を知るものだ。アノンはそのことを知る唯一の人間だった。二人はスフィアを越え、神話をも越えた超越者だったのだ。イナギはさらに遥か上の世界にアクセスしていた。三年前の事故を再現することで二人を殺し、そしてオリジネイター自ら死ぬことで果てることのない円環の物語としてこの神話を完成させようとしたのだ。しかし、世界はそれを選択しなかった。まだ神話は完成してはいない!これから我々の手でそれは紡ぎだされるのだ!
しかし僕が彼の独演を最後まで聞くことはなかった。僕は我れ知れず壇上に上る男の前に立っていて、怒りに身を任せて男を無理矢理に引きずり下ろしていたから。
「楽しいか?こんな嘘ばっかり広めて…」
「誰だお前?…ああ、あの…」
僕に胸ぐらを掴まれ倒れこんだ男は僕を確かめると薄笑いを浮かべた。
「嘘?笑わせるなよ?それは鏡に向かって言えよ、シルシ?」
次の瞬間僕は彼を殴った。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
台所から漏れ伝わる音はアキラがみんなのために腕を奮っているところだ。椅子に座る僕の横ではトトがちゃぶ台の上に頬杖をついて雑誌を眺めている。そこには自分より一回り大きいクマの着ぐるみに抱きつきながら、カメラに向かってあっかんべーをしてるアノンの写真がモノクロで載っていた。そのトトの前にはベッドにうつ伏せになってお菓子を食べて漫画を読んでる実際のアノン。
「…全然、違うね」
「ありがと」
「褒めてないし」
「それって私にとっては褒め言葉」
「あっそ」
二人の間に焦げつくような緊張感が漂う。が、部屋と水まわりを隔ててる引き戸が開いて、パスタが大盛りに載った皿を両手で持ったアキラが出てくるとそれもひとまずは終わりだ。
「さあ、ご飯できたよ!」
しかし、再びチャイムの音がした。
恐る恐る覗き穴に顔を近づけ、薄いドアの向こうの丸く歪んだ様子を伺う。そこには小型カメラのついたタブレット形PCを片手にした数人が丸い像を結んでたむろっていた。
「なんだあれは?」
僕が言うと、アノンが変わって覗く。
「…ネット界の情報屋、みたいなものかな。シルシを取材したいんじゃない?」
どいつもくたびれた服に目深に被った帽子という出で立ちで、全うとは思えなかった。それが揃いも揃って肩を並べてぶつぶつつぶやきながら立っているのが実に不気味だ。
「なんでそんなものが…それになんで僕なんだよ?本当に取材ならむしろアノンだろ?」
「私がここにいるなんて誰も知らないよ?それにさ、言いにくいんだけど、あれ以来シルシはちょっとした有名人なんだ…」
「…」
早くも僕は見世物にされてしまってるってことか。かといって家まで見つけ出してネットに流そうだなんてろくな連中じゃない。関わらない方が身のためだ。
「…とにかくほとぼり冷めるまで家から出ないようにしよう」
僕はリビングのカーテンを颯爽と締め切って僕の背中を見守っているはずの皆にそう伝えた。
「そこの二人もいいな?」
「…ああ、うん」
アキラとトトが上の空の様子で、仲良く椅子に並んで座って僕のノートPCを眺めている。しかし、どうしたものだろうか?こんな状態が続くのは耐えられない。途方にくれているとPCのスピーカーから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『…イナギさんが今話題沸騰のデウ・エクス・マキーナのオリジネイターという噂が流れていますが?』神宮橋で見かけた『ベント』とかいう雑誌の編集者のものだ。どうやらある動画投稿サイトにあった動画をアキラとトトの二人で見ているらしい。彼女もドアの向こうでひしめいている連中と同類…なんだろうか?
『うーん、そういう人も多いみたい』今度はアノンの声がする。なぜか得意げに。
『…といいますと…』
『でも、ホントのオリジネイターは別にいるって言うこと』
『え?それをアノンさんはご存知だと?』
『…まあね』
『それは一体誰だというんですか?』わざとらしく驚いてみせる編集者。
『…シルシ、とだけ言っておこうと思うよ。ふふん』
と、そこで動画は切れる。
「ま、楽しそうで何よりだね、トトちゃん」とアキラが吐き捨てるように言った。
「いいんじゃないですか?」とトト。僕は相変わらず気だるそうにベッドに横になってるアノンをにらんだ。
「アノン、お前…お前が原因か?」
「ははは、つい、ついね。ついだよ」
さっきまで真面目な話をしていたと思ったのに、アノン、こいつの頭の中はでたらめなピースで組み立てたパズルみたいだ。
「…しかし、困ったことになったな…」
そうひとりごとをつぶやいた僕に対するアキラとトトの視線はどこまでも冷たかった。
正座して座っている僕をベッドの上から見下げて居並ぶ女の子が二人。右からトト、アノン。太ももの上で固く結んだ両方の手の平にじんわりと汗がにじんでくるのを僕は感じていた。
「説明してください」
トトは僕をまっすぐ見る。隣のアノンはただきょとんとしてる。
「その…」
そう言いかけたところで「どうぞ」とアキラはみんなにコーヒー牛乳を入れたコップを渡していく。それからアキラはお盆を抱えたまま一番右、トトの隣に座った。
「いや、別に隠していた訳じゃなかったんだけ…」そう言いかけたところで
「やっぱりそういう関係だったんですか!」とトトがたたみかける。
「へえ、おめでとう。それでいつから付き合ってたの?」
そう僕に微笑みかけるアキラの目は笑っていない。
「だから、そういう意味じゃなくって…二人で一緒に住んでるっていうのを隠し…」
「あまつさえ一緒に住んじゃってるんですか!この泥棒猫!このエロガッ…」
ますます声を荒げるトトの口を一人冷静なアキラがふさぐ。
「シルシ君、それって立派な犯罪じゃない?…そもそもアノンちゃん何歳なの…?」
「ははは、何歳だろ?知らないんだ…」
アノンは困ったように笑う。余計疑われそうな変なごまかし方をするなよとその時の僕は思った。
「ね、とにかく話し聞こうよ、トトちゃん?」アキラがそう言って笑った。
それでトトもふてくされながらも渋々黙る。
「…私、身寄りがなくて、それで…シルシに無理言って泊まらせてもらったんだ。これが本当。だから疑われるようなことは何もないよ。今のところね」
「今のところって」と僕が思わず言う。
「友達とかいないの?ホテルだってあるでしょ?なんで先輩の家にずけずけと上がりこむ訳?」とトト。
「僕が決めたんだ。アノンのせいじゃない」
「シルシ、いいの。説明させて…私ね、最近、身寄りがなくなってしまったの。血がつながってた訳じゃないんだけど、お姉さんみたいに私に世話を焼いてくれた。その人の名前はヨミっていうの。もうみんな知っているでしょ?」
「…な…」
「…アノンちゃん?」
トトとアキラはアノンの言葉にたじろぐ。
「それは本当か?」
問いかける僕にアノンは不思議なくらい大人びた目をして頷いた。
「うん。黙っててごめんね。でも、隠していた訳じゃないし、言う機会がなかっただけ。ヨミはね、身体が悪かったの。それで入院してたんだけど、イナギはむりやりにヨミを病院から連れて出て行ったの。ヨミが医者に騙されてるって思ってね。それから私も一緒になってヨミを騙してるって思ったらしいの。イナギはヨミと私のことを知ってたから。それであの事故の起こった当日、私がイナギと出会った。ヨミが呼んでるって嘘をついて自分の家に私を呼び出したの。その時のイナギはなぜかのすごく興奮してた。それで、私が自分とヨミのことを引き裂いたとか、私がヨミを殺したとか。そんなことをうわ言のように繰り返して、私を殺そうとしたの。水の溜まった風呂場に沈めようとした。完全に正気を失ってるみたいだった。私はそこからなんとか逃げ出して、街をさまよっているうちにシルシたちを見つけたの。これが本当。どう?分かってくれた?」
アノンはいつも通りに明るく一息に話す。
「…それで…あんなに…」
あっけに取られていた僕達の中でトトがふとそうつぶやいた。僕がふとトトを見ると
「…え、いや、だからあの日髪を濡らしてコートも着ないでいたのが分かったって…ははは」そう言ってトトは笑う。
確かにあの日のアノンの理由が僕にもようやく分かった。
「うん、事情は分かった…まだまだ聞きたいことはあるけど、それは今度にしよう。…でもね、年頃の男女が一緒に住むのは僕は賛成できない」
アキラがそう考えるのは当然だ。
「…でもな」
僕が反論するのをアキラは目で制した。
それから「…という訳で」と目の前で手をぱんと叩くとアキラは勢い良く立ち上がった。
「当部屋を本日10:28(ヒトマルフタハチ)時を持って私とトトちゃんの保護監視下に置くことをここに宣言する。アノンちゃんは一時間ごとに僕の携帯に無事を知らせるメールを状況が詳らかとなる写真を添えて送信すること。ただし就寝時を除く。定時より五分以上遅れた場合はスクランブル発生とみなし、しかるべき公的機関により法的な強制力を伴う解決を要請するものとする。就寝時は両者の間に衝立を設置し、時限を区切って超えてならないものとする。それとアノンちゃんはちゃんとお仕事なり見つけて可及的速やかに自分の部屋を探すこと。いい、分かった?」
アキラは最後に軽くこほんと咳をして、それを締めとした。すっかりその迫力に圧倒されていると
「分かったの?」と、もう一度アキラが聞くから
「はい」とだけ答えた。
まだきしむ身体を引きずりながらどうにか僕は退院の日を迎えた。
「…おい、いるか?」
僕はアパートのドアを開けて薄暗い中の様子を覗いた。奥から物音すると柱の陰から顔が半分だけ恐る恐るこちらを覗いている。アノンだ。
「シルシ!」
僕の顔を確かめると安心したのか、とことことこちらに小走りに近づいてくる。見ると僕が使っていたトレーナー一枚を上から被っているだけで、そこから細い素足が二本伸びていた。小さなアノンは僕の顔を見上げて、嬉しそうな顔をしてくれる。
「お前、なんていう格好を…」
「…うん。借りてるよ?」
アノンは大きく首をかしげて僕の顔を覗き込むと、今度はぶかぶかのトレーナーの胸元から覗くものが目に入った。
「その、何だ…生きてたか」
「毎日お見舞い行ってあげてたのに変なこと言うね」そう言ってアノンは笑った。
「…それはそうと、お前には色々と聞きたいことがあるんだ」
冷蔵庫を開けるとほとんどの空になっていた。彼女の様子からしても単に空腹で倒れただけだったようだ。するとマキーナも僕のすぐ横に顔を並べてまるで珍しいものでも見るように覗いている。
「いや、お前自身が空っぽにしたはずなんだけど…」
「買い物いかないといけないね…」アノンが言った。
「また後で。とにかく久しぶりにシャワーを浴びたいんだ」
シャワーを浴びながら僕は思案にふける。素性も分からない女の子を部屋に住まわせるとか一体どうしたものだろうか?聞きたいことはまだ山のようにあるにしても…
「おい、そろそろ出かけるか?」
僕はタオルで頭を吹きながら、洗面所から居間のアノンを覗く。床に座って間近でテレビを眺めていたアノンは、僕の方を振り返った。でもアノンに反応はない。ただ呆けたように僕を見て、その視線は僕の一点に向かっている。
「シルシ、それ何…?」そう言ってアノンが指さしたのはTシャツから覗いた僕の脇腹にある大きな傷跡だった。
「ああ、これか?…実は僕もよくは知らないんだけど昔の傷さ。あの事故よりずっと前からあったんだ。親が言うにはもっと小さい頃手術したとかでできたらしい」
「へ…へえ…」
アノンはたじろいだ…ように見えた。
「…どうかしたか?」
と、その時、僕の部屋に誰かが押したチャイムの音が響いた。そして、取り繕うまもなく次の瞬間にはドアが開いた。
「シルシ君、退院おめでとー!」
明るい声がした。そして次の瞬間に彼女の目に映ったのは気まずい表情で振り向く僕と、あっけらかんとしたアノンの二人。事情を知らない彼女の想像力を大いに活用させる格好だったことだろう。
「…って、え?」
一瞬声の主と無言で見つめ合う。
「いや…あの…な…」
「あっ、アキラ」
アノンは屈託なくその名を呼んだ。
「はは、お邪魔だった?」
玄関に立ち尽くすアキラの、その両手にぶら下がっている差し入れらしき袋だけが小さく揺れていた。沈黙。
「別にそんなことは…まずは話を…」
事態の収拾を図ろうとするも虚しく、アキラは矢継ぎ早に言葉を浴びせてきた。
「そりゃ僕達は単なる友達で別に付き合ってる訳でもないし、シルシ君が何しようと自由だし、もちろん咎める気もないよ?そもそも僕にそんな義理なんてないんだから…」
「だからまずは話を聞いてくれ!」
「…その…一応説明してくれるんだね?」
アキラが靴を脱いで早足で部屋に上がりこんで、僕達の間に割り込んでくる。
「…ああ。初めからそう言ってる」
そして今、二度目のチャイムが鳴った。
「はは、まさかね」
「まさかでしょ」
ドアが開く。朝の日の低い日が、逆光になってその人影を照らした。それはさっきのアキラと同じに玄関に突っ立ったままただ黙っている。手に持っていた袋が落ちて、中に入っていたコーヒー牛乳のペットボトルが玄関先に転がった。
「…先輩?」
トトだ。
「…まずは…話を…」
「あんた達一体何してるんですかあ!」
人間は二種類ある。衝撃を恐怖に変えるタイプと怒りに変えるタイプだ。トトは間違いなく後者だった。
僕達は誰もいない病院の中庭で日差しを受けていた。アキラと二人でカウチに腰掛けて、時おり吹き付ける凍えた風が、ちょうど今の自分の罪の意識に似て不思議と心を落ち着かせてくれた。
「シルシ君、何も言わないの?」
アキラが聞いた。言える訳もなかった。僕はイナギを殺そうとした。それだけだ。
「イナギがシルシを殺そうとしたから?」
が、僕は答えない。
「それとも…」
「…それともあの『事故』の犯人もイナギだって思ってるの?」
「それは分からない。何も分からないんだ。でも、イナギとヨミは何かを知っていた。多分、真実に関わる何かを知っていた。それでも分からない。ただ、なんであの事故を起こしたのか、再現をしようとしたのか…」
「でもあの車はアノンちゃんを轢こうとしてたように見えたよ?」
僕は何も答えなかった。確かなのはイナギが僕や僕の家族を冒涜したということだ。イナギが起した事故の瞬間から、僕の家族を襲った悲劇は芝居じみたおかしみを人に与えることになるだろう。それはもう始まっているのかも知れない。
「アキラ…僕は…」
僕がそう言いかけるとアキラは僕の目の前いっぱいに顔を近づけて
「いい?もうあんなことしちゃ駄目だよ?」と人差し指を立てて諭すように言った。その様子が本当に子供をしかるようでちょっとおかしかった。
「アキラ?」
「今は訳は聞かない。はっきり言ってボクもびっくりした。まさかと思ったよ。それはボクだって許せないよ。シルシ君とアノンをこんな目にあわせたんだ、でもね、それとこれとは話が別だよ?」
「ああ。そうだな。もうしない」僕は言った。
しかし、そんな僕の思いは別にしてももうイナギへの復讐が果たされることはなくなった。その晩彼が病院から姿を消したから。
今日でもうこの病院に通うのも何日目だろうか?昔のことを思い出す。今から二年半前、ボクはシルシ君に会った。その時はボクも患者の一人。あの『研究所』でシルシ君が最後、そしてボクが最後から二番目の患者。そしてウケイ先生は最後の職員だった。夕暮れ、誰もいない研究室の廊下で手すりに必死にしがみついて足をひきずるパジャマ姿の成年をボクは見た。それが事故にあって数カ月後のシルシ君の姿だった。ボクはその日、エレベーターには乗らないで、階段を登って行った。あの頃のシルシ君が診察室のある二階まで、これが自分の足だと言い聞かせるように階段を踏みしめていた姿が懐かしくなったから。『そうだ、ちょうどボクの先を行くあの男の人のように…』それからボクはその姿に違和感を覚える。『…シルシ君?』似てる。いや、間違いない。シルシ君だ。声をかけようと思って、軽く手を上げようとしてボクはやめた。ここは病院だ。大きな声は出さない方がいい。ふと見えた横顔は何か他のことに気を取られているようだった。ボクは少し早足に踊り場の向こうに消えてしまった後ろ姿を追う。けれど階段を登り切った先で一瞬、姿を見失った。『あれ?』辺りを見渡して、まだまだ危うい足取りで廊下を歩く彼を見つけた。その階はシルシ君の病室とは違った。気になって後をつける。今度は気づかれないように。そしてその人影はとある病室の前で姿を消した。『人違いだった…かな』どうしても確認してみたくなった。好奇心がその時のボクの足を進めさせたのは否定はできない。『ここだ…』病室の入り口に立つと、まずプレートを見る。プラスチックのカバーが光を反射して良く見えなかった病室の主の名前をボクは頭をかしげて確かめる。
「…そ、そんな…」
それを見たボクは思わず僕は息が止まった。その名をボクは知っていた。知っていたけれどけれど、その名はボクが思いつく中でも一番遠い名だった。
そのプレートには『イナギ』と記されていたから。『確かに取り調べの時、本人も怪我の治療中だとは聞いていたけど、まさか同じ病院だったなんて…』偶然?違う。あの日あの場所でひどい怪我を負った者同士が同じ病院に運ばれたとしても不思議じゃない。『でもなんで…?』シルシ君がなんでこの部屋に…事故の復讐?それとも何かを知りたいから?
駄目だ、考えてる場合じゃない。その前に嫌な予感を消さなきゃ。ドアのノブをひねると鍵はかかっていなかった。その次の瞬間には中に入る。シルシ君の姿は見えない。もちろん、イナギといわれる人の姿も。それは僕の目の前にベッドを囲むように引かれたカーテンの向こうだ。窓から入る朝の日の光に一人立つシルエットが浮かんでいた。ボクは急いで駆け寄って勢い良くそれを開けると、そこに立っていたのはシルシ君に違いなかった。そしてその顔はボクが今まで見たどんなシルシ君の顔より歪んで、憎しみに満ちていて、伸びた両手がベッドに力なく横たわっている男の人の首をしめつけていた。
「シルシ君、やめて!」
ボクはシルシ君の両腕を掴んで、力いっぱいに引き離した。まだ怪我が癒えてもないシルシ君は、その勢いで力なく床に倒れこんだ。ふとベッドに横たわっている人の顔がボクの目に映る。まるで人形だ。そこには何の感情も宿っていない。『イナギ』らしき、男の人は焦点のあわない瞳をただ天井に向けていた。この人はもう何か言葉を発することもないのかも知れない…そうボクは思った。
「シルシ君、どうして…?」
手を突いたまま動かないシルシ君を起して肩を揺さぶると、シルシ君の目もまた普通とは違う光を宿して見えた。
「あいつは殺さなきゃいけない…だから…」
ボクが誰かも分からないように、そう独り言のようにつぶやいた。
「シルシ君はあの人が自分とアノンちゃんを殺そうとしたから、怒っているんだよね?」
ボクは聞いた。それには答えないで
「だって、あいつは知ってるから…」シルシ君はただ独り言のようにそう言う。
「ねえ、どうしたの、シルシ君?ヤエコちゃんたちの時の犯人だと思ってるの?」
でもシルシ君は答えない。それからシルシ君は肩に置いたボクの手に自分の手を重ねた。
「…アキラ…僕は…」
そうして僕を初めて見た目はやっとボクを安心させてくれた。
「行こう…シルシ君、ばれたら大事だからさ…」
ボクは頭を深くうなだれるシルシ君の手を引いて立ち上がらせた。シルシ君に肩を貸しながら、もう一度イナギの顔を確かめる。少し開いている薄い唇と細く通った鼻が心の繊細さをあらわしているようで、見開いた目は、まるで死んでいるようだけど、純粋で僕には綺麗に見えた。なぜこんな目をした人があんな狂ったことをしようと考えたんだろう?矛盾が心の中で生まれて、イナギの瞳はいつかそれに答えを教えを与えてくれるかもしれないとボクは思った。
長い夢を見ていた。歌声が聞こえる。あの歌だ。ヤエコの歌。今はマキーナの歌…か。
「あ、おはよ」
僕が目を覚ましたのに気づくと、アノンは鼻歌をやめた。病室の空調の音がカラカラと乾いた音をどこからか立てていた。
「…アノンか?」
「うん。どう?もう馴れた?」そう言ってアノンは笑った。
サイドチェアーに小さなサボテンと一緒にマキーナのフィギュアが置いてあるのに気づいた。どうも彼女なりのプレゼントらしい。
「病院は馴れないように作られてるんだ。そうじゃなきゃ困るだろ?」
「そう?私はなんだか懐かしいな。ずっとこんなところにいたから…」
「え?」僕は思わず聞き返した。
「あ、ごめん。私変なこと言ったかも」
「ああ、そういう設定ね」
あのアンドロイドが研究室の生体用カプセルの中で過ごしていたのを思い出してそう言った。
「設定?違うよ。マキーナは私。私はマキーナの端末化した一人なんだから」
「…で、何か用か?」
深入りはやめよう。とり合っても面倒になるだけだ。
「お見舞いに来ちゃいけない?シルシは私にとってのマキーノなんだよ?ははは」
おかしい。何か居心地の悪さを感じる。今日のアノンは妙に愛想が良い。しばらく様子を見ていると、アノンは茶色いふわふわした髪の毛をやたらにいじったり、何もない病室をしきりに眺めたり、何やらそわそわしてる。
「今日お前変じゃないか?」
「え、そうかな…」そう言ってアノンは僕から目をそらす。
「うん」
僕は水の入ったグラスを手に取った。そしてアノンは一呼吸置いて何かを心に決めると、ようやく口を開いた。
「…私、住むところなくなっちゃったんだ」
一瞬事故の夜のアノンの姿が脳裏に浮かぶ。
「今までどこに住んでたんだよ?家出か?」
確かにあの日、アノンはまるで何かから逃げ出してきたようにひどく狼狽していた。
「今は言いたくない。でも本当なの」
「…ホテルとか、友達の家とか…」
「シルシが寝ぼけてる間に、お金もなくなっちゃったの!私本当にカプセルの中で寝たよ?マキーナみたいに。でもね、全然そう思えなくて、頬を伝う冷たさで自分が泣いてるのに初めて気づいたことあるって言ってるの!無理言って泊めてもらってた友達だって南の島に住んでる母方のまたいとこが今日の便で泊まりに来るのが決まったとか、そんなのいくら私が鈍感でもどういう意味か気づくでしょ!」
一息にそう言い切ったアノンは肩を揺らして、その目には涙が溜まっていた。 僕は飲み干したグラスを台の上にことりと置くと、しばらく黙った。
「うちの鍵だ」
僕は左手をアノンに差し出す。
「…シルシ?」
「入って、キッチンを抜けた先の六畳の部屋にベッドがある。その下の引き出しを開けると、数段に積まれた古い雑誌があるはずだ。一見ただのエロ本だが、一番上を取ると中が繰り抜いてて、そこに千円札の束がある。嬉しいことがある度に一枚一枚蓄えていった幸せ貯金だ。使え」僕がそう言うと、アノンはその場でわなわなと震えだした。
それから襲いかかるように僕に抱きつくと
「ありがとう!ちゃんとお留守番するね!」アノンはそう言った。
「何?いきなり呼び出したりして…」
トトがモノに呼び出されたのはとあるアパートの前だった。
「いいから来なよ」
そう言って笑うモノにトトは恐る恐るついっていく。そして角部屋の前で足を止めると、チャイムを鳴らした。
「…やっぱり、いないか」
モノはそうつぶやくとドアノブに手をかけた。
「…ちょっと!」
トトがたじろぐ暇もなくそれは難なく開いた。
無言で不安気に見守るトトを一度見て、モノは先にドアの向こうに入ると、すぐに違和感に気づいた。部屋中に水が流れる音が響いていた。それは入り口すぐの右手の室内から聞こえてくる。向こう側からカーテンの隙間を通じてわずかにこぼれる日の光を頼りに進む。しかし、すりガラスでできた扉からはぼんやりとした輪郭を描くだけだ。一瞬戸惑ったが、モノは思い切ってドアを開けた。しかし。そこには誰もいなかった。
安堵に思わず息を漏らすと、ふと床に靴を履いたままの僕の足跡がくっきり残っているのに気がついた。まだ微かに床が濡れている。それはそのまま玄関まで跡を残していた。ちょうど強い逆光に暗い影になってトトが立っている。
「どうした?」思案顔のトトに、モノが聞く。
「このスロープは何だろう?」
ちょうどトトが立っている入り口にかけてあるスロープを指さしてモノは言った。
「ヨミがいたからだろ」
「ヨミ?」
トトはその名をシルシの口から聞いたことがある。
「そうヨミ。車椅子に乗ってた」
トトはそれでようやく理解した。このアパートの持ち主も。モノがここに来た訳も。トトはオリジナル・シンの連中が車椅子を引いてたのを思い出した。
「この水の跡はそのヨミっていう子のものじゃなさそう…轍はついてない」とトト。
それからモノは水を止めて、部屋の明かりをつけた。トトが靴を両手ずつに持って、水を避けるようにまたいで中に入る。つま先立てて奥に進むトトの背中を見送りながらモノは念のためにドアの鍵を下ろした。普通の間取りだが、一見して分かるのは整然とした生活感のなさだ。ヒントがあるとすれば机の上にあるPC端末だけ。電源を入れると、暗い部屋で二人の顔がモニター光に青白く照らされた。
長く感じるその数十秒を待って画面が切り替わったその次の瞬間、部屋にチャイムが響いた。二人は思わず息を飲んだ。そして時間をしばらくおいてもう一度。トトはモノのコートの袖をすがるように握りしめた。三度目のチャイムはない。しばらく二人は物音を立てずに二人ただ立ち尽くしていた。
「諦めたか?」
モノが小声でそうつぶやいた瞬間、すごい勢いでドアを激しく揺らす音がした。驚いて思わず声を漏らしそうになったトトの口をモノは片手で塞ぐ。祈るような気持ちでただそれが止むのを待っていた。が、終わらない。もはやただ憤懣をぶつけているだけだ。それならいずれ諦めるだろう。その間もトトは一層モノにすがる。お互い着重ねた服を通して心臓の鼓動が伝わってくるようにモノは感じた。そして、それも収まった。
「…もう大丈夫だ」モノが言うとトトは僕にすがっていた手を話した。
「今の…何だったんだろう?」
「分からない。ただイナギのことは嫌いなんだろうな」
「モノくん、どうしたらいい?」
「…さっきのがまた来るはずだ。今しかない。ここを出よう」
モノは出て行く時、端末についていたメモリースティックを抜いて行った。その時の二人は急いでいた。
だから、後ろのソファに流れていた大量の血には二人は気づかなかった。
アノン
物語のオリジネイターを探すその目的とは?
謎の文字≒『ゆらぎ』とは誰が刻み、何を意味しているのか?
⇒確認されているのは神宮橋近くの公園(007-ゆらぎ)とスクランブル交差点の鉄柱にある(016-命日)の2つ
イナギとヨミ
彼らはマキーナの物語のオリジネイターなのか?
もしそうだとしてなぜシルシとその家族をモチーフにし、また自らの命を賭してその事故を模倣したのだろうか?(016-命日)
※主人公シルシとイナギとは面識があったらしい(イナギ02-セラピー?)
ヤエコ
ヤエコの歌とマキーナの歌のメロディはなぜ同じだった?(009-ヤエコの歌&010-新曲発表)
⇒すべての謎はシルシとヤエコの父親が所長を勤めていた『ムスビ研究所』と数年前のスクランブル交差点での事故の真相に関わっているようだが果たして。スフィアのメンバーの一人モノ(012‐『機械仕掛けの神』)が何やら探っている様子。
ここまで読んで下さった方がいましたら本当にありがとうございます。
物語も役者が揃い本格的に謎を追って展開していきます(拙い挿絵にもヒントがあったり)。
まだ全編の3分の1くらいで長い道のりとなりますが、よければ最後までお付き合いください…
僕は再び目が覚めた。病室の窓からさす日差しに一瞬目が眩んだ。おぼろげに見えるのは椅子にもたれて本を読んでいるアキラ、それに編み物か何かをしているトト。
「…う…ん…」
起き上がろうとするけど、痛みと共にわずかなうめき声が出るだけだった。
「…先輩!」
トトが椅子から立ち上がって、僕の顔を覗き込む。
「…トト、元気か?」
「先輩、ごめんなさい!まさかあんなことになるなんて…」
「…アノンは…アノンは無事か?」僕はアキラに聞く。
「うん、大丈夫。ピンピンしてるよ」
「良かった。本当によかった…」
これで三年前とは違う。何もできず誰も救えなかったあの時とは違った。急に押し寄せてきた安堵で目の前が霞む。遠くから聞こえる病室のドアを開ける音。ゆっくりと歩を進めて、そしてベッドの隅で止まった。アキラの肩越しに、まだ霞む僕の目にぼんやりと女の子の姿が写った。サイドを小さくまとめた長く波打った髪、華奢な肩、透き通るように白い首筋、それはまるで…
「…ヤエコ?」僕は思わずそうつぶやいた。
「今のところはアノンだよ。アキラから連絡があってすっ飛んできたんだ。せっかく起きたのにまた昏睡させられちゃったらしいけどね」アノンはトトを横目に言う。
「ちょっと何勝手なこと…!」とトトはすぐに反応した。正直なところ、この二人の相性は予想できてた。アノンは構わずにすぐ側で膝を折って僕の左手に両手を添えた。
「…シルシ、本当にありがとう。今私がここにいるのは全部シルシのおかげだよ」
笑顔が随分大人びて見える。
「これは自分のためでもあったから。あの時は誰も救えなかったから…」
アノンは握った僕の手を自分の胸の前に持ってくる。
「あのね、シルシ。私分かったんだ。シルシは私を救いだしてくれる王子様なんだって」
「…?」
「あの外典の話本当だったんだ!あのPVには続きがあるの。マキーナはね、男性型アンドロイドのマキーノと研究室から逃げ出すの。素敵でしょ?シルシは私にとってのマキーノなんだ…」
「…なっ!ちょっと…」
トトが思わずアノンに食ってかかろうとするのを、アキラが羽交い締めにしていた。すぐ後ろでそんな危機が迫っているのをアノンが気づくはずもなく、すっくと立ち上がると
「じゃあ、私用事あるからもう行くね」と言って足元においてあった大きなカバンを持ち上げて肩から下げた。中にはマキーナの衣装でも入っているんだろう。
「みんなもまたスフィアのイベントに来てね。じゃ」と、アノンは颯爽と病室を去った。
後には僕を見るトトの突き刺すような視線。あきれたアキラの顔。気まずい雰囲気だけが残る。つくづくアノンは得な性格してる。その場を紛らわすようなアキラが咳払い。
「…とにかく、シルシくんが無事で良かった…トトちゃんが身の回りのもの全部買ってきてくれたんだよ」
トトはというと拗ねたようにうつむいている。
「ありがとな、トト。僕の目が覚めるまでずっと見ててくれたんだろ?」
「はい。病院の人にも家族だってことにして…先輩、家族いないから…せめて私がって…」そう言ってまたトトが涙ぐむ。
「目が覚めた時、思わず三年前のことを思い出したよ。でも、三年前の通りにならなかった。僕達を狙った犯人の思い通りにはならなかった」
その言葉に目の前の二人の顔が曇るのが僕には分かった。
「…もう誰か知ってるんだろう?」
僕の言葉にアキラがたじろぐ。
「…そのことなんだけどさ。また身体が回復してからもいいと思うんだ」
「そうです。先輩、今は静養に努めましょう」そう言ってトトはちょうどアノンが僕にそうしたのと同じように手を取って僕の顔を覗き込む。
「いいや、大丈夫だ。体のことは自分がよく分かってるから…」
僕はきしむ身体を動かして、ベッドのリクライニングを起こした。
「アキラ、誰だか教えてくれ」
「…分からないの。まだ聞いてない。僕達は直接の当事者じゃないから…けど、若い男の人だって…」
「…イナギじゃないのか?」
「それは誰がイナギかによりますから」
トトの言葉に、三人でいったスフィアのイベントで見た『イナギ』を思い出す。少なくとも彼は僕があの事故の時に見た『イナギ』とは違っていた。
「シルシ君を轢いた後その男が運転する車はそのままデパートの壁にぶつかったんだ。重体らしくて助かるかどうか…それに後部座席に同い年くらいの女の人も乗っていたって」
「…詳しく聞かせてくれないか?」
「警察によると女の人は既に亡くなっていたそうです。それで自暴自棄になった男が無理心中を図ったんじゃないかって」とトトが言う。
「まさか。あの軌道を見れば、明らかに僕達を狙ってた。標的は僕か、アノンか、あるいはその両方か。あの日、あの時間、あの場所を狙っていた。それにイナギが乗っていたのは黒いセダン車だ。ちょうど三年前の事故を起こした時と同じ…明らかにあれの再現を狙っていた。そこに鍵があるはずだ」
「…シルシ君、その話はまた今度にしよ?」
アキラは必死にごまかそうとしてる。その理由も僕には分かっていた。
「アキラ、隠さなくてもいいよ。僕も直前に見たんだ。知ってる顔だった」
「…シルシ君…」
「先輩、どういうことですか?」深い溜息を吐いてから言った。
「僕とアキラはちょっとしたセラピーしているのは知ってるだろ?二人の共通の知り合いだった医者が主催しててそれを引き継いだっていうささやかなセラピーだった。そこに『イナギ』はいたんだ。もう二年近く前のことになる。そこには女の人も一緒に連れてきていた…名前はヨミ…といったっけ…」