■web漫画『KAIJU(カイジュウ) 第四話』
■あとがき
『web漫画『KAIJU(カイジュウ) 第三話』からの続きです。
→初めから『web漫画『KAIJU(カイジュウ)第一話』』
KAIJUシリーズを始めたきっかけは今回のエピソードが頭にあったからでした。
これで思い残すことはありません。
数ヶ月前、神社を巡っていたら、お社の扉の前に小さなバラの花が一輪手向けてありました。
お供えするようなかしこまった感じじゃなくて、ぽんと置いてあるだけです。
そのさり気なさが逆に素敵だなと思いました。
で、その近くの別の神社に行くとまた同じように花がおいてあります。
バラの生産で有名な地域だったからだと思いますが、あたたかい気分になりました。
続きはこちら『web漫画『KAIJU(カイジュウ) 第∞‐1話』』
もし見てくださった方いましたらありがとうございました。
だいぶ旬を過ぎた話題で恐縮なのですが…
百合の秋ということで、ヘイリー・キヨコ(Hayley Kiyoko)『ガールズ・ライク・ガールズ(Girls like girls)』のミュージック・ビデオをご紹介します。
題名からも推察される通り、このMVかなりのツボを押さえた百合作品となっています。
主人公の女の子の視線の先には、いつもある人がいました。
その人もまた女の子なのでした。
着替えを鏡越しにチラ見したり、化粧をしあったり…
百合名場面名鑑に殿堂入り間違いなしのナイスな百合シーンが続出です。
しかし、その恋には大きな障害がありました。
相手の彼氏の存在です。
本来、百合の世界に男の存在はご法度です。
しかし、物語を盛り上げるスパイスとしてなら、むしろその味わいは増すというもの。
高圧的なDV系彼氏との関係に彼女は悩んでいます。
そして、その悩みを分かちあううち二人はついに…
とすんでのところで、相手の彼氏に見つかり強引に阻まれます。
しかし、そこは力こそパワーの脳筋民族アメリカン、女の子であっても素手で男をボコります。
で、思いを遂げてハッピーエンド。
そしてこの笑顔である。
ヘイリー・キヨコさんは日系の方で、日本人に眠る百合遺伝子が彼女をそうさせたのでしょうか。
”Girls like girls like boys do”(女の子だって男の子と同じように女の子を好きになるの)という歌詞が印象的でした。
でも、個人的に百合には男女間の恋愛とは違う、別の趣もあるんじゃないかと思います。
youtubeの公式PVはこちら
Hayley Kiyoko - Girls Like Girls
父娘の混浴 日本では歴史的にアリだが欧米では性的虐待扱い(NEWSポストセブンの記事より)
江戸時代、キリスト教を布教しに日本に来た宣教師が来た時のことです。
男女が一緒に裸で風呂にはいるのを見て「この国の風俗は乱れまくりです」と驚きました。
それに日本の侍が「西洋人は裸を変に隠したがるから返っていやらしく思うのだ」と反論したといいます。
出典不明でかなり作り話っぽいですが、まあまあありそうな話ではあります。
しかし、西洋文明でもいつでも裸が恥ずかしかったかというとそうでもありません。
古代ギリシャの時代、裸体は芸術的なものだと見られてました。
では、その後入ってきたキリスト教文化が悪いのでしょうか?
確かにそうですけど、旧約聖書によれば知恵の実を食べる前にはアダムもイブも裸が恥ずかしいと思ってませんでした。
つまり、変に考えすぎなければ裸を恥ずかしいとは思わないという自覚はあったようです。
ともかく、時代ごとに裸の恥ずかしさの程度は変わることは間違いないようです。
では裸がより恥ずかしくなる時代というのはどういう時でしょうか?
かいつまんで言えば、社会が窮屈になっている時です。
日本で言えば、江戸時代はおおらか、明治時代は厳しく、昭和はおおらか、平成は厳しくなっています。
裸というのは、個人それぞれが隠し持っているプライバシーの最たるものです。
社会の締め付けが強くなるほど、その一方で公と私が分けられ、プライバシーが重視されます。
なので、裸がより恥ずかしいものとなっていくのです。
今が過去のどの時代よりずっと精神的に自由だと思っている人も多いかもしれません。
ですが、それは少し鈍感だと思います。
それに、こんな話があります。
ほとんど裸で生活しているあるとある未開部族がいます。
彼らは裸を恥ずかしがらないのですが、そのかわり人に素肌の首を見られることは死ぬほど恥ずかしがります。
それがどこかは別として、人に見られたら恥ずかしい身体の部位というのは、人がその人のアイデンティティとして必ずいるもののようです。
女子高生と〝駆け落ち〟逃避行 相思相愛でも「誘拐」か 27歳男逮捕、「二度とせぬ」誓いを破った代償 (産経ニュースの記事より)
かつてサバルタン・スタディーズという一種の左翼・リベラル系のムーヴメントがありました。
その研究者の間で議論を呼んだあるインドの一地方の風習があります。
そこでは、夫が死んだら火葬している炎の中に妻も飛び込んで死ぬのだそうです。
普通に考えてひどいことですから、西洋の進歩的な学者たちはそんな馬鹿げたことをやめさせようと考えます。
しかし、妻たちは宗教上それを当然のこととして、喜んで受け入れているのです。
本人が「自らの意志で」やっていることを、どうして赤の他人が邪魔する権利があるんでしょうか?
そこで、こう考える人もいます。
彼女たちは閉鎖的な価値観に洗脳されているんだから、本当の自分の意思ではないという主張です。
たしかに、このインドの風習のいけないところがあるとすれば、しない自由が認められないだろうという点です。
とはいえ、それを言ったらその社会の価値観に洗脳されてない人間なんているんでしょうか?
そういうことは、真っ裸で平気で街を練り歩くようになってから言って欲しいものです。
上記事の事件の議論も似たようなところがあります。
子どもは判断力が未熟で洗脳されやすいから、本人の意思に反しても止めさせるべきだという意見があります。
でも子どもに自分の自由な意思が全くないなんてことは絶対にありません。
何が言いたいかというと、「相手の自由」というのは、それを絶対的にした瞬間から物事を急激にややこしくするということです。
細かい事情は置いておいて、僕なら夫の後を追おうとする妻を、本人の意思に反しても止めようとすると思います。
それも目の前で起きたらそうするだけで、西洋人のようにわざわざ現地まで行って啓蒙してやろうとは思いません。
そうする理由があるとすれば、理屈では説明できない「人としての共感」です。
相手の自由を侵害するかもしれませんし、結果的に間違ってるかもしれませんが、それでもその人のためを思えばとやることです。
結局最後に人を動かすのは、自由だ人権だと上からの善意の押し付けより、理屈を超えた感情なんじゃないでしょうか。
子どもに理不尽強いる「ブラック部活」の実情 丸刈りや白飯2杯ノルマも当たり前(dot.の記事より)
お笑い芸人の小藪千豊さんがテレビで教育論を語ってました。
例えば、自分で出したものは自分で片付けをちゃんとしろ、と子どもに何かを注意した時です。
「お父さんだってやってない時あるじゃん」
こんな風に口答えした時はこう返すそうです。
「職場の上司にも同じ口聞くのか。そんなことしたその場でクビやぞ。分かったらさっさとやれ」
近頃、ブラック企業からはじまりブラック○○批判が盛んです。
上記事のような学校の部活や、大学での横暴な教授と学生、お母さんの同士の人間関係まで様々です。
しかし、なぜ今になってこんな問題が取り沙汰されてるのでしょうか?
よく今の若者達に根性がないからだという人がいます。
しかし、むしろ今のブラック○○問題は変に根性があるからこそ起きている現象なんだと思います。
思うに、何か理不尽なことを命令された時、今の若者は素直に言うことを聞きすぎています。
なにか理不尽なブラックな状況で、額面通りに受け取り妙にマジメにこなそうとしてしまうのです。
本来は人の話なんて、半分も聞いておけば十分です。
相手だってそのつもりで言っています。
あんまり無茶なことは、聞き流したりのらりくらりとかわすのだって立派な方便です。
ところが、なかなか今の環境では、ここを鍛える術が身につきません。
多くの大人たちが物分かりがよく、子どもの気持ちをすぐに察してくれます。
子どもたちも、そんな大人たちの言うことなら間違いないと、素直に守ろうと頑張ります。
ところが、そのまますくすく育ったいい子たちこそ、ブラック○○の餌食になってしまうのです。
子どもの頃に理不尽な目にあっておくのは、ブラック環境に耐えるために必要なのではありません。
そうではなくて、世の中のブラック環境をなくしていくために必要なのです。
ギターの弾き語りをする女性「ギタ女」が群馬県内で増えている (上毛新聞ニュースの記事より)
つい先週末のことです。
「アコギの弾き語りできたらいいなあ」となんとなく中二病を発症してました。
たまたまビートルズのアコースティック・ギター曲『ブラックバード』を聴いたのがきっかけです。
すると、なんとその翌日、かつてピアノを習っていたA先生から「アコギ貰ったけどいらない?」との連絡が入ります。
あまりのタイミングの良さに「これはギターの神が僕にギターを弾けといっているに違いない!」と思いました。
翌日歩いてもらいに行く道中、偶然庭でアコギを練習している人を見かけたりして、より確信を深めます。
そして更に翌日、朝から弦を張り替えようとして、はたと異変に気づきます。
左利き用に弦の順番を逆に張り替えようとするのですが、ナットという部分が邪魔をしてできません。
前から持っていたエレキギターは普通にできたので、こうなるとは夢にも思いませんでした。
そこで、楽器店に相談しに持っていったところ、各パーツの歪みも酷く全部直せばもはや新品が変えてしまうとのことです。
しかたないので、そのままギターを処分してもらうことにしました。
奇跡のアコギゲットから急転直下の展開で「あのアコギさえなければ…」と肩を落とし帰りました。
さて、こんな調査があります。
まず、「自称・運がいい人」と「自称・運が悪い人」にグループを分けます。
それから、記事の中に「この文字を見つけると50ドルがもらえる」という文を紛れ込ませた新聞紙を読んでもらいます。
すると、「自分は人より運がいい」と答えたグループの人達は、よりその文を見つける確率が高かったそうです。
つまり「運がいい人」というのは、本当に運がいいというより、どんなことでも前向きな面を見られる人のことです。
考えてみれば、ピアノのA先生が連絡をくれたのは、なにより僕への気遣いでした。
ちょうど去年の今頃、心身ともに最悪の頃、先生に相談に行っていたのです。
その後、さらに状況が悪くなって後ろめたくなり、一年も連絡をしないままでいました。
楽器として役目を終えたギターが、最期にそういうきっかけを作ってくれたと思えば、残念な出来事もありがたいことに思えてきます。
自分のtwitterから拾ってきたネタでエッセイ風漫画を気ままに描いています。
■web漫画『エカテリーナさんとさよなら23』
■あとがき
前回からずいぶん期間があいてしまったエカテリーナさんシリーズです。
過去作一覧はこちら(少し違うのが混じってます)。
楽しく描かせてもらったのですが、漫画でも別れの時が近づくにつれ、さびしくなってきました。
それもついついおくれてしまった理由の一つです。
あと一回分だけ残しています。
そこでは、エカテリーナさんの頭についた例のモノの正体をご紹介します。
例によって、一体何時になるかは不明です。
もし見てくださった方いましたらありがとうございました。
■web漫画『KAIJU(カイジュウ) 第三話』
■あとがき
『web漫画『KAIJU(カイジュウ) 第二話』からの続きです。
(※画像サイズ制限により、元画像より画像解像度が落ちてアップロードされてしまいます。そのため、字が若干つぶれています。すみません)
→初めから『web漫画『KAIJU(カイジュウ)第一話』』
曲とかこういうお話を考えていると思うことなのですが。
最低限「ジャンルはこれ系でいこう」とか決めておかないと何のアイディアも浮かびません。
全くの白紙の状態から自由に発想しようとしても難しいです。
もちろん僕が凡人なのもあるのですが、広く言えることじゃないでしょうか。
例えば、地面がないとジャンプすることもできないのと同じです。
大枠を決めないと、自由に振る舞うことすらできなくなります。
続きは『web漫画『KAIJU(カイジュウ) 第四話』』
もし見てくださった方いましたらありがとうございました。
野球ドラフト 真中監督「NPBのマークがあったのでOKかと」「ガッツポーズ返して」高山指名権獲得勘違い、阪神に権利が移動(スポーツ報知の記事より)
昔、テレビでこんな試みが紹介されていました。
住宅地の中にあるのに、主要道路の抜け道になっているために、交通量の多い道があります。
どうにか片側一車線とれるくらいの狭い道で、車同士の事故が絶えなかったそうです。
そこで事故防止のためにとられた対策が面白いものでした。
それは、道路中央に引かれた白線をわざわざ消すというものです。
ドライバーからすれば、ただでさえ狭い道でガイドラインすらなくなってしまい、不自由に感じるはずです。
なので、対向車に対してより注意深く対応せざるを得ません。
そして結果的に、中央線があった時よりずっと事故が減ったのでした。
普通に考えて、危ない道路には標識や指示線でドライバーにできるだけ多く指示を与えたくなります。
しかし、それが返って「これさえ守っておけばいいんだ」という油断を与えます。
そうではなくて、ドライバーの注意力を高め、自律心を鍛える状況を作った方がいいというわけです。
これは、上記事のような今年のドラフトの珍騒動にも言えることです。
巷では、やれハズレは完全な白紙にすべきだ、ハズレと書いておくべきだ、など色々な対応策が出されています。
いくらシステム面でがんじがらめにして間違いをなくそうとしても、上記の通り、逆効果になる可能性があります。
また、それ自体いいアイディアでも、今度は裏方のほうで事務的なミスや不正が誘発されやすそうなものもあります。
本来なら、引いた紙を運営側に預け、そこで発表されるのが理想ですが、ショー的な要素がなくなってしまいます。
ですから、できるだけ考えさせた上でようやく当否が分かる仕組みができれば理想だと思います。
具体的には、直感的にはハズレとしか思えない体裁で、考えてようやく当たりがわかるという風にです。
もっとも、今回の仕組みでなお間違われたら、なかなか対応は難しいですが。
切り取られて報道されたのでしょうが、コメントはやはり一番の被害者である選手への謝罪がはじめに来るべきでした。
悲劇的な雰囲気にならずにすんだのは、ひとえに高山選手の冷静で大人な対応のおかげです。
「ミソフォニア(音嫌悪症)」食事中の「くちゃくちゃ」音、気にしすぎは病気か(Wall Street Journalの記事より)
例えば「やっぱり」とか「ね」とかの口癖をやたらと話の中にねじ込んでくる先生っています。
普通はあんまり気にもとめないで聞いています。
ところが授業中、意地悪な生徒がその先生の口癖を数え出したりします。
すると、もうそればかりが気になって授業の内容は頭に入らなくなってしまいます。
野球でとあるバッターが打席に立った時のことです。
相手のキャッチャーが、本人も自覚していないささやかな癖を耳元でささやきました。
「お前、バット構えるときにいつも鼻を手でこするけど、なんでや?」
すると、バッターは途端に調子を崩して、それ以降ヒットを打てなくなってしまったといいます。
上記事の様に、人のあまり上品でない食べ方も気になったら最期、どうしても許せなくなります。
こういった、元から耳や目に入っていたのに何かのきっかけで急に気になりだすことってあります。
我々は目や耳から入ってくる情報の、実に5%しか意識していません。
その他の95%は勝手に無視して認識しないないようにしています。
逆に言うと、この取捨選択が上手くいかなくなると、脳がパンクしてしまいます。
上に挙げた事例は、その余計な情報が入ってきたために脳が混乱してしまう一例です。
また、気持ちが弱ってくると逆に神経は研ぎ澄まされるので、気になりだすということもあります。
では、些細な事が気になるノイローゼ状態にならないためにはどうしたらいいのでしょうか?
気にならないようにしようとしても無駄です。
気にならないようにしようとすることで、余計に意識を向けてしまっているからです。
まずは、疲れている自分に気づき、元気になることです。
そうすれば、些細な事は気にならなくなります。
もう一つは、平常心に戻るための自分なりの約束事を作ってみることです。
バッターの例なら、イチロー選手は独特の所作をすることで、余計な情報を遮断してます。
左の肩を2回叩くとか、自分で考えた独自のモノのほうがより効果的です。