2017/5/23(火) 晴/曇
昨日に続き、今日も自転車で出かけた。
午前10時出発。目的地は、蘇我石川宿禰の謂れがある八代市鏡町印鑰(いんにゃく)神社。
前日の足慣らしのポタリングが効いたのか、向かい風のなかを快調に走る。
宇土市から先は、国道3県道14を避けて田園の中を走る。
宇城市の田圃には、蓮根が栽培されている(写真1参照)。
帰路に見た風景だが、ダバを着て腰まで水につかり草取りをされていた。
蓮根は収穫も大変だが育てるのも大変だと思う。お疲れ様です!
広い平野部のなかで自分の位置が分からないが、小川工業高校の体育館が見えてきたので、一旦国道3に出て「道の駅竜北」で昼食とする。
「道の駅竜北」から西を目指し田園のなかを走る。
フェニックスの高い
樹が見えたので、鏡ヶ池公園(写真2参照)か?思い走ると、フェニックスの樹の場所より手前に公園はあった。
公園の東南の角に墓所があり、一族の由緒書の碑(写真3参照)があった。
初代は河内国石川郡森屋村にて刀鍛冶とある。
蘇我石川宿禰と重なるが、藤原姓とある。この地域が河内国石川との繋がりの一面が見られる。
鏡が池(写真4参照)は、上記公園写真より南西にある。
古代より湧水量もへって農業用水池としての利用度は下がっているだろうとは思うが、想像より小さかった。
説明板(写真5参照)によるとカガ=芝原、ミ=水で、地形からの固有名詞とある。
先の墓所の「遠山」さんのご先祖が刀鍛冶とのことだが、「その先代は青銅鏡製作工人であった」というストーリーが私的には面白いと思うが、地形からの名詞という単純な話であった。
目的の印鑰神社(写真6参照)は、その南にある。
祭神は、蘇我石川宿禰と言う。
拝殿(写真7参照)、神殿は、白木造りである。
境内摂社には、弁天宮と粟島神社が祀ってある。
建築の詳細は、熊本高専の説明板(写真8参照)にある。
流石は、高等専門学校を思わせる解説である。
境内にある「八代郡倉跡」の説明板に、印鑰神社名の印¬=朝廷の公印、鑰=かぎであり、これを祀ったのが神社名称とある。
蘇我氏との関わりついては、印鑰神社H.P(http://www.innyaku-jinja.sakura.ne.jp/)
に、「武内宿禰の第3子である蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)は筑紫の凶徒を鎮める為に下向し終わりはこの地にて薨じたとか言われる」とある。
郡倉が廃止された後、跡地に建久9年(1198年)に神社を造営したとき「印鑰」を神社名に、蘇我石川宿禰を祭神したとある。
仲哀天皇が熊襲の矢に当り、その傷が元で筑紫香椎宮で薨じた言われているが、仲哀天皇の熊襲征討は、ここ八代地方で大敗したのではないかと、根拠はないがそう思う。
帰路も国道筋を逸れて、麦秋の田園のなかを走る。
途中、氷川町竜北歴史資料館(写真10参照)に立ち寄る。
資料としては、干拓史が主で、町の2/3程が干拓により陸地化されたようだ。
後は県道14を経由して帰宅する。
今日は暑かった。自宅まで30分をきった所で氷菓のお世話になった。
暑い日は大変助かる。
首筋に当てて頭を冷やし、食べてお腹から冷やせる。
「ガリガリ君」と「金時」は、夏の自転車乗りの必需品と思う。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)40km→印鑰神社35km→熊本(自宅)所要時間7.5時間(実5.5時間) 総計75km 走行累計20,924km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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