20023/1/23(月) 曇
今日は最高気温12°早朝の気温5°午前中は陽射しもあり比較的暖かい日になった。明日からの寒波を考えると、自転車に乗るなら今しかないと午後13時からポタリングに出る。
目的地は、豊後街道の三里木までの里数木と、「熊本大学埋蔵文化財調査室年報5:19」の「黒髪町遺跡・本庄遺跡の一と周辺遺跡の分布図」に記載がある「打越貝塚」の現地探訪とする。
往路は京町台地を越えて、「打越貝塚」のある電鉄「打越」駅に向かう。
駅ホームから坪井川方向(写真1参照)を見る。線路左側がその位置だが、この高さで貝塚は考え難い。登って確認したいところだが、足場がないので諦めて東側に廻る。
坪井川側から駅方向(写真2参照)を見る。空き地とマンションが建っている。空き地はフェンスで囲われていて入れないのでこちらも諦めて現地を後にする。
「打越貝塚」を後にして、旧国道57を東進する。桜山神社の先に「一里木」のバス停と熊本県が設置したと思われる「一里木跡の碑」(写真3・4参照)がある。
更に東進して龍田の道左側に「二里木」のバス停(写真5参照)がある。
「二里木」は道路右(南)側(写真6・7参照)に健在だった。説明板は、「豊後」を「大津」と表記している。私も子どもの頃は、大津街道と呼んでいたように思う。
交差点を通過し、龍田市民センターの東側に武蔵塚公園(写真8・9・10参照)がある。
説明板には、「武蔵は天正十二年(1584)播磨国(現兵庫県揖保郡太子町宮本)に生まれた。
幼名を弁助と云い、後に武蔵と改め、また晩年には二天道楽とも号した。大小二刀を用いる二天一流を創始して後世剣聖と仰がれた兵法者である。十三歳のときから二十八、九歳のときまで諸国を暦遊し、六十余回も勝負したが一度も敗れなかったという。吉岡一門との戦いや、佐々木小次郎との試合は特に有名である。
寛永十七年(1640)武蔵五十七歳のとき、細川忠利公に客分として招かれ軍事政治の顧問として仕えた。
翌年、忠利公の命で武道に関する「兵法三十五箇條」を上書した。また、武蔵は武術だけではなく茶、禅、書画三昧の日々を送り文人としても名高く水墨画など名品を残している。
忠利公没後、金峰山西麓の霊巖洞にこもり、五輪の書を著した。この他、武蔵が臨終の七日前にしたためたものに「独行道」がある。
正保二年(1645)五月十九日、武蔵六十二歳にして熊本千葉城の自宅で没した。
武蔵は生前の遺言によって主君の参勤交代を見守るため、甲冑を帯し六具に実を固め立見の姿でこの地に葬られたと伝えられる。
また一説には、天正十年(1582)美作国(現岡山県英田郡大原町宮本)に生まれたとも云われている。」とある。
更に旧国道57を東進して、JR「三里木」駅に到着し「三里木跡」の標石(写真11・12参照)を見る。写真石碑の後に写るのは、三里木駅舎。
標石の説明文には、「三里木跡は、熊本城(札ノ辻)を起点として豊後街道上約十二キロの地点にあり、数本の榎があり里数木の伝承を留めていたが、現在は地名にそれを残すのもである。」とある。
現在時刻15時前、ここを折り返し点として帰途に就く。(豊後街道杉並木と四里木跡)
16時前に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
総所要時間3時間(実2.5時間) 総計30km 走行累計52,376km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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