熊本城宇土櫓・西出丸
2023/1/15(日) 曇/雨
今日は、最高気温予報15°早朝の気温10°と曇空だが暖かい。午後1時から薄日が射してきたので熊本城までウォーキングに出たが、帰路の途中から小雨になった。
ルートは、上熊本から京町台崖下の道を南に辿り、左側一本目の坂道の釈将寺坂を登る。どこに出るか分からないまま登り詰めると、九州森林管理局の入口に出た。
南に行って、熊本地方気象台入口交差点内の「清正まちと街路つくり」(写真1参照)を見る。
説明板(写真2・3参照)には寛文前後の「京町之絵図」があり、「清正は肥後の領主に着任後、茶臼山に熊本城を築き始めたが、これと並行して城下町としての町づくりにも力を入れた。京町とは都の意味で、清正が茶臼山(現在の古京町付近)にあった町屋を移したものであり、南北に走る街道に沿って京町一~二丁目、二丁目筋の西に今京町、そのもう一筋西に金峰山町の町人町が形成された。この京町台地のほぼ中央部には、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れた柳川立花藩や宇土小西藩の家臣団を清正が預かり、この地に住まわせたことからこの地をそれぞれ、柳川小路、宇土小路と呼ぶようになったということである。これらの配置は敵の襲撃を常に念頭に入れたものになっており、これは道路づくりにも現れている。ここの釣形状の街路も清正が自兵の動きを敵にさとられないよう戦略上の意図から造られたものといわれ、今日までその姿をとどめていたが、交通渋滞が徐々に激しくなったため、その解消策として現在のように改良されたものである。」とある。
豊前街道の新堀橋を渡り、埋門跡(写真4・5参照)を見る。
説明板には、「「埋門」とは、一般的には石垣や塀に埋め込むようにつくられた門を指します。しかし、熊本城の埋門は石垣の間につくられた櫓門でした。本来の通路は埋門の下を通り、折れ曲がって二の丸北側へ向かっていました。大正時代に一部の石垣が撤去され、通路が直線化されました。現在の門は、平成元年(1989)に市政100周年を記念してつくられたもので、当時の形状とは異なります。」とある。
城内を南に進み左折すると「監物台樹木園」(写真6・7参照)がある。細川家家老「長岡監物」の屋敷跡である。
門の右横に「監物櫓」の説明板があり、「監物台樹木園の敷地北側には、国の重要文化財に指定されている監物櫓があります。江戸時代には豊前街道・豊後街道脇に位置しており、北の守りを固めていました。平成28年熊本地震で外壁が破損し、建物本体が傾きました。平成31年(2019)3月に建物解体が終了し、解体した部材は格納庫で復旧まで保管しています。」とある。
監物台樹木園から南に行くと北大手櫓門跡(写真8・9参照)がある。
説明板には、「江戸時代、本丸に入る三つの大手門のうち、この石垣の上には北大手門と呼ばれる櫓門がありました。平成28年(2016)の地震により、道路沿いの石垣は崩落こそ免れましたが、亀裂が入り大きく膨らむなどの被害がありました。二次災害を防ぐためにネットを張り、大型土のうを積んで応急な安全対策を施しています。」とある。
以前はこの説明板のとおりであったが、現況は傷んだ石垣部分を撤去して復旧の準備中のようである。
加藤神社鳥居横から宇土櫓と大天守・小天守(写真10・11参照)を観る。
宇土櫓説明板には、「「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は、地上五階・地下一階、建物の高さ19m、土台石垣の高さは21m以上と大天守に次ぐ大きさです。西南戦争直前に大小天守は炎上しましたが、宇土櫓は焼けずに残りました。熊本城では江戸時代から残る唯一の五階櫓です。平成28年(2016)の地震では、南に付く続櫓が倒壊し、五階櫓の壁漆喰・床などが破損しました。土台石垣も大きく膨らんだ箇所があります。」とある。
その宇土櫓と石垣の復旧のための仮足場の基礎(写真12参照)が打設されていた。
加藤神社鳥居前から西方向に西出丸の石垣(写真13・14参照)に沿って、仮設通路が延びている。
説明板には、「本丸西側の守りを固めるため西出丸が築かれました。江戸時代後期の絵図によると、西出丸のは「西御蔵」と呼ばれる年貢米などを保管する蔵があり、蔵の北側に「御銀所」という藩札(各藩が独自に発行する紙幣)を管理する役所がありました。また、北西隅には3階建ての戌亥櫓がありました。明治時代に櫓は解体されましたが、平成15年(2003)に木造で復元しました。」とある。
戌亥櫓の現況は、復旧のために現在解体されている。
引き返して、二の丸御門に行く途中の崩落した石材の仮置き場に、石垣復元研修の石積(写真15・16参照)がある。
説明板には、「令和元年(2019)10月、文化財である石垣の保存に携わる技術者による、石積み・石割り・鍛冶作業研修が行われました。なかでも石積み研修では、崩落した百間石垣のうち2か所を対象に崩落前の石垣の復元を行いました。石割りに使う道具を一から作成し、崩落前の写真や測量データの成果を元に石垣モデルを作成しています。」とある。
西方向に行って、二の丸御門の降り口の説明板(写真17参照)には、「二の丸御門は豊前街道・豊後街道が通る御門で、防衛上重要な場所でした。明治時代初めに御門は解体され、明治22年(1889)の地震では周辺の石垣が崩落しましたが、陸軍によって石垣は復旧されました。平成28年熊本地震でも石垣が崩落しましたが、石材を回収し崩落した栗石をカゴに入れて積み上げ、安全対策として利用しています。」とある。
二の丸御門を出て、三の丸から砂薬師坂を降り帰途に就く。
総所要時間3(実2.5)時間(ウォーキングの記事は1万歩以上とする)
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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