欧州気まま旅+トキドキ国内旅行 The Travel of Europe

旅の形 その38 ちょっと歴史

 今日は電波の弱いところにいて、画像をアップしずらいです。

 それで、少しウイーンに所縁が深い「ハプスブルク家」の歴史を簡単にご紹介します。

 1273年 ルドルフ一世 神聖ローマ帝国の皇帝になる

  ハプスブルグ家の政略結婚⇒キーワード

  「神聖ローマ帝国」はイタリアのローマ帝国とは無関係
  ドイツ国民の神聖なる帝国 の意味
  皇帝は7人の選考帝から選ばれる 3人が聖職者 4人が世俗の君主

  力がないと思われていたルドルフ一世が選ばれた(この男なら何もできないだろう)

  自分が皇帝になりたかったボヘミア王のオットカルは激怒して戴冠式に出なかった

  これを理由に数年後

   ルドルフ一世+皇帝軍VSオットカルの戦いに オットカル敗北
 
  この結果オーストリア周辺がハプスブルグ家の領地に 
 
 1291ルドルフ一世死去 アルプレヒトが後見 アルプレヒトは内政外交に辣腕

   だから 選帝侯は他の君主に変えた。
 
  しかし その君主は数年で死去

  そのおかげで アルプレヒトが戴冠 
  
  アルプレヒトに変わってスイスとの関係が悪化
  
  ウイリー州の猟師テルが悪代官ゲスラーを射殺したのは「ウイリアムテル」
  
  ハプスブルグ家とスイス住民との関係を象徴    
  
  だが アルプレヒトは甥のヨーハンに暗殺される

  それで 皇帝の冠は奪われる

 再び冠が戻るのは1440年フリードリッヒ三世
  
 (この男なら毒にも薬にもならない)と再び思われていた
  
  どっこい この男は長生きだった 長生きは力(生きているうちは皇帝)
 
  フリードリッヒ三世のキーワードは忍耐
 
  様々な攻撃 要求 占領などを耐え、逃亡し、凌いだ 土俵際に強い
 
  しかし フリードリッヒ三世の大決心

  教皇自ら定款を頂くためにイタリアへ行った、以後「ローマ皇帝」と称する

#オーストリア #ウイーン #ハプスブルグ家 #歴史も少し知っていると楽しい

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