『信長考記』

織田信長について考える。

「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察④

2014-09-20 14:05:00 | 本能寺の変 431年目の真実
(承前)
天正9年(1581)6月、元親の実弟・香曽我部親康に対し信長は、阿波での三好式部少輔との協力(降伏?)を認め、引き続きその平定に当たることを命じており(同12日付朱印状「香曽我部家伝証文」・『信長文書』928号)、三好康長からもそれに対する添状(同14日「古証文・七」・前同)が送られています。
康長が副状を添えているのは、先述の松井友閑の書状にもあるように、信長より命じられた阿波・讃岐平定の担当者であったからです。

元親とすれば式部少輔を介しての阿波支配を認めてほしかった処でしょうが、康長の書状には、
  随って同名式部少輔の事、一円若輩に候、殊更近年忩劇に就きて、無力の仕立て候条、諸事御指南希う所に候、
  弥御肝煎我等においても珍重たるべく候、

  (同族の式部少輔は全くもって若輩者であり、ことさら近年は騒動の渦中にあり、力を発揮できていませんので、
  諸事にご指南を願います。ますますのお世話を頂き私も嬉しく思います。)
とあり、あえて式部少輔の後見を求めることで元親の阿波進出に釘を刺したものと見られます。

とは言え、阿波における長宗我部氏の影響力が認められたであろうことも確かであり、このときに実質的な支配下にあった南郡半国の領有が黙認されたと考えられるのではないでしょうか。

しかしながら先に元親は阿波・讃岐平定の意欲を示しており(天正8年11月24日付「羽柴秀吉宛書状」)、不満の残る通達であったであろうことは想像に難くありません。
そしてその後、何らかの齟齬が生じ、その阿波南郡半国からも退去せよとの命が下ったのではないでしょうか。

通説ではそのころより長宗我部氏が毛利氏との接近を図り、織田方との関係が急速に悪化していったと考えられています。

「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察③

2014-09-11 05:30:45 | 本能寺の変 431年目の真実
(承前)
元親にとって気がかりなこと、それは三好康長の四国渡海です。

天正8年(1580)11月24日付「羽柴秀吉宛 長宗我部元親書状」には、次のことが記されてます。
  一、阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走可詢粉骨念願計候。
    (阿波・讃岐の平定がなりましたら、不肖の身ですが西国表への出兵の際には、最大限の協力を致します。)
  一、三好山城守近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、
    (三好康長が近日、讃岐の安富氏の館に下り、やがて阿波に入るものと思われます。詳しくは使者が説明します。)
元親は秀吉に阿波・讃岐平定の意欲を陳べる一方で、近々、康長が四国へ渡海するするであろうことを伝えています。

康長の渡海については、奇しくもその前日付けで堺の代官である松井友閑が「秀吉宛書状」にも見られる安富筑後守・同又次郎に宛てた書状があり(「志岐家旧蔵文書」)、
  その阿・讃の儀、三好山城守にいよいよ仰せつけられ候、その刻み、御人数一廉相副えられ、
  即時に両国残らず一着候様に仰せつけられるべく候

  (阿波・讃岐の平定については三好康長が任されました。その際には精鋭の兵を従軍させ、
  即時に両国ともに平定するように申し渡されるでしょう。)
と、康長が信長より阿波・讃岐の平定を命じられた旨が述べられています。

信長は元親の阿波・讃岐の平定が覚束ないとみて康長に四国渡海を命じたと考えられますが、四国制覇を目指す元親にとって危惧すべき出来事であったことは言うまでもありません。
翌9年6月、その元親方に信長からの朱印状と康長の添状が届けられます。

それこそがまさに、『元親記』にいう「阿波南郡半国、本国に相添へ遣はさるべし」であったと考えられます。




「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察②

2014-09-04 06:35:14 | 信長
(承前)
そこで注目すべきは、元親が何を求めたのかということです。

近々の問題としてそれを考えれば、それは土佐の正式な国主としての承認ではないでしょうか。
というのも、天正3年(1575)に土佐を統一した元親ですが、公式には土佐の主ではありませんでした。

『信長公記』天正8年6月26日の条には次のような記述が見られます。
  土佐国捕(輔・補)佐せしめ候長宗我部土佐守、
「土佐守」とあるのは後年の俗称であり、「土佐国輔佐」(※南葵文庫本)というのが当時の元親の立場であったようです。

元親が誰を輔佐していたのかと言えば、それは土佐西部に勢力を持っていた公家大名の土佐一条氏であり、土佐を支配するにあたり元親はその権威を利用しており、元親の娘婿であった一条内政が長岡郡の大津城に置かれた為、今日それは「大津御所体制」と呼ばれています。

しかし元親は、家臣・波川清宗の謀反に加担したとして内政を天正9年2月に追放しています。
その「内政追放」を織田政権との関係悪化と結びつける研究者もいますが、「大津御所体制」はあくまで土佐国内の内政に関わるものであり、外交のうえでは影響はなかったとみるべきでしょう。

ただその際、元親は孫である一条政親を家臣の久礼田定祐の下で養育させており、天正14年(1586)12月に戸次川の戦いで元親の嫡男・信親が戦死すると、政親が従四位・摂津守に叙任され一時的に「御所体制」の復活が見られるように、土佐を支配するうえで権威の保障は必要であったと考えられます。
だとすれば「内政追放」に際し、元親が織田政権に土佐の正式な国主としての承認を求めたとしても不思議はないのではないでしょうか。

それとともに、当時、元親には気がかりなことがあったと考えられます。


「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察①

2014-09-01 12:36:24 | 信長
なかなか解釈の難しい天正10年5月21日付「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」ですが、来月発売の「歴史読本」11月号に桐野作人さんの論考が掲載されるとのことで、「歴史街道」9月号からより進んだ考察がなされているのか興味と期待のあるところですが、その前に気付いた点もあるので考察を進めたいと思います。

まず同書状が難解なのは、冒頭にある追記の
  尚々、頼辰へ不残申達候上者、不及内状候へ共
  (なお、頼辰へ残らず申し述べた上は、内々の書状には及ばないのですが)
が全てを物語っていると思われます。

すなわち同書状は、元親が「頼辰に残らず話した」ことを前提に認められた私信であり、「(わざわざ)内状を認めるにまでには及ばないものの」とあることからも、後々気になる点もあり思いつくままに書き記したものであろうことが窺え、一部の語句や脈略におかしな点があっても当事者同士にはそれで通じていたと考えられます。
その為、それを解読するには「頼辰に残らず話した」というその内容が不可欠なのですが、残念ながら直接それ窺わせる史料は伝わっていません。

ただ、通説ではこのときの石谷頼辰は、天正3年に信親への偏諱とともに認められたとされる「四国の儀は元親手柄次第に切取り候へ」との約定を反故にし、伊予・讃岐を返上のうえ阿波もその南郡半国の領有しか認めないとの信長の朱印状を拒絶した元親の説得にあたるために派遣されたとされています。※『元親記』ほか

しかし同書状の第2条には、
  南方不残明退申候、応 御朱印、如此次第を以、
  (南方からは残らず退去しました。御朱印状に応じたこのような次第をもって、)
とあり、その南郡からの退去こそが信長の朱印状の要件であったことが窺わせられます。 

先にも述べたように、『元親記』ほか後代の史料でそれら南郡の諸城は、信孝の四国討伐軍に先駆け勝瑞城に先着した三好康長によって攻撃され奪われたと記されています。
康長にそれ程の戦力があったとは考えらませんが、武田氏滅亡の報に一転して四国で長宗我部氏への反旗が翻り窮地に陥った可能性もあります。

もし元親がそれを偽り自発的な「退去」として記していたとすれば白々しさは否めず、追記に
  不可過御計申候
  (お考え過ぎありませんように)
とあるのは、暗に窮状を訴え利三に対処を求めたものとの解釈も出来そうです。

とはいえ、そうした陰謀論議は別として、同書状における阿波南郡からの退去が信長の朱印状の要件であったという文面は信じてよいのではないでしょうか。
その朱印状について、同年1月11日付「空然(石谷光政)宛 斎藤利三書状」には元親の懇請に基づき発給されたものであり、それに従うことが元親の為にもなることであると記されています。


意訳「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」

2014-08-13 13:17:07 | 信長
天正10年5月21日付「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」を、8/6発売「歴史街道」9月号掲載の桐野作人さんの解釈と、こちらのサイトの高村さんの解釈を参考に意訳してみました。

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(追記)
なお、頼辰へ残らず申し述べた上は内々の書状を書くまでには及ばないのですがには及びませんが、私の思いはほぼ以上の通りです。お考え過ぎありませんように。

(前記)
書状拝見しました。私の身上についていつもお世話いただき、生涯のご恩と思うばかりです。それについてはとても書き尽くすことができません。

(本文)
一 この度ご要請に応じることが、とかく今に至るまで遅れたことに、ことさら他意はありません。進物による挨拶も考えが及ばず疎かにしておりました。時節や都合を理由に先延しにすることは、もはやどうしようもないことでしょうか。ただしこの秋に準備を整えた上で申し開きすれば、赦されることもあるかと望みを持っています。①

一 一宮を始めとし、夷山城、畑山城、牛岐の内、そして仁宇、南方からは残らず退去しました。信長公の御朱印状に応じたこのような次第をもって先ず光秀殿にご披露いただきたいのですが如何でしょうか。それでも信長公へのご披露は出来難いだろうと頼辰も言われるので、いよいよあとはないのかと思っています。結局、その時が来たまでということでしょうか。それにしても、多年に渡り抜きんでて働き、他に秘めた考えなど毛頭ないのに、突然のなされ様はこのような事態になるとは思いもよりませんでした。②

一 そのうえでも、信長公に対する逆心などない私の気持ちは固いのでお礼申し上げるものです。ただしどのようなことあろうとも、海部・大西の両城を手放すわけにはまいりません。それは阿波・讃岐を望むためでは絶対ありません。ただ当国の守りとしてこの両城を確保しなければならないのです。それによりご成敗あろうとも致し方ありません。③

一 東国が平定された今、信長公が安土に帰陣されたので仰せに従います。④

一 何事もよく頼辰と話し合って下さい。ご分別が大事です。また良い知らせがありますように。⑤


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本文の第5条で「分別が大事」とし、さらに追記で「考え過ぎるな」と重ねて述べている点に、同年1月11日付け「空然(石谷光政)宛て書状」で利三から自重を求められた元親が、逆に利三に自重を説いているように思えるのは考え過ぎでしょうか。