実は、光秀室の父親についてはもう一人、別の名前が挙げられています。
それは妻木藤右衛門広(廣)忠という人物であり、江戸時代に旗本として続く妻木氏の始祖に連なります。研究者によっては範煕の兄とも同一人物ともされ、山崎の戦いの後の天正十年(1582)の六月十八日、近江坂本の西教寺で一族の菩提を弔い自刃しています。
ただ両者の関係には不明な点が多く、特に範煕については先述のごとく妻木氏の系譜においては確認できません。
その範煕と広忠を兄弟だとするのは、妻木氏の系譜において広忠の経歴に「光秀か伯父」と記されているのを「光秀室の伯父」と解釈したものとみられますが、両者を同一人物と見做すには、さらに「伯父」を「父」と読み換えねばならず余りに作為的だと言わざるを得ません。
そのうえで「範煕」を「廣忠」の改名(あるいはその逆か)と考えることもできそうですが、妻木氏歴代の通字は「広」や「徳」であり※、その意味では「徳広」であったハズと考えられ、『明智軍記』の誤記もしくは改変、そして創作ではないかと考えられます。
一方、広忠についても、『寛永諸家系図伝』では「藤右衛門」とのみ記されており、続く『寛政重修諸家譜』において「広忠」の名が付されているのですが、西教寺の過去帳には「明智藤右衛門」と記されており、廣忠が「明智」の苗字を名乗っていた可能性もあります。
それについては『寛永諸家系図伝』に「妻木」の苗字が一旦絶えたことが記されており、再興の祖とされる彦九郎弘定の名前には明智氏との近しい関係が窺え、地元に伝わる系図にも明智頼照なる人物※を妻木氏(※再興)の始祖に充てるものがあることから、妻木氏は明智氏の極めて近しい分家として位置付けられるのではないかと考えられます。
なおかつ、その惣領ともなれば「明智」を称することもあったのではないでしょうか。
改めて妻木広忠について考えると、系譜において 「光秀か伯父」 とあるのを 「光秀室の伯父」と読み換えるべき必然があるのかと言えば、そこには、『明智軍記』において光秀の室の父親が妻木範煕であったと記されていることを疑わず、「妻木」は光秀の室の実家であるというのが定説とされてきた経緯があると言わざるを得ません。
しかしそうした固定観念を捨てて素直に解釈すれば、妻木広忠は光秀本人の伯父であったということになり、そのことからは、少なくとも光秀の父もしくは母が妻木氏であった可能性が浮かんできます。
それに関しては、従来、俗説として見られてきた光秀の側室の存在を今一度検討すべきではないかと思われます。
ただし側室といっても、従来、煕子と呼ばれている正室の出自が妻木氏であるということが疑わしくなると、その側室の中に本当の正室がいるのではないかと考えられます。
※他に「頼(束負)」がある。
※沼田土岐氏の系譜において明智氏の祖とされる頼基の五代・頼秋の子(実は弟・頼秀の兄弟)とする。
それは妻木藤右衛門広(廣)忠という人物であり、江戸時代に旗本として続く妻木氏の始祖に連なります。研究者によっては範煕の兄とも同一人物ともされ、山崎の戦いの後の天正十年(1582)の六月十八日、近江坂本の西教寺で一族の菩提を弔い自刃しています。
ただ両者の関係には不明な点が多く、特に範煕については先述のごとく妻木氏の系譜においては確認できません。
その範煕と広忠を兄弟だとするのは、妻木氏の系譜において広忠の経歴に「光秀か伯父」と記されているのを「光秀室の伯父」と解釈したものとみられますが、両者を同一人物と見做すには、さらに「伯父」を「父」と読み換えねばならず余りに作為的だと言わざるを得ません。
そのうえで「範煕」を「廣忠」の改名(あるいはその逆か)と考えることもできそうですが、妻木氏歴代の通字は「広」や「徳」であり※、その意味では「徳広」であったハズと考えられ、『明智軍記』の誤記もしくは改変、そして創作ではないかと考えられます。
一方、広忠についても、『寛永諸家系図伝』では「藤右衛門」とのみ記されており、続く『寛政重修諸家譜』において「広忠」の名が付されているのですが、西教寺の過去帳には「明智藤右衛門」と記されており、廣忠が「明智」の苗字を名乗っていた可能性もあります。
それについては『寛永諸家系図伝』に「妻木」の苗字が一旦絶えたことが記されており、再興の祖とされる彦九郎弘定の名前には明智氏との近しい関係が窺え、地元に伝わる系図にも明智頼照なる人物※を妻木氏(※再興)の始祖に充てるものがあることから、妻木氏は明智氏の極めて近しい分家として位置付けられるのではないかと考えられます。
なおかつ、その惣領ともなれば「明智」を称することもあったのではないでしょうか。
改めて妻木広忠について考えると、系譜において 「光秀か伯父」 とあるのを 「光秀室の伯父」と読み換えるべき必然があるのかと言えば、そこには、『明智軍記』において光秀の室の父親が妻木範煕であったと記されていることを疑わず、「妻木」は光秀の室の実家であるというのが定説とされてきた経緯があると言わざるを得ません。
しかしそうした固定観念を捨てて素直に解釈すれば、妻木広忠は光秀本人の伯父であったということになり、そのことからは、少なくとも光秀の父もしくは母が妻木氏であった可能性が浮かんできます。
それに関しては、従来、俗説として見られてきた光秀の側室の存在を今一度検討すべきではないかと思われます。
ただし側室といっても、従来、煕子と呼ばれている正室の出自が妻木氏であるということが疑わしくなると、その側室の中に本当の正室がいるのではないかと考えられます。
※他に「頼(束負)」がある。
※沼田土岐氏の系譜において明智氏の祖とされる頼基の五代・頼秋の子(実は弟・頼秀の兄弟)とする。