『信長考記』

織田信長について考える。

閑話 妻木光秀 ②

2014-03-30 10:38:18 | 信長
 実は、光秀室の父親についてはもう一人、別の名前が挙げられています。
 それは妻木藤右衛門広(廣)忠という人物であり、江戸時代に旗本として続く妻木氏の始祖に連なります。研究者によっては範煕の兄とも同一人物ともされ、山崎の戦いの後の天正十年(1582)の六月十八日、近江坂本の西教寺で一族の菩提を弔い自刃しています。
 ただ両者の関係には不明な点が多く、特に範煕については先述のごとく妻木氏の系譜においては確認できません。

 その範煕と広忠を兄弟だとするのは、妻木氏の系譜において広忠の経歴に「光秀か伯父」と記されているのを「光秀室の伯父」と解釈したものとみられますが、両者を同一人物と見做すには、さらに「伯父」を「父」と読み換えねばならず余りに作為的だと言わざるを得ません。
 そのうえで「範煕」を「廣忠」の改名(あるいはその逆か)と考えることもできそうですが、妻木氏歴代の通字は「広」や「徳」であり※、その意味では「徳広」であったハズと考えられ、『明智軍記』の誤記もしくは改変、そして創作ではないかと考えられます。

 一方、広忠についても、『寛永諸家系図伝』では「藤右衛門」とのみ記されており、続く『寛政重修諸家譜』において「広忠」の名が付されているのですが、西教寺の過去帳には「明智藤右衛門」と記されており、廣忠が「明智」の苗字を名乗っていた可能性もあります。
 それについては『寛永諸家系図伝』に「妻木」の苗字が一旦絶えたことが記されており、再興の祖とされる彦九郎弘定の名前には明智氏との近しい関係が窺え、地元に伝わる系図にも明智頼照なる人物※を妻木氏(※再興)の始祖に充てるものがあることから、妻木氏は明智氏の極めて近しい分家として位置付けられるのではないかと考えられます。
 なおかつ、その惣領ともなれば「明智」を称することもあったのではないでしょうか。

 改めて妻木広忠について考えると、系譜において 「光秀か伯父」 とあるのを 「光秀室の伯父」と読み換えるべき必然があるのかと言えば、そこには、『明智軍記』において光秀の室の父親が妻木範煕であったと記されていることを疑わず、「妻木」は光秀の室の実家であるというのが定説とされてきた経緯があると言わざるを得ません。
 しかしそうした固定観念を捨てて素直に解釈すれば、妻木広忠は光秀本人の伯父であったということになり、そのことからは、少なくとも光秀の父もしくは母が妻木氏であった可能性が浮かんできます。
 それに関しては、従来、俗説として見られてきた光秀の側室の存在を今一度検討すべきではないかと思われます。

 ただし側室といっても、従来、煕子と呼ばれている正室の出自が妻木氏であるということが疑わしくなると、その側室の中に本当の正室がいるのではないかと考えられます。


※他に「頼(束負)」がある。
※沼田土岐氏の系譜において明智氏の祖とされる頼基の五代・頼秋の子(実は弟・頼秀の兄弟)とする。

閑話 妻木光秀 ①

2014-03-23 09:14:53 | 信長
 以前、著名な研究者の某氏より示唆されたこと。
   明智光秀は本当は明智氏では無いのではないか。
 そのことについてご本人はその後、表立って触れられたは無いようですが、一考の余地はあるように思われます。
 その論拠となるのは、光秀の妹が「ツマキ」と呼ばれていたこと。

 その「ツマキ」といえば光秀室の実家が妻木氏であることが知られていますが、実はその出典が何あろう『明智軍記』であることを、以外にも多く研究者の方が知らないのではないでしょうか。
 それは、今日でも光秀研究のバイブルとされる吉川弘文舘・人物業書『明智光秀』(1958/9)で著書の高柳光寿氏が
  光秀の妻は『細川家記』に妻木勘解由左衛門範煕の女とある。この外には所見はない。
  しかし細川忠興の室の母であったことから考えて、この所伝は信じてよいと思う。

と述べられているのを鵜呑みにしているものと思われます。

 高柳氏が『明智軍記』を読んでいないハズはないのですが、『綿考輯録(細川家記)』が『明智軍記』の記事からも引用して編纂されていることは事実であり、そのことからすれば、光秀室の父親が妻木範煕であったということにも疑うべき余地があると言わざるを得ません。
 光秀室の名前については「煕子」とするのが定説化されていますが、『綿考輯録(細川家記)』にも記されていないことから、父親の名前に由来して後付された可能性も高いのではないかと思われます。

 その妻木範煕ですが、実は妻木氏の系譜においては実在に疑問が持たれる人物でもありす。
 
 




 
 
 

『フロイス・日本史』の「唐入り」は真実か 第六章(p127~140)

2014-03-14 08:17:42 | 本能寺の変 431年目の真実
 秀吉の「唐入り」について明智憲三郎氏は、ルイス・フロイスの『日本史』の
  彼が強く望んでいるのは、彼が恐れており、将来なんらかの支障をもたらすかも知れぬすべての諸侯なり
  高位者を、日本から放逐し、それを実現した暁には、日本の諸国をほしいままに自らの家臣、友人、
  その他の己れが欲する者に分与することであった

という記述を紹介し、「秀吉は信長のアイデアを真似て実現しようとしたのだ。」と述べられています。

 しかし、客観的にみて信長の真似といえるのは「唐入り」の意思の継承であり、その意図まで同じであったというのは憲三郎氏の思い込み以外の何者でもありません。しかもその秀吉の「唐入り」ですら、実はフロイスのそれと日本側の記録とでは大きく異なっています。

 秀吉が最初に「唐入り」の意思を表明したのは天正十三年(1585)九月の関白就任直後のことでしたが※、実行に移された天正二十年(1592)の五月十八日付けで養子の関白・秀次へ送った宛朱印状でその構想を明らかにしています。
 いわゆる「三国国割構想」と呼ばれるものであり詳細は略しますが、注目すべきは秀吉自らが大陸(※寧波)に居することを表明しており、後継者である秀次もまた北京へと移すことが記されています。
 すなわちそれは積極的な「大陸進出構想」とも呼ぶべきものであり、フロイスの言うような “邪魔者を追放する” といった姑息な考えとは大きく異なっています。どちらを信ずるべきかは言うまでもないでしょう。

 『日本史』のそれは、「唐入り」の失敗を踏まえ、ともすれば誇大妄想とも言うべき秀吉の構想を皮肉り矮小化したフロイスの主観的記述であったと考えられます。


※一柳市介への書状

信長と秀吉は同一人格か 第六章(p127~140)

2014-03-10 06:37:55 | 本能寺の変 431年目の真実
  本章で、明智憲三郎氏の考えられている謀反の真の理由が “やがて一族が海外へと追われ滅亡する” との危機感からであることが明らかになった訳ですが、その論拠とも言うべき「唐入り」については、憲三郎氏の認識に根本的な誤りがあると言わざるを得ません。
 なぜなら、憲三郎氏の考えられている信長の「唐入り」は秀吉の「唐入り」からの類推ですが、信長と秀吉ではその生い立ちからして異なれば全国平定への経緯も異なり、家族構成も異なります。当然、人格も異なっていました。
 だとすれば、「唐入り」に対する理念も自ずと異なっていたと考えるべきであり、秀吉のそれをそのまま信長に当てはめて考えるのは極めて問題があると言わざるを得ません。

 そもそも信長の「唐入り」も、信長がそうした構想を持っていたことは確かでしょう。しかし、それがどこまで実行性をもっていたかは疑問でかあり、単なる願望であったとも考えられます。当時、信長と接触していたイエズス会は中国での布教を目論んでいましたから、信長もそれを念頭にそうした発言をした可能性もあります。

 その肝心の信長の発言内容ですが、ルイス・フロイスの『日本年報追信』(1582/11/5付)には
  毛利(氏)を征服し終えて日本の全六十六ヶ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため
  一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた

とあります。後者については、それを日本の国土と見るか明の国土と見るか議論の余地はありますが、結局、語られているのはそれだけのことであり、それ以上の何者でもありません。
 それを憲三郎氏の言われるような「織田家の長期政権構想」として見るのは、信長と秀吉を同一人格と見做した解釈である言わざるを得ません。

 そしてそれ以上に、憲三郎氏は秀吉の「唐入り」ですら正しく理解していないのではないかと思われます。