『信長考記』

織田信長について考える。

「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察②

2014-09-04 06:35:14 | 信長
(承前)
そこで注目すべきは、元親が何を求めたのかということです。

近々の問題としてそれを考えれば、それは土佐の正式な国主としての承認ではないでしょうか。
というのも、天正3年(1575)に土佐を統一した元親ですが、公式には土佐の主ではありませんでした。

『信長公記』天正8年6月26日の条には次のような記述が見られます。
  土佐国捕(輔・補)佐せしめ候長宗我部土佐守、
「土佐守」とあるのは後年の俗称であり、「土佐国輔佐」(※南葵文庫本)というのが当時の元親の立場であったようです。

元親が誰を輔佐していたのかと言えば、それは土佐西部に勢力を持っていた公家大名の土佐一条氏であり、土佐を支配するにあたり元親はその権威を利用しており、元親の娘婿であった一条内政が長岡郡の大津城に置かれた為、今日それは「大津御所体制」と呼ばれています。

しかし元親は、家臣・波川清宗の謀反に加担したとして内政を天正9年2月に追放しています。
その「内政追放」を織田政権との関係悪化と結びつける研究者もいますが、「大津御所体制」はあくまで土佐国内の内政に関わるものであり、外交のうえでは影響はなかったとみるべきでしょう。

ただその際、元親は孫である一条政親を家臣の久礼田定祐の下で養育させており、天正14年(1586)12月に戸次川の戦いで元親の嫡男・信親が戦死すると、政親が従四位・摂津守に叙任され一時的に「御所体制」の復活が見られるように、土佐を支配するうえで権威の保障は必要であったと考えられます。
だとすれば「内政追放」に際し、元親が織田政権に土佐の正式な国主としての承認を求めたとしても不思議はないのではないでしょうか。

それとともに、当時、元親には気がかりなことがあったと考えられます。


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