『信長考記』

織田信長について考える。

二次史料の信憑性は立証されたのか

2014-07-22 19:44:00 | 信長
 今回の「石谷家文書」の発見が注目される点のひとつに、これまで信憑性に疑問をもたれていた『元親記』や『土佐物語』『南海通記』といった二次史料の記述に裏付けを与えるものになるということが挙げられています。
 しかし、ことはそんな単純なものではあません。なぜなら、それらは史実に基づいてはいても、必ずしも真実を伝えているとは限らないからです。すなわちそれは、それぞれの作者が独自のフィルターを持っているからです。

 例えばもっとも成立の古い『元親記』は、長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が、元親の三十三回忌に当たる寛永8年(1631)に著したものですが、そこには「今は亡き主君への思い」といったフィルターが掛けられている可能性を否めません。無意識のうちに、亡君に都合のいいように記憶が改竄されていることも考えられます。

 今回の「石谷家文書」では、天正10年(1582) 5月21日付の元親書状で阿波の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から退去したことが記されていますが、『元親記』では織田信孝の四国討伐軍に先駆け勝瑞城に先着した三好康長によって攻撃され奪われたと記されています。
 一見すれば後者の記述は長宗我部氏側の敗北であり屈辱的ですが、前者はいわば譲歩という「弱気」の現れであり不名誉なことでもあり、むしろ最後まで抵抗したとするほうが亡君の名誉を守るものであったと言えます。
 そのようにみれば『元親記』の他の記述にも同様のことが考えられ、特に長宗我部氏が反発したとされる信長の四国政策の転換である土佐と阿波半国の領有しか認めないという命令も、実は同じ元親書状で海部・大西城の所有を求めていることの摩り替えかも知れません。

 今回の「石谷家文書」の発見は、言われているような二次史料の記述に裏付けになるものと言うより、むしろ再検討を促す切欠になるのではないでしょうか。



※下記に5月21日付元親書状の全文(書き取り)が紹介されていますのでご参照ください。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20140722

新出「石谷家文書」の疑問

2014-07-20 18:40:25 | 信長
 去る7月19日から岡山市の林原美術館で、話題の「石谷家(いしがいけ)文書」が公開されています。

 なかでもとり分け注目されているのが天正10年5月21日付の長宗我部元親から斎藤利三への書状であり、それまで信長の四国政策の転換に反発していた元親が、一転して恭順の意を示し戦闘を避けようとしていたことが窺える史料であるとされます。
 ただしそうした見方に対し、それを一種の条件闘争の表れとする意見もあります(高知大学の津野倫明教授、歴史研究家の桐野作人さん、など)。

 しかしそれらを含め、同書状には不審な点があります。
 それは5月21日という日付です。

 未だ全文の内容を知り得ていない状況下ではありますが、伝えられるところの「武田氏征伐から信長が帰ったら指示に従いたい」という内容は、その丁度1ケ月前、既に信長が安土に帰城していることからも時差があり過ぎ、また更に遡って3月初頭には武田氏も滅んでおり、条件提示としても全く政治的情勢に疎いものであると言わざるを得ません。
 信長が武田氏征伐を発令したのは2月9日、実際に出陣したのは3月5日であり、当然そうした状況は長宗我部氏側にも齋藤氏から伝えられていはずではないでしょうか。

 同書状が偽文書でないとすれば、考えられる日付はもっと早い時期のものであるはずです。

NHK「歴史ヒストリア」で取り上げられた『兼見卿記』の書き換え問題

2014-07-13 04:31:58 | 本能寺の変 431年目の真実
 07/10に放送されたNHKの歴史ヒストリア「本能寺の変 犯人はオマエだ!ヒストリア探偵VS.戦国最大の未解決事件」で、『兼見卿記』天正十年の書き換え問題が取り上げられていました。

 番組にも出演されていた金子拓さんの著書『記憶の歴史学 - 史料に見る戦国 - 』・講談社選書メチエ (2011/12/10)で、それまで別本と呼ばれていたもの(天正十年の正月から六月十二日まで)が、実は天正九年の日記の余白に記されたものであったことを知っていましたが、今回、改めて問題部分を目にすることができました。そのうえで、以前からの疑問が確信に変わった点があります。
 それは、別本が六月十二日までなのは紙切れによるものであり、偶然であったという説明への疑問です。

 金子さんの著書を読んだ時点で余りに出来すぎではないかと思っていたのですが、番組で紹介された映像を視るとまだ一日分は書けそうですから、兼見は、光秀の敗報を受け一旦筆を止めたというのが真相ではないでしょうか。そのうえで、改めて新冊に六月十三日からを記したと考えるのが自然な流れだと思います。

 さらに金子さんの説明で疑問に思われるのは、正本は後日、天正九年の日記に書かれていた六月十二日までの分と合わせて浄書されたものであり、別本は天正九年の日記に書かれていたので残ったが、本来の六月十三日からの日記はそのまま破棄されたという点です。 素直に考えれば、一年分の日記を書き直すより、六月十二日までの分を綴じ直すか、書き加えたほうが労は少なかったはずです。

 現存する『兼見卿記』は写本なので検証のしようもないのですが、おそらくは後者であり、穿った見方をすれば、兼見も新冊には初めからその為の余白を残していたのではないでしょうか。
 そう思うのは、もし新冊の頭から六月十三日を記したとすると、結局は後半に半年分の余白が残ってしまうことと、翌十四日に兼見が織田信孝の使者と称する津田越前入道からの追求を受けている点です。

 兼見は、直ちに秀吉に取り成しを求め信孝より「お構いなし」の折紙を得ていますが、その間の奔走をみると、日記が再開されたのはそのあとのことと考えられます。慌てて日記を書き換える必要には迫られていなかったでしょうが、十二日までの分を書き加える際、少しでも光秀との関わりを薄めようという意識は働いていたかも知れません。

 番組でこの問題が取り上げられたことで、早速、明智憲三郎さんが金子さんに噛み付かれています。

 明智さんは、金子さんが
  桐野作人氏や藤田達生氏が朝廷黒幕説・朝廷関与説の証拠としてこの書き換えを用いたことを否定したいがために
  金子准教授は強引に論理を組み立てて答を作ってしまったのではないでしょうか。

と述べられていますか、朝廷黒幕説の元祖ともいうべき桐野さんがそれを撤回し、同じく立花京子さんもイエズス会黒幕説に転向されて久しく、テレビドラマや小説ならいざ知らず、いまどきまともな研究者で「朝廷黒幕説・朝廷関与説」などを主張されている方などおらず、浅薄の謗りも甚だしいと言わざるをえません。

 また明智さんは、書き換えが六月十三日の光秀敗報を聞いて直ちに行われたかもしれないと述べられていますが、先にも述べたように、兼見が書き換えに迫られていたとは考えられませんし、ましてやわざわざ変とは関係ない部分まで改変(しかもより多く)して隠蔽工作を図る余裕もなかったでしょう。

 そのうえ明智さんは、
  兼見には別本を積極的に残さねばならない理由があった。それは別本が天正九年の日記帳に続けて書かれている
  からだ。別本を処分するためには天正九年分も新たに書き直さねばならなかったのだ。

とも述べられていますか、単純に考えればその部分だけを白紙に差し替えれば済む話です。

 ようするに明智さんの思考は、陰謀論に特有の思い込みから来る狭視眼に陥っていると言わざるをえません。