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『信長考記』

織田信長について考える。

「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察④

2014-09-20 14:05:00 | 本能寺の変 431年目の真実
(承前)
天正9年(1581)6月、元親の実弟・香曽我部親康に対し信長は、阿波での三好式部少輔との協力(降伏?)を認め、引き続きその平定に当たることを命じており(同12日付朱印状「香曽我部家伝証文」・『信長文書』928号)、三好康長からもそれに対する添状(同14日「古証文・七」・前同)が送られています。
康長が副状を添えているのは、先述の松井友閑の書状にもあるように、信長より命じられた阿波・讃岐平定の担当者であったからです。

元親とすれば式部少輔を介しての阿波支配を認めてほしかった処でしょうが、康長の書状には、
  随って同名式部少輔の事、一円若輩に候、殊更近年忩劇に就きて、無力の仕立て候条、諸事御指南希う所に候、
  弥御肝煎我等においても珍重たるべく候、

  (同族の式部少輔は全くもって若輩者であり、ことさら近年は騒動の渦中にあり、力を発揮できていませんので、
  諸事にご指南を願います。ますますのお世話を頂き私も嬉しく思います。)
とあり、あえて式部少輔の後見を求めることで元親の阿波進出に釘を刺したものと見られます。

とは言え、阿波における長宗我部氏の影響力が認められたであろうことも確かであり、このときに実質的な支配下にあった南郡半国の領有が黙認されたと考えられるのではないでしょうか。

しかしながら先に元親は阿波・讃岐平定の意欲を示しており(天正8年11月24日付「羽柴秀吉宛書状」)、不満の残る通達であったであろうことは想像に難くありません。
そしてその後、何らかの齟齬が生じ、その阿波南郡半国からも退去せよとの命が下ったのではないでしょうか。

通説ではそのころより長宗我部氏が毛利氏との接近を図り、織田方との関係が急速に悪化していったと考えられています。

「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察③

2014-09-11 05:30:45 | 本能寺の変 431年目の真実
(承前)
元親にとって気がかりなこと、それは三好康長の四国渡海です。

天正8年(1580)11月24日付「羽柴秀吉宛 長宗我部元親書状」には、次のことが記されてます。
  一、阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走可詢粉骨念願計候。
    (阿波・讃岐の平定がなりましたら、不肖の身ですが西国表への出兵の際には、最大限の協力を致します。)
  一、三好山城守近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、
    (三好康長が近日、讃岐の安富氏の館に下り、やがて阿波に入るものと思われます。詳しくは使者が説明します。)
元親は秀吉に阿波・讃岐平定の意欲を陳べる一方で、近々、康長が四国へ渡海するするであろうことを伝えています。

康長の渡海については、奇しくもその前日付けで堺の代官である松井友閑が「秀吉宛書状」にも見られる安富筑後守・同又次郎に宛てた書状があり(「志岐家旧蔵文書」)、
  その阿・讃の儀、三好山城守にいよいよ仰せつけられ候、その刻み、御人数一廉相副えられ、
  即時に両国残らず一着候様に仰せつけられるべく候

  (阿波・讃岐の平定については三好康長が任されました。その際には精鋭の兵を従軍させ、
  即時に両国ともに平定するように申し渡されるでしょう。)
と、康長が信長より阿波・讃岐の平定を命じられた旨が述べられています。

信長は元親の阿波・讃岐の平定が覚束ないとみて康長に四国渡海を命じたと考えられますが、四国制覇を目指す元親にとって危惧すべき出来事であったことは言うまでもありません。
翌9年6月、その元親方に信長からの朱印状と康長の添状が届けられます。

それこそがまさに、『元親記』にいう「阿波南郡半国、本国に相添へ遣はさるべし」であったと考えられます。




NHK「歴史ヒストリア」で取り上げられた『兼見卿記』の書き換え問題

2014-07-13 04:31:58 | 本能寺の変 431年目の真実
 07/10に放送されたNHKの歴史ヒストリア「本能寺の変 犯人はオマエだ!ヒストリア探偵VS.戦国最大の未解決事件」で、『兼見卿記』天正十年の書き換え問題が取り上げられていました。

 番組にも出演されていた金子拓さんの著書『記憶の歴史学 - 史料に見る戦国 - 』・講談社選書メチエ (2011/12/10)で、それまで別本と呼ばれていたもの(天正十年の正月から六月十二日まで)が、実は天正九年の日記の余白に記されたものであったことを知っていましたが、今回、改めて問題部分を目にすることができました。そのうえで、以前からの疑問が確信に変わった点があります。
 それは、別本が六月十二日までなのは紙切れによるものであり、偶然であったという説明への疑問です。

 金子さんの著書を読んだ時点で余りに出来すぎではないかと思っていたのですが、番組で紹介された映像を視るとまだ一日分は書けそうですから、兼見は、光秀の敗報を受け一旦筆を止めたというのが真相ではないでしょうか。そのうえで、改めて新冊に六月十三日からを記したと考えるのが自然な流れだと思います。

 さらに金子さんの説明で疑問に思われるのは、正本は後日、天正九年の日記に書かれていた六月十二日までの分と合わせて浄書されたものであり、別本は天正九年の日記に書かれていたので残ったが、本来の六月十三日からの日記はそのまま破棄されたという点です。 素直に考えれば、一年分の日記を書き直すより、六月十二日までの分を綴じ直すか、書き加えたほうが労は少なかったはずです。

 現存する『兼見卿記』は写本なので検証のしようもないのですが、おそらくは後者であり、穿った見方をすれば、兼見も新冊には初めからその為の余白を残していたのではないでしょうか。
 そう思うのは、もし新冊の頭から六月十三日を記したとすると、結局は後半に半年分の余白が残ってしまうことと、翌十四日に兼見が織田信孝の使者と称する津田越前入道からの追求を受けている点です。

 兼見は、直ちに秀吉に取り成しを求め信孝より「お構いなし」の折紙を得ていますが、その間の奔走をみると、日記が再開されたのはそのあとのことと考えられます。慌てて日記を書き換える必要には迫られていなかったでしょうが、十二日までの分を書き加える際、少しでも光秀との関わりを薄めようという意識は働いていたかも知れません。

 番組でこの問題が取り上げられたことで、早速、明智憲三郎さんが金子さんに噛み付かれています。

 明智さんは、金子さんが
  桐野作人氏や藤田達生氏が朝廷黒幕説・朝廷関与説の証拠としてこの書き換えを用いたことを否定したいがために
  金子准教授は強引に論理を組み立てて答を作ってしまったのではないでしょうか。

と述べられていますか、朝廷黒幕説の元祖ともいうべき桐野さんがそれを撤回し、同じく立花京子さんもイエズス会黒幕説に転向されて久しく、テレビドラマや小説ならいざ知らず、いまどきまともな研究者で「朝廷黒幕説・朝廷関与説」などを主張されている方などおらず、浅薄の謗りも甚だしいと言わざるをえません。

 また明智さんは、書き換えが六月十三日の光秀敗報を聞いて直ちに行われたかもしれないと述べられていますが、先にも述べたように、兼見が書き換えに迫られていたとは考えられませんし、ましてやわざわざ変とは関係ない部分まで改変(しかもより多く)して隠蔽工作を図る余裕もなかったでしょう。

 そのうえ明智さんは、
  兼見には別本を積極的に残さねばならない理由があった。それは別本が天正九年の日記帳に続けて書かれている
  からだ。別本を処分するためには天正九年分も新たに書き直さねばならなかったのだ。

とも述べられていますか、単純に考えればその部分だけを白紙に差し替えれば済む話です。

 ようするに明智さんの思考は、陰謀論に特有の思い込みから来る狭視眼に陥っていると言わざるをえません。

『フロイス・日本史』の「唐入り」は真実か 第六章(p127~140)

2014-03-14 08:17:42 | 本能寺の変 431年目の真実
 秀吉の「唐入り」について明智憲三郎氏は、ルイス・フロイスの『日本史』の
  彼が強く望んでいるのは、彼が恐れており、将来なんらかの支障をもたらすかも知れぬすべての諸侯なり
  高位者を、日本から放逐し、それを実現した暁には、日本の諸国をほしいままに自らの家臣、友人、
  その他の己れが欲する者に分与することであった

という記述を紹介し、「秀吉は信長のアイデアを真似て実現しようとしたのだ。」と述べられています。

 しかし、客観的にみて信長の真似といえるのは「唐入り」の意思の継承であり、その意図まで同じであったというのは憲三郎氏の思い込み以外の何者でもありません。しかもその秀吉の「唐入り」ですら、実はフロイスのそれと日本側の記録とでは大きく異なっています。

 秀吉が最初に「唐入り」の意思を表明したのは天正十三年(1585)九月の関白就任直後のことでしたが※、実行に移された天正二十年(1592)の五月十八日付けで養子の関白・秀次へ送った宛朱印状でその構想を明らかにしています。
 いわゆる「三国国割構想」と呼ばれるものであり詳細は略しますが、注目すべきは秀吉自らが大陸(※寧波)に居することを表明しており、後継者である秀次もまた北京へと移すことが記されています。
 すなわちそれは積極的な「大陸進出構想」とも呼ぶべきものであり、フロイスの言うような “邪魔者を追放する” といった姑息な考えとは大きく異なっています。どちらを信ずるべきかは言うまでもないでしょう。

 『日本史』のそれは、「唐入り」の失敗を踏まえ、ともすれば誇大妄想とも言うべき秀吉の構想を皮肉り矮小化したフロイスの主観的記述であったと考えられます。


※一柳市介への書状

信長と秀吉は同一人格か 第六章(p127~140)

2014-03-10 06:37:55 | 本能寺の変 431年目の真実
  本章で、明智憲三郎氏の考えられている謀反の真の理由が “やがて一族が海外へと追われ滅亡する” との危機感からであることが明らかになった訳ですが、その論拠とも言うべき「唐入り」については、憲三郎氏の認識に根本的な誤りがあると言わざるを得ません。
 なぜなら、憲三郎氏の考えられている信長の「唐入り」は秀吉の「唐入り」からの類推ですが、信長と秀吉ではその生い立ちからして異なれば全国平定への経緯も異なり、家族構成も異なります。当然、人格も異なっていました。
 だとすれば、「唐入り」に対する理念も自ずと異なっていたと考えるべきであり、秀吉のそれをそのまま信長に当てはめて考えるのは極めて問題があると言わざるを得ません。

 そもそも信長の「唐入り」も、信長がそうした構想を持っていたことは確かでしょう。しかし、それがどこまで実行性をもっていたかは疑問でかあり、単なる願望であったとも考えられます。当時、信長と接触していたイエズス会は中国での布教を目論んでいましたから、信長もそれを念頭にそうした発言をした可能性もあります。

 その肝心の信長の発言内容ですが、ルイス・フロイスの『日本年報追信』(1582/11/5付)には
  毛利(氏)を征服し終えて日本の全六十六ヶ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため
  一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた

とあります。後者については、それを日本の国土と見るか明の国土と見るか議論の余地はありますが、結局、語られているのはそれだけのことであり、それ以上の何者でもありません。
 それを憲三郎氏の言われるような「織田家の長期政権構想」として見るのは、信長と秀吉を同一人格と見做した解釈である言わざるを得ません。

 そしてそれ以上に、憲三郎氏は秀吉の「唐入り」ですら正しく理解していないのではないかと思われます。

「一族の滅亡」は予見できたか 第六章(p127~140)

2014-02-25 19:10:18 | 本能寺の変 431年目の真実
 前章まで事あるごとに謀反の理由として「一族の滅亡」を強調してきた明智憲三郎氏ですが、本章では
  よく考えてみれば長宗我部氏滅亡が光秀の「一族の滅亡」に直結するわけではないのだ
と、「四国問題」が切欠でしかなかったことを認めています。
 つまりそれだけでは謀反の理由としては弱いということであり、もし他に理由となる出来事がなければ光秀は長宗我部氏の滅亡を容認していた、せざるを得なかったであろうということになるのではないでしょうか。それはすなわち、前章で述べた「長宗我部氏も土岐一族」という主張に反し、自ら「土岐一揆」なるもの限界を示されたことに他ありません。
  動機としては弱い「四国問題」に代わり憲三郎氏が次に提示されたのは「織田家の長期政権構想」です。

 その憲三郎氏言うところの「織田家の長期政権構想」ですが、一つは谷口克弘氏が指摘された「近国掌握構想」※であり、多くの研究者が、いずれ信長は安土から大坂へ移転していたであろうと口を揃えて述べるなか、前段階として、近江近国に近習たちを配しての直轄支配を進めたであろうことを指摘されています。
 憲三郎氏はそれに加え、織田家一門による安土・京を中心とした領国支配を指摘し、
  これは信長が織田家の氏族長として、自分亡き後の織田家の安泰をどう図るかを
  周到に考えた末に決断されたものだったに違いない。

と述べられています。

 そして憲三郎氏が指摘する「織田家の長期政権構想」のもう一つが「唐入り」であり、氏はそれを「近国掌握構想」の延長として捉え、やがて不足するであろう恩賞の確保とともに、有力武将を海外へと送り出し国内での謀反の芽を摘む狙いがあったとされています。
  憲三郎氏の主張される謀反の真の理由とは、やがて一族が海外へと追われ滅亡するとの危機感から起こしたのだということになります。

 しかし憲三郎氏のその主張には、根本的な誤りがあると言わざるを得ません。



 ※谷口克弘・著『信長の親衛隊』中公新書(1998/12)

長宗我部氏は運命共同体か 第五章(p113~126)

2014-02-22 12:39:08 | 本能寺の変 431年目の真実
本能寺の変はなぜ起きたのか。光秀の謀反の理由を「土岐氏再興」だとする明智憲三郎氏も、結局はその動機に「四国問題」を挙げています。

 「四国問題」は、かつて高柳光寿氏がその著書『明智光秀』・吉川弘文館(1958年)で指摘され、数々の変遷を経て再び注目を浴びるようになった謀反の理由のひとつですが、憲三郎氏は従来のそれを「三面記事史観」と批判しています。
 その言い分は、他の研究者のがそれを「光秀の面子を潰す」問題であったとしているがその実態は一族郎党にまで及ぶ問題であり、「一族が滅亡する」とまで思いつめるような危機であったと述べています。はたしてその指摘は妥当でしょうか。

 確かに高柳氏のそれは「四国問題」を単純に光秀の出世に関わる問題として採り上げていますが、最近のそれは家臣である斎藤利三やその兄・石谷頼辰と長宗我部氏とその家臣である蜷川親長らの重層的な姻戚関係に注目し、彼らの反発があったであろうことを指摘しています。単純に光秀の「面子云々」を問題としている訳ではありません。憲三郎氏の批判は、そうした事実を隠蔽した不適切なものだと言わざるを得ません。
 その上で憲三郎氏が主張されるのは、光秀に長宗我部氏を運命共同体とまでみなす意識があったということです。

 憲三郎氏はそれを畿内・四国同盟と呼び、石谷氏を介して「長宗我部氏も土岐一族」という意識を持っていたとし、織田家中での脆弱な立場を支えるものと期待していたと言われています。しかし、それには疑問があります。
 はたして家中でそのような一大勢力を築くことを信長が良しとしたでしょうか。またそのことに光秀が思い及ばなかったと言われるのでしょうか。おそらく光秀も、信長が長宗我部氏に「四国の儀」を許したのが当時、敵対していた三好氏への対症的なものであり、いつ覆されるか分からないことを理解していたはずです。
 ただ実際に姻戚関係にある斎藤利三や石谷頼辰にしてみれば、やるかたない思いであったであろうことは想像に難くなく、光秀の決意に賛同する要因にもなったのではないでしょうか。

 実は憲三郎氏も、「四国問題」は切欠でしかなかったことを次章で認めています。

「愛宕百韻」は「土岐氏再興」祈願の連歌か 第四章(p93~)

2014-02-14 06:47:24 | 本能寺の変 431年目の真実
 ここで改めて、「愛宕百韻」に対する明智憲三郎氏の見解について検証したいと思います。

 まず、「愛宕百韻」にまつわる問題として客観的見地から指摘できるのは以下の点です。

① 「愛宕百韻」での光秀の発句に最初に注目したのは、秀吉が御伽衆であった大村由己に著させた『惟任退治記』である。
② 指摘されているのは「謀反の先兆」ということであり、光秀の出自に纏わる「土岐氏云々」にまでは言及されていない。
③ 当時、光秀自身が土岐氏であることを主張していたと確実に立証できる史料は無い
④ 太田牛一の『信長(公)記』を始め、当時の人々は謀反の理由を光秀の野心や恨みから起こされたものと考え、
  信じていた。
⑤ 同時代の人々は、光秀がかつて細川藤孝の家臣であったと認識していた。
⑥ 光秀の詠んだ発句に土岐氏を絡めた解釈を最初に明記したのは『明智軍記』だと見られる。
⑦ 当初、広められた「愛宕百韻」の発句、脇区、三句は、語句の一部が改変あるいは誤伝されていると見られる。
⑧ 愛宕山西之坊威徳院住職の行祐の詠んだ脇句は、発句の光秀や三句の紹巴らも参加した前年の連歌会で
   細川藤孝の詠んだ句に擬えたものと見られる。

 ①については憲三郎氏も指摘されるところで異論はありません。問題はそれ以降にあります。

 次の②ですが、それについては憲三郎氏も認めるものの「当時の人々にはそれで十分意味が通じると判断したからである。」としているのは、次の③からは疑問であり、それに伴い謀反の理由を「土岐氏再興」に求めた氏の解釈も④からは疑問であり、⑥を史実として直視すべきだと言えます。
 当時の人々にとって光秀は⑤の藤孝の旧臣という認識が一般的で、「土岐氏の盟主」として見ていたような形跡はなく、あくまで謀反は光秀個人の理由によって起こされたというのが一般的な認識であったと言えます。
 その上で光秀の発句に土岐氏をからめた解釈は、一次史料では不明である美濃時代の光秀の経歴に言及している『明智軍記』こそが初見であり、
同書が数々の「光秀伝説」の淵源となっていることは憲三郎氏も認める定説であることからも、光秀の発句についても同様であったと考えられます。

 次に⑦の問題については、意図的に改変されたものか添削されたものか俄かに判断し難いところがありますが、上記の点からも、「土岐氏再興」の絡みがその理由にあったとは考えられません。その際、注目すべきは⑧の点であり、光秀の句に疑惑を掛けることで藤孝にまで累が及ぶことを慮り改変されたのではないでしょうか。
 藤孝にとって光秀は、息子の嫁の父とはいえ元家臣。それに対し藤孝の出自は足利将軍家に繋がる家柄であり、ことさら「土岐氏再興」を願うべき理由があったとは考えられません。
 光秀の子孫を称する憲三郎氏にすれば、謀反が光秀個人や親族、家中の問題から起こされたとするよりは、より大きな「土岐一族」の窮状を憂い再興を目指したと思われたいのでしょうが、少なくとも「愛宕百韻」の解釈にそれを求めるのは無理があると言わざるを得ません。

 現代の「犯罪捜査規範」において事件関係者が捜査から外されるのは、そうした「思い込み」により捜査が進められることを忌避するからです。

「愛宕百韻」の改竄は細川孝隠しか 第四章(p93~)

2014-02-09 19:59:07 | 本能寺の変 431年目の真実
 「愛宕百韻」と言えばとかく光秀の発句が注目されていますが、実は西之坊威徳院住職の行祐の詠んだ脇句こそ注目すべきだと言えます。何故なら、まさにそれは細川藤孝の代返だと考えられるからです。

 本能寺の変の前年天正九年(1951)の四月、光秀は連歌師の紹巴、堺の津田宗及らとともに丹後宮津の藤孝を訪ね、同十二日、天橋立に遊び連歌を詠んでいます。
 発句の光秀に続いたのは藤孝であり、
  夏山うつす水の見なかミ
と詠んでいます。※
 それに対し「愛宕百韻」で行祐の詠んだ脇句は『信長(公)記』によれば
  水上まさる庭のまつ山
と、先の藤孝の句の頭と終わりを入れ替え擬えたものと見ることができます。しかも、後者の「まつ山」は本来「夏山」であったことを明智憲三郎氏も指摘されていますからなおさらです。
 では何故、行祐は藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのでしょうか。そこに、藤孝と愛宕山の緊密な関係が指摘できます。

 天正九年の四月に丹後宮津への遊覧に向かう光秀一行は、同十日に福知山で明智秀満の接待を受けると、翌日にはその道すがら愛宕山下坊福寿院住職の幸朝の接待を受けています。しかもそれは、茶屋を建て、鮎や鯉、鮒の泳ぐ池を造営した本格的な接待であったことが窺えますが、愛宕山から遠く離れた彼の地で何故、幸朝は光秀一行を接待したのでしょうか。
 実は、翌十年の三月に藤孝の三男・幸隆がその福寿院に入門しています。そのことから考えると、藤孝と愛宕山との間には早くから通じるところがあり、幸朝の接待には細川氏サイドの意向が働いていたのではないかと思われます。
 そこで「愛宕百韻」ですが、実際に出陣する忠興はともかく留守を預かる藤孝は、本来「愛宕百韻」(と呼ばれる戦勝祈願)に参加する予定であったのではないでしょうか。しかし、光秀に中国出陣が命じられた直後、藤孝の母が死去しています※。それにより藤孝は喪に服すこととなり参加を見合わせ、代わって亭主である西之坊の行祐がその意を汲み、藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのではないでしょうか。

 その上で『惟任退治記』にはひとつの疑問があります。それは、同書が「愛宕百韻」の光秀の発句のみを掲載し脇句と第三句を省いていることです。本来、連歌のルールからすればそれらはセットとして扱うべきべきものであり、『退治記』も「信長追善の連歌」は三句とも掲載しています。
 秀吉にしてみれば必要なのは「光秀の句」だけですから不思議は無いのかも知れませんが、当然、牛一も『信長(公)記』には脇句と第三句も掲載しており、小瀬甫庵もそれを踏襲しています。ただ違うのは、甫庵が『退治記』に倣い光秀の句への疑惑を記しているのに対し、牛一がそれに触れていないことです。牛一自身は光秀の句に疑惑を持たなかったのでしょうか。
 しかし以前も述べたように、牛一は謀反の理由に「光秀の野心」を考えていました。

 考えるに、藤孝の句に擬えらた脇句を掲載したうえでそのことを記した場合、藤孝にも疑惑の目が向けられることを慮ったのではないでしょうか。
 「愛宕百韻」の写本間の語句に差異が見られるのも、そうした事情を背景に牛一自身もしくは彼にそれを伝えた人物が差し替えたのではないかと思われます。


※『宗及他会記』
※『綿公輯録』 五月十九日

信長追善の連歌は行われたのか 第四章(p93~)

2014-02-04 07:04:22 | 本能寺の変 431年目の真実
 そもそも『惟任退治記』は、山崎の戦いで光秀を打ち破り、清洲会議を経て天正十年(1582)十月の大徳寺での盛大な信長の法要で信長の後継者としての立場を世間に知らしめた秀吉が、自身の功績を誇示する為に御伽衆の大村由己に著させたものですが、上梓されたのが天正十年の十月二十五日と、最も早く本能寺の変の詳細についてまとめ記した文献だと言えます。

 有名な「愛宕百韻」での光秀の句に最初に注目したのがおそらく同書であった考えられますが、その後半部分で強調されているのが、細川藤孝の忠義です。
 光秀については信長の恩を忘れ謀反を起こしたことは天罰に値し、変から十三日後に首を刎ねられたのは因果歴然であるとする一方で、細川藤孝(長岡兵部大輔)については、信長の恩の深さを忘れず光秀には組せず秀吉に味方し、清洲会議に際しても奔走し、信長追善の連歌を興行し人々の涙を誘ったと記されています。

 その追善連歌については『綿公輯録』のそれが詳しく、信長の命日から四十九日に当たる天正十年の七月二十日に上洛した藤孝は、自ら費用を負担し本能寺の焼け跡に仮屋を設け、門跡、公武、僧俗の差別なくこれに連なったとされます。
 実はそれこそが問題であり、小瀬甫庵の『太閤記』にも記されているその追善連歌ですが、当時の日記等には一切記録されていないのです。『兼見卿記』によれば、それまで在京していた藤孝は同日に丹後へ帰国したあります。一体どういうことでしょうか。※
 それについては当時の状況に注目すべき点があります。

 それは何か。秀吉による変への関与の詮議が行われていたということです。※
 すなわち、『惟任退治記』はその詮議を踏まえ本能寺の変についての公式事件記録として著されたものであり、意図するところは、偏に謀反は光秀の個人的動機から起こされたものであり、藤孝を含め他に関与した者はいないという事です。
 追善連歌の記事は、それを世間に喧伝するために創作された「公然の嘘」であったと考えられます。


※『大日本史料』でも疑問とし盂蘭盆である十五日の興行かとしていますが、やはり確認できません。
※誠仁親王の義弟である万里小路充房の美濃下向騒動もその一環ではないかと考えられます。

光秀は「土岐氏の盟主氏」か 第四章(p93~)

2014-02-02 07:24:15 | 本能寺の変 431年目の真実
 光秀の子孫を称する著者の明智憲三郎氏にとって最大の命題は「祖先の汚名を晴らすこと」
 そのことが最も端的に表されているのがこの章です。

 光秀が謀反に踏み切った理由として憲三郎氏は、
   光秀には、間違いなく守らなければならない多くの生命や幸せがありそれを守り抜こうとして悩み、
   考えた末に決断したのだ。それが戦国の世の氏族長の誰しもが背負っていた責任だった。

と述べています。その理論はある意味では正しいものの、はたして「氏族長」とは何でしょうか。「家長」とは何が違うのでしょうか。
 そのうえで憲三郎氏によれば、光秀は「土岐氏の盟主」として見られていたとのことですが、はたして何を根拠にそう言えるのでしょうか。

 そもそも、光秀と土岐氏の関係を示す同時代の史料には『立入左京亮入道隆佐記』があり、
  美濃國住人ときの隨分衆也。明智十兵衛尉。
と記されています。そして「隨分衆」とあることから、土岐氏の中でも有力な家柄の出であると考えられてきました。
 しかし筆者の立入宗継がどこまで確証を持っていたかには疑問があります。※

 と言うのも、実際に光秀自身が土岐氏を主張したとする史料はなく、同時代の他の証言※がことごとく「細川藤孝の家臣」であったとしているからです。その点からすれば宗継のそれも「美濃の土岐氏の一族である明智を称する男」程度の認識とみるべきではないでしょうか。※
 なおかつ、当時、土岐氏には美濃を追われ放浪していた土岐頼芸という歴とした宗家筋の人物がおり、その彼に何ら手を差し伸べることのなかった光秀に、人々が「土岐氏の盟主」のような目を向けていたとは到底考えられません

 憲三郎氏は、『惟任退治記』が「愛宕百韻」の光秀の句に対し土岐氏云々の説明をしていないのは、「当時の人々にはそれで十分意味が通じると判断したからである。」と説明されていますが、その傍証としているのがまさに頼芸の境遇と「愛宕百韻」の解釈なのですから、まったく以ってまともな論証にはなっていないと言わざるを得ません。
 そしてなにより『信長(公)記』には、変の前日である六月一日の夜、光秀が謀反を企て重臣たちと談合したとして
  信長を討ち果し、天下の主となるべき調儀を究め、
と記されていることからも、当時の人々が光秀の謀反をそうした目で見ていたことが窺えます。

 しかも、元禄九年(1696)に平戸藩主の松浦鎮信が編纂した『武功雑記』からは、「光秀が細川藤孝の家臣であった」ということが本能寺の変から百年後にまで伝わっていたことが窺え※、そうした事実こそが『惟任退治記』が最も隠蔽したい事であったと考えられます。
 すなわち、如何に藤孝が光秀の謀反とは無関係であったかを喧伝する為に著されたのが『惟任退治記』であったと言えます。


※「明智氏一族宮城家相伝系図書」の正式表題も「清和源姓土岐家随一之連枝明智一族宮城家相伝系図書」であり、
  「明智」という苗字自体が土岐氏の「隨分衆」であることを物語っています。
※『多聞院日記』『フロイス日本史』『老人雑話』
※幕末に編纂された『校合雑記』にも同様なことが記されており、知識人の間においてはなおも連綿として伝わり続けていたと見られます。

光秀の過去はどこまでわかるか 第一部・第二章(p55~p76)

2014-01-27 17:09:36 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏による光秀の過去の経歴についての考察は、さすが子孫ということもあってか熱も入っており、傾聴すべき点も多いと思われます。

 光秀の経歴については長らく、美濃を離れた後、越前朝倉氏に仕え、将軍である足利義昭と信長に両属していたというのが定説となっていました。その一方で、従来より研究者の間では細川藤孝の家臣であったとする史料の存在も知られていましたが、あまり注目されてはきませんでした。
 今回、明智氏はその朝倉氏への仕官を否定するとともに、両属問題にもメスを入れられておられます。

 すなわち、藤孝の家臣であった光秀は、義昭の上洛に伴い欠員を補う意味で足軽として幕臣に取り立てられたものであり、その後は奉公衆として出世を重ねていき、元亀二年(1571)九月の叡山焼き討ち直後に信長の家臣に転じたというものです。
 そもそも、光秀が朝倉氏に仕えていたとするのは『明智軍記』の記述が初見とみられ、細川氏の正史である『綿考輯録』(『細川家記』)がそれを引き継ぎ発展させ定説化されたものであり、光秀の両属も『明智軍記』の記述に起因しています。
 細川氏にしてみれば、立場の逆転とも言うべき事実は不都合な真実であったのではないでしょうか。
 
 従来、光秀の両属問題については、ただ「ありうる」としておざなりにされてきた感がありますが、それに対し一歩踏み込んだ明智氏には敬意を表したいと思います。

謀反に特定の条件はあるか 第一部・第一章(p50~p53)

2014-01-26 07:05:08 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏は、謀反について
  謀反に失敗したら一族滅亡だ。その悲惨な事例はいくらでもある
とし、戦国武将が謀反に踏み切る条件として、
  ・ 一族滅亡の危機
  ・ 成功の目算が立つ
の二つを絶対条件として挙げられています。
 はたしてそうでしょうか?

 そもそも、信長ほど謀反・離反を起これたされた人物は他になく、家督継承直後の山口教継の離反に始まり、弟の信勝(信行は誤り)、異母兄の信広(※未遂)、義弟の浅井長政、松永久秀、波多野秀治、別所長治、荒木村重、そして足利義昭のそれも謀反と言えるでしょう その彼ら全てに「一族滅亡の危機」があったとは言えず、むしろ結果として一族滅亡を招いたとさえ言えます。

 なかでも注目すべきは荒木村重の謀反であり、噂を聞いた信長は、
  何篇の不足候哉、
と耳を疑ったとされますから(『信長(公)記』)、村重の謀反の理由に「一族滅亡の危機」などなかったのは明らかです。

 また、「成功の目算」については当然それぞれに考えていたでしょうが、どこまで具体的に計算=計画されていたかは推し量れるものではなく、それを明智氏の言われるような現代の企業経営における投資評価と同一視して議論するのは妥当だとは言えません。
 ましてや、光秀の「目算」がハズレ続きであったことは言うまでもなく、結果その行動が「無策であった。」と言われても仕方がないでしょう。

 要するに明智氏の挙げた二つ条件は、祖先である光秀の謀反を正当化、弁護する為の方便だと言わざるを得ません。

『明智軍記』は幕府公認か 第一部・第一章(p40~p44)

2014-01-13 13:04:19 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏は、今日の光秀の伝説を作った『明智軍記』の出版背景について
  幕府も何らかの理由で光秀の名誉回復を図りたかったのである。
と述べています。
 はたして本当にそうでしょうか。

 氏も取り上げている光秀の辞世の句は
  順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
というものですが、そのモデルではないかと考えられているのが
  五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤
という句であり、詠んだのは延宝二年(1674)から同九年(1681)にかけて起きた「越後騒動」で切腹した越後高田藩家老・小栗美作(享年五十五歳)です。
 「越後騒動」の詳細は省きますが、美作は将軍・家綱治世の下で無罪とされましたが、後を継ぎ将軍に就任した綱吉の再裁定により自害を命じられました。
 『明智軍記』の著者は不明とされますが、著者は何をもって光秀と美作を重ね合わせたのでしょうか。

 同書は元禄六年(1693)には成立していた考えられ、「越後騒動」から十年ほどのちのことであり、まだ人々にその記憶も残っていたのではないかと考えられます。『明智軍記』はいわば光秀の名誉回復を図るものですから、光秀に美作を重ね合わせるということは美作の名誉回復を図るということでもあり、それは即ち、将軍・綱吉への批判になります。
 「越後騒動」では、周囲の反対に耳を貸すことなく、綱吉は越後国高田藩を改易、そしてその親藩を減封や移封としています。もし『明智軍記』に何らかの意図が込められていたとすれば、幕府公認どころか幕政批判だと言うべきべきでしょう。

 そもそも、本能寺の変から百年以上経って幕府が光秀の名誉回復を図る必要性が不明であり、氏の主張は、家康と光秀の間に密約があったとする持論に引きづられた想像だと言わざるを得ません。

「乱丸」か「蘭丸」か 第一部・第一章(p36~p40)

2014-01-12 07:13:58 | 本能寺の変 431年目の真実
 明智憲三郎氏の『太閤記』についての見解には特に異論はありません。問題は「森蘭丸」の表記についてです。

 氏は信長の小姓であった森乱(丸)について、今日「蘭丸」の表記が一般的になっているのは『惟任退治記』が最初であり、
  美少年をイメージさせる蘭丸という字にして信長の男色を臭わせたのであろう。
と述べています。
 しかし、当時、男色が忌避されるものであったかといえば疑問であり、またその存在がクローズアップされるようになったのは江戸時代になってからであり、氏の指摘は全く的を射ておりません。※

 なおかつ、今日伝わる『惟任退治記』のすべてが「蘭丸」と表記している訳ではなく、漢文体の同書を一般向けに仮名交じりに改めた『総見院追善記』に「森亂」とあることには注目されます。
 なぜなら、当時、彼を「らんまる」と呼ぶことはなく、史料に見られるのは「乱」「御乱」「乱法師」などであり、当然『惟任退治記』の現本も「もりらん」であったと考えられます。もし「(もり)らんまる」と記されていたら、その文献は後世の写本だと言えます。
 
 では『惟任退治記』の現本には「森蘭」と記されていたのでしょうか。その可能性は低いと思われます。
 と言うのも、『総見院追善記』を著したのは細川氏の関係者であり、なおかつその目的が杉原家次(秀吉の正室・寧々の叔父)の名誉を後世に残す為だとあります。
 彼らはまさに、明智憲三郎氏言うところの疑惑だらけの関係者であり、秀吉が『惟任退治記』を著させた意図もしっかり理解していたでしょうから、文字の間違いにも細心の注意を払ったことでしょう。

 氏には、捜査資料の洗い直しを願いたいものです。


谷口克弘『信長の親衛隊』中公新書 1998/12