『信長考記』

織田信長について考える。

「一族の滅亡」は予見できたか 第六章(p127~140)

2014-02-25 19:10:18 | 本能寺の変 431年目の真実
 前章まで事あるごとに謀反の理由として「一族の滅亡」を強調してきた明智憲三郎氏ですが、本章では
  よく考えてみれば長宗我部氏滅亡が光秀の「一族の滅亡」に直結するわけではないのだ
と、「四国問題」が切欠でしかなかったことを認めています。
 つまりそれだけでは謀反の理由としては弱いということであり、もし他に理由となる出来事がなければ光秀は長宗我部氏の滅亡を容認していた、せざるを得なかったであろうということになるのではないでしょうか。それはすなわち、前章で述べた「長宗我部氏も土岐一族」という主張に反し、自ら「土岐一揆」なるもの限界を示されたことに他ありません。
  動機としては弱い「四国問題」に代わり憲三郎氏が次に提示されたのは「織田家の長期政権構想」です。

 その憲三郎氏言うところの「織田家の長期政権構想」ですが、一つは谷口克弘氏が指摘された「近国掌握構想」※であり、多くの研究者が、いずれ信長は安土から大坂へ移転していたであろうと口を揃えて述べるなか、前段階として、近江近国に近習たちを配しての直轄支配を進めたであろうことを指摘されています。
 憲三郎氏はそれに加え、織田家一門による安土・京を中心とした領国支配を指摘し、
  これは信長が織田家の氏族長として、自分亡き後の織田家の安泰をどう図るかを
  周到に考えた末に決断されたものだったに違いない。

と述べられています。

 そして憲三郎氏が指摘する「織田家の長期政権構想」のもう一つが「唐入り」であり、氏はそれを「近国掌握構想」の延長として捉え、やがて不足するであろう恩賞の確保とともに、有力武将を海外へと送り出し国内での謀反の芽を摘む狙いがあったとされています。
  憲三郎氏の主張される謀反の真の理由とは、やがて一族が海外へと追われ滅亡するとの危機感から起こしたのだということになります。

 しかし憲三郎氏のその主張には、根本的な誤りがあると言わざるを得ません。



 ※谷口克弘・著『信長の親衛隊』中公新書(1998/12)

長宗我部氏は運命共同体か 第五章(p113~126)

2014-02-22 12:39:08 | 本能寺の変 431年目の真実
本能寺の変はなぜ起きたのか。光秀の謀反の理由を「土岐氏再興」だとする明智憲三郎氏も、結局はその動機に「四国問題」を挙げています。

 「四国問題」は、かつて高柳光寿氏がその著書『明智光秀』・吉川弘文館(1958年)で指摘され、数々の変遷を経て再び注目を浴びるようになった謀反の理由のひとつですが、憲三郎氏は従来のそれを「三面記事史観」と批判しています。
 その言い分は、他の研究者のがそれを「光秀の面子を潰す」問題であったとしているがその実態は一族郎党にまで及ぶ問題であり、「一族が滅亡する」とまで思いつめるような危機であったと述べています。はたしてその指摘は妥当でしょうか。

 確かに高柳氏のそれは「四国問題」を単純に光秀の出世に関わる問題として採り上げていますが、最近のそれは家臣である斎藤利三やその兄・石谷頼辰と長宗我部氏とその家臣である蜷川親長らの重層的な姻戚関係に注目し、彼らの反発があったであろうことを指摘しています。単純に光秀の「面子云々」を問題としている訳ではありません。憲三郎氏の批判は、そうした事実を隠蔽した不適切なものだと言わざるを得ません。
 その上で憲三郎氏が主張されるのは、光秀に長宗我部氏を運命共同体とまでみなす意識があったということです。

 憲三郎氏はそれを畿内・四国同盟と呼び、石谷氏を介して「長宗我部氏も土岐一族」という意識を持っていたとし、織田家中での脆弱な立場を支えるものと期待していたと言われています。しかし、それには疑問があります。
 はたして家中でそのような一大勢力を築くことを信長が良しとしたでしょうか。またそのことに光秀が思い及ばなかったと言われるのでしょうか。おそらく光秀も、信長が長宗我部氏に「四国の儀」を許したのが当時、敵対していた三好氏への対症的なものであり、いつ覆されるか分からないことを理解していたはずです。
 ただ実際に姻戚関係にある斎藤利三や石谷頼辰にしてみれば、やるかたない思いであったであろうことは想像に難くなく、光秀の決意に賛同する要因にもなったのではないでしょうか。

 実は憲三郎氏も、「四国問題」は切欠でしかなかったことを次章で認めています。

「愛宕百韻」は「土岐氏再興」祈願の連歌か 第四章(p93~)

2014-02-14 06:47:24 | 本能寺の変 431年目の真実
 ここで改めて、「愛宕百韻」に対する明智憲三郎氏の見解について検証したいと思います。

 まず、「愛宕百韻」にまつわる問題として客観的見地から指摘できるのは以下の点です。

① 「愛宕百韻」での光秀の発句に最初に注目したのは、秀吉が御伽衆であった大村由己に著させた『惟任退治記』である。
② 指摘されているのは「謀反の先兆」ということであり、光秀の出自に纏わる「土岐氏云々」にまでは言及されていない。
③ 当時、光秀自身が土岐氏であることを主張していたと確実に立証できる史料は無い
④ 太田牛一の『信長(公)記』を始め、当時の人々は謀反の理由を光秀の野心や恨みから起こされたものと考え、
  信じていた。
⑤ 同時代の人々は、光秀がかつて細川藤孝の家臣であったと認識していた。
⑥ 光秀の詠んだ発句に土岐氏を絡めた解釈を最初に明記したのは『明智軍記』だと見られる。
⑦ 当初、広められた「愛宕百韻」の発句、脇区、三句は、語句の一部が改変あるいは誤伝されていると見られる。
⑧ 愛宕山西之坊威徳院住職の行祐の詠んだ脇句は、発句の光秀や三句の紹巴らも参加した前年の連歌会で
   細川藤孝の詠んだ句に擬えたものと見られる。

 ①については憲三郎氏も指摘されるところで異論はありません。問題はそれ以降にあります。

 次の②ですが、それについては憲三郎氏も認めるものの「当時の人々にはそれで十分意味が通じると判断したからである。」としているのは、次の③からは疑問であり、それに伴い謀反の理由を「土岐氏再興」に求めた氏の解釈も④からは疑問であり、⑥を史実として直視すべきだと言えます。
 当時の人々にとって光秀は⑤の藤孝の旧臣という認識が一般的で、「土岐氏の盟主」として見ていたような形跡はなく、あくまで謀反は光秀個人の理由によって起こされたというのが一般的な認識であったと言えます。
 その上で光秀の発句に土岐氏をからめた解釈は、一次史料では不明である美濃時代の光秀の経歴に言及している『明智軍記』こそが初見であり、
同書が数々の「光秀伝説」の淵源となっていることは憲三郎氏も認める定説であることからも、光秀の発句についても同様であったと考えられます。

 次に⑦の問題については、意図的に改変されたものか添削されたものか俄かに判断し難いところがありますが、上記の点からも、「土岐氏再興」の絡みがその理由にあったとは考えられません。その際、注目すべきは⑧の点であり、光秀の句に疑惑を掛けることで藤孝にまで累が及ぶことを慮り改変されたのではないでしょうか。
 藤孝にとって光秀は、息子の嫁の父とはいえ元家臣。それに対し藤孝の出自は足利将軍家に繋がる家柄であり、ことさら「土岐氏再興」を願うべき理由があったとは考えられません。
 光秀の子孫を称する憲三郎氏にすれば、謀反が光秀個人や親族、家中の問題から起こされたとするよりは、より大きな「土岐一族」の窮状を憂い再興を目指したと思われたいのでしょうが、少なくとも「愛宕百韻」の解釈にそれを求めるのは無理があると言わざるを得ません。

 現代の「犯罪捜査規範」において事件関係者が捜査から外されるのは、そうした「思い込み」により捜査が進められることを忌避するからです。

「愛宕百韻」の改竄は細川孝隠しか 第四章(p93~)

2014-02-09 19:59:07 | 本能寺の変 431年目の真実
 「愛宕百韻」と言えばとかく光秀の発句が注目されていますが、実は西之坊威徳院住職の行祐の詠んだ脇句こそ注目すべきだと言えます。何故なら、まさにそれは細川藤孝の代返だと考えられるからです。

 本能寺の変の前年天正九年(1951)の四月、光秀は連歌師の紹巴、堺の津田宗及らとともに丹後宮津の藤孝を訪ね、同十二日、天橋立に遊び連歌を詠んでいます。
 発句の光秀に続いたのは藤孝であり、
  夏山うつす水の見なかミ
と詠んでいます。※
 それに対し「愛宕百韻」で行祐の詠んだ脇句は『信長(公)記』によれば
  水上まさる庭のまつ山
と、先の藤孝の句の頭と終わりを入れ替え擬えたものと見ることができます。しかも、後者の「まつ山」は本来「夏山」であったことを明智憲三郎氏も指摘されていますからなおさらです。
 では何故、行祐は藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのでしょうか。そこに、藤孝と愛宕山の緊密な関係が指摘できます。

 天正九年の四月に丹後宮津への遊覧に向かう光秀一行は、同十日に福知山で明智秀満の接待を受けると、翌日にはその道すがら愛宕山下坊福寿院住職の幸朝の接待を受けています。しかもそれは、茶屋を建て、鮎や鯉、鮒の泳ぐ池を造営した本格的な接待であったことが窺えますが、愛宕山から遠く離れた彼の地で何故、幸朝は光秀一行を接待したのでしょうか。
 実は、翌十年の三月に藤孝の三男・幸隆がその福寿院に入門しています。そのことから考えると、藤孝と愛宕山との間には早くから通じるところがあり、幸朝の接待には細川氏サイドの意向が働いていたのではないかと思われます。
 そこで「愛宕百韻」ですが、実際に出陣する忠興はともかく留守を預かる藤孝は、本来「愛宕百韻」(と呼ばれる戦勝祈願)に参加する予定であったのではないでしょうか。しかし、光秀に中国出陣が命じられた直後、藤孝の母が死去しています※。それにより藤孝は喪に服すこととなり参加を見合わせ、代わって亭主である西之坊の行祐がその意を汲み、藤孝の句に擬えた脇句を詠んだのではないでしょうか。

 その上で『惟任退治記』にはひとつの疑問があります。それは、同書が「愛宕百韻」の光秀の発句のみを掲載し脇句と第三句を省いていることです。本来、連歌のルールからすればそれらはセットとして扱うべきべきものであり、『退治記』も「信長追善の連歌」は三句とも掲載しています。
 秀吉にしてみれば必要なのは「光秀の句」だけですから不思議は無いのかも知れませんが、当然、牛一も『信長(公)記』には脇句と第三句も掲載しており、小瀬甫庵もそれを踏襲しています。ただ違うのは、甫庵が『退治記』に倣い光秀の句への疑惑を記しているのに対し、牛一がそれに触れていないことです。牛一自身は光秀の句に疑惑を持たなかったのでしょうか。
 しかし以前も述べたように、牛一は謀反の理由に「光秀の野心」を考えていました。

 考えるに、藤孝の句に擬えらた脇句を掲載したうえでそのことを記した場合、藤孝にも疑惑の目が向けられることを慮ったのではないでしょうか。
 「愛宕百韻」の写本間の語句に差異が見られるのも、そうした事情を背景に牛一自身もしくは彼にそれを伝えた人物が差し替えたのではないかと思われます。


※『宗及他会記』
※『綿公輯録』 五月十九日

信長追善の連歌は行われたのか 第四章(p93~)

2014-02-04 07:04:22 | 本能寺の変 431年目の真実
 そもそも『惟任退治記』は、山崎の戦いで光秀を打ち破り、清洲会議を経て天正十年(1582)十月の大徳寺での盛大な信長の法要で信長の後継者としての立場を世間に知らしめた秀吉が、自身の功績を誇示する為に御伽衆の大村由己に著させたものですが、上梓されたのが天正十年の十月二十五日と、最も早く本能寺の変の詳細についてまとめ記した文献だと言えます。

 有名な「愛宕百韻」での光秀の句に最初に注目したのがおそらく同書であった考えられますが、その後半部分で強調されているのが、細川藤孝の忠義です。
 光秀については信長の恩を忘れ謀反を起こしたことは天罰に値し、変から十三日後に首を刎ねられたのは因果歴然であるとする一方で、細川藤孝(長岡兵部大輔)については、信長の恩の深さを忘れず光秀には組せず秀吉に味方し、清洲会議に際しても奔走し、信長追善の連歌を興行し人々の涙を誘ったと記されています。

 その追善連歌については『綿公輯録』のそれが詳しく、信長の命日から四十九日に当たる天正十年の七月二十日に上洛した藤孝は、自ら費用を負担し本能寺の焼け跡に仮屋を設け、門跡、公武、僧俗の差別なくこれに連なったとされます。
 実はそれこそが問題であり、小瀬甫庵の『太閤記』にも記されているその追善連歌ですが、当時の日記等には一切記録されていないのです。『兼見卿記』によれば、それまで在京していた藤孝は同日に丹後へ帰国したあります。一体どういうことでしょうか。※
 それについては当時の状況に注目すべき点があります。

 それは何か。秀吉による変への関与の詮議が行われていたということです。※
 すなわち、『惟任退治記』はその詮議を踏まえ本能寺の変についての公式事件記録として著されたものであり、意図するところは、偏に謀反は光秀の個人的動機から起こされたものであり、藤孝を含め他に関与した者はいないという事です。
 追善連歌の記事は、それを世間に喧伝するために創作された「公然の嘘」であったと考えられます。


※『大日本史料』でも疑問とし盂蘭盆である十五日の興行かとしていますが、やはり確認できません。
※誠仁親王の義弟である万里小路充房の美濃下向騒動もその一環ではないかと考えられます。

光秀は「土岐氏の盟主氏」か 第四章(p93~)

2014-02-02 07:24:15 | 本能寺の変 431年目の真実
 光秀の子孫を称する著者の明智憲三郎氏にとって最大の命題は「祖先の汚名を晴らすこと」
 そのことが最も端的に表されているのがこの章です。

 光秀が謀反に踏み切った理由として憲三郎氏は、
   光秀には、間違いなく守らなければならない多くの生命や幸せがありそれを守り抜こうとして悩み、
   考えた末に決断したのだ。それが戦国の世の氏族長の誰しもが背負っていた責任だった。

と述べています。その理論はある意味では正しいものの、はたして「氏族長」とは何でしょうか。「家長」とは何が違うのでしょうか。
 そのうえで憲三郎氏によれば、光秀は「土岐氏の盟主」として見られていたとのことですが、はたして何を根拠にそう言えるのでしょうか。

 そもそも、光秀と土岐氏の関係を示す同時代の史料には『立入左京亮入道隆佐記』があり、
  美濃國住人ときの隨分衆也。明智十兵衛尉。
と記されています。そして「隨分衆」とあることから、土岐氏の中でも有力な家柄の出であると考えられてきました。
 しかし筆者の立入宗継がどこまで確証を持っていたかには疑問があります。※

 と言うのも、実際に光秀自身が土岐氏を主張したとする史料はなく、同時代の他の証言※がことごとく「細川藤孝の家臣」であったとしているからです。その点からすれば宗継のそれも「美濃の土岐氏の一族である明智を称する男」程度の認識とみるべきではないでしょうか。※
 なおかつ、当時、土岐氏には美濃を追われ放浪していた土岐頼芸という歴とした宗家筋の人物がおり、その彼に何ら手を差し伸べることのなかった光秀に、人々が「土岐氏の盟主」のような目を向けていたとは到底考えられません

 憲三郎氏は、『惟任退治記』が「愛宕百韻」の光秀の句に対し土岐氏云々の説明をしていないのは、「当時の人々にはそれで十分意味が通じると判断したからである。」と説明されていますが、その傍証としているのがまさに頼芸の境遇と「愛宕百韻」の解釈なのですから、まったく以ってまともな論証にはなっていないと言わざるを得ません。
 そしてなにより『信長(公)記』には、変の前日である六月一日の夜、光秀が謀反を企て重臣たちと談合したとして
  信長を討ち果し、天下の主となるべき調儀を究め、
と記されていることからも、当時の人々が光秀の謀反をそうした目で見ていたことが窺えます。

 しかも、元禄九年(1696)に平戸藩主の松浦鎮信が編纂した『武功雑記』からは、「光秀が細川藤孝の家臣であった」ということが本能寺の変から百年後にまで伝わっていたことが窺え※、そうした事実こそが『惟任退治記』が最も隠蔽したい事であったと考えられます。
 すなわち、如何に藤孝が光秀の謀反とは無関係であったかを喧伝する為に著されたのが『惟任退治記』であったと言えます。


※「明智氏一族宮城家相伝系図書」の正式表題も「清和源姓土岐家随一之連枝明智一族宮城家相伝系図書」であり、
  「明智」という苗字自体が土岐氏の「隨分衆」であることを物語っています。
※『多聞院日記』『フロイス日本史』『老人雑話』
※幕末に編纂された『校合雑記』にも同様なことが記されており、知識人の間においてはなおも連綿として伝わり続けていたと見られます。