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考えてみれば、作曲というものは、誰にでもできることだと思う。
というのは、誰でも、鼻歌で適当にメロディを「出まかせ」みたいな形で口ずさんだ経験はあるのではないかと思うからだ。
鼻歌で、曲を口ずさんだり口笛で吹いたりする時、既成の曲を口ずさまずに、その場の気分で適当にメロディを作って歌ったり吹いたりしたことがある人は、多いのではないか。
その場合、それが既成の曲でなくて、その場で適当に作ったメロディであれば、それも作曲の一部みたいなものだと思う。
そう、誰だって、曲の断片は浮かぶものなのではないだろうか。
曲の断片であっても、それが自分で作ったものであれば、作曲したことになる。
ただ、そこから先に、分岐があるのだと思う。
断片を浮かばせるのは簡単でも、それを曲として最初から最後まできちんと作って構成し、完成まで持っていくか行かないか。その意思があるかどうか。・・・そこが、作曲というものを趣味として認識するかどうかの違い・・そんな気がする。
おそらく、それは作詞にも当てはまるのだろう。
歌詞の断片、言葉の断片は誰にでも浮かぶけど、それを最初から最後まで作って完成させるか、あるいはそのまま放置して、いつしか忘れてしまって完成しないか。その違いが、作詞を趣味と認識するかしないかの違いだと思う。
広げて考えれば、それは何も作詞作曲だけに限らないのだろう。
小説にもあてはまるだろうし、絵にも当てはまるのだろう。そしてその他色々にも。
もちろん、プロにしたって、未完成で終わる作品はあるはず。
だが、完成させた作品がいくつもある中で、未完成のものもある・・・というのは、「浮かんだもの全てが未完成」であるのとは全然違う。
なぜなら、完成させた作品がいくつもある中で未完成のものもある・・というのは、その未完成の作品は、いつか完成させるつもりで、保存してストックにしているだけだったりするから、そこには「完成させる」という意思は存在する。
いつか完成させるという意思があり、それに向かって大なり小なりの準備をしていたり、アンテナを張り巡らせていたりするのであれば、それは趣味と言えるのだと思う。
で、その趣味がどんどん進化して、やがて世間にも受け入れられる作品を作り出せるレベルに達していき、そういう作品をいくつも作ることができるようになり、やがてそれで生活できるようになっていけば、プロになる。
完成させる・・という意思があるかないかが、それを趣味と呼ぶか呼ばないかの分かれ目なのだろうと思う。
完成させるという意思があればこそ、それをより良くしようともするし、浮かんだものを覚えておこうともするし、記録したり、いずれ完成させたら誰かに披露したりしたくもなる。
で、当初は身近な人に完成した作品を披露して、いい感想をもらえば嬉しいし、次も作ろうとか、もっと頑張ろうという気になるし、たとえ良い評価が得られなくても、完成させる喜びや充実感を覚えれば、それは次につながっていく。で、いつか多くの人に気にいってもらえるような作品を作ろうというモチベーションにもなっていく。
私など、作った自作曲の数だけはやたらたくさんあるけど、その中で誰かに気にいってもらえた曲など、ほんの一握り。
でも、たとえ「稀」であっても、その「稀」が嬉しい。
普段中々気にいってもらえなければもらえないほど、その「稀」が訪れた時の喜びも大きい。
だから性懲りもなく続けているのだと思う。
その「稀」が、たった一人であっても、嬉しい。
まあ、その「稀」に辿り着くまでに、実は自分には、誰かに気にいってもらえる曲なんて、作れないんじゃないか・・と落ち込むことも多いんだけど(笑)。