空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑦

沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第5回と第6回④


 「軍に掌握された防衛隊の合流と、厳重に管理され後に追加された手榴弾が持つ意味は、指揮官である赤松大尉による集団自決の命令・意思・許可があったにちがいない」というのが太田氏の主張です。
 今回は上記の主張に説得力があるか、あるいは納得できるものなのかを考察していきたいと思います。

 最初は防衛隊が完全に掌握されていたかとどうかいう観点についてです。まずは太田氏の主張を引用します。


 「防衛隊員が軍の掌握下から完全に離れておれば、個々任意に渡したとも考えられるが、あのとき防衛隊員は軍の完全な掌握下にあったのである」


 集合した住民の中に防衛隊が合流してきたという事実は、多数の住民によって証言されておりますので間違いありません。
 ただし、それが命令なのか自発的なのかははっきりしていません。太田氏は少なくとも自発的ではないという主張をしているということになりますが、一方で下記に掲示する元防衛隊員の証言もあります。


 「第二中隊へ大隊長の命令が伝達されておりました。「敵はA高地まで迫っている。もし、西山陣地へ一五〇メートル以内まで接近するならば、貴隊は、一人十殺の敢闘精神で最後の突撃を敢行せよ」というものでした。その時中隊長は無線機を壊し、酒なのか水なのかわからんが、盃を交わしていました。
二十二歳の富野中隊長はひじょうにうわずった声で「戦闘準備!」と叫んで、しのつく雨の中をマントをかなぐりすて、抜刀して勇んでいました。私は、あわてて家族の方へ帰っていきました。「手榴弾二発ではどうにもならない」、死ぬ時は家族と一緒にというのが率直な気持ちでした。」渡嘉敷村史編纂委員会編『渡嘉敷村史 資料編』(渡嘉敷村 1987年)


 この論争は1985年におこなわれており、上記の証言が採録された「渡嘉敷村史」の発行は1987年ですから、真偽のほどはわかりませんが、1985年当時の太田氏はこのことを知らなかったかもしれません。
 後から出てきた資料で揚げ足取りをする気はありませんが、同時に複数の防衛隊員が自決前に合流した事実など、そういった状況を踏まえて考慮すれば、上記の証言者が唯一あるいは特例的に「家族の方へ帰って」いったとも思えません。同じようにして所属部隊から抜け出し、集合した住民たちと合流した防衛隊員が、絶対にいないとも言い切れないのです。
 また、渡嘉敷島の例ではありませんが、防衛隊の隊員が勝手に部隊から離脱したという事実は、既に「鉄の暴風」にて採録されています。このような状況を考慮すれば、渡嘉敷島でも防衛隊員の離脱は可能性が高いと言えそうです。

 こういった状況をわかりやすく表現すれば、防衛隊員は「自分の意思で持ち場を離れることもできた」ということになります。従って太田氏のいう「掌握された防衛隊」ではない、ということになるのではないでしょうか。つまり赤松大尉の率いていた第三戦隊は、防衛隊、あるいは個々の防衛隊員を完全に把握できていなかった可能性があるということです。

 次は「厳重に管理された手榴弾」についてです。以下に太田氏の主張を引用します。


「防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である。それがわかったら、それこそ大変なことになる。(中略)軍の生命である武器を指揮官の命令なくして処分することが何を意味するか、容易に理解できることである。防衛隊員を通じて手りゅう弾が住民に渡された事実を、赤松が知らなかったはずはない。「知らなかった」とは白々しい言葉である。」


 防衛隊員が2発の手榴弾を支給された事実に関しては、当の防衛隊員や元軍人の証言によって判明しておりますので間違いありません。
 ここで問題になるのは「追加された手榴弾」だと思います。その追加された手榴弾が持つ意味に対して、太田氏は赤松大尉による自決の命令・許可・意思があったとする主張なのですが、そもそもどういった経緯で追加されたということについては全く不明な状態です。「鉄の暴風」も同様です。

 防衛隊員が持ち出したということに関していえば、武器弾薬を取り扱う以上、彼らは持ち出すことが可能な状況だったかもしれません。ただし、勝手に持ち出したかどうかについては、追加された経緯が不明という点が払拭されない限り、判別することができないと思います。

 また、「厳重に管理された」というのは、武器庫のような施設で物理的に「厳重に管理」されたのか、軍規といった精神的な拘束によって「厳重に管理」されたのか、あるいはその両方なのでしょうか。
 逆に「厳重に管理」されていなかったとしたらどうなるでしょうか。
 この時点では「厳重に管理」されていたかどうか不明なのにもかかわらず、太田氏は何の根拠もなく「厳重に管理」していた、と断定しているということが気になります。

 そういったわけですので、太田氏の主張する「赤松大尉による自決命令があった」その根拠は、手榴弾が追加された経緯が全くの不明であるがゆえに決定的ではなく、数ある仮説の中の一つにすぎないということしかいえません。


次回以降に続きます。

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