空と無と仮と

仏教の「空」と「無」と「仮」について

空と無と仮についてですが、

特に空と無といいますと、

なんだか否定的で、

ネガティブな印象を受けますよね。

 

しかし、歴史の教科書に載るような偉いお坊さんの著書を、

丹念に、じっくりと読んでみますと、

その考えは間違っていることに気づきました。

 

もちろん、全てを読み、全てを理解したぞ!

ということではございません。 

 

空はカラッポがゆえに何もないのだから、

それを満たすことを心掛けよ、

といった感じです。

 

ただし、物を満たすという物欲ではありません。

物もつまりは空であり無なのですから、

持っていようがいまいが同じことなのです。

 

そんな物欲よりも、

安らぎといったような心を満たすこと、

ということですね。

何を満たすかはその人次第です。

 

無というのは、

無いものが有り、有るものが無いという、

一見堂々巡りな印象です。

 

しかし無限が有限であり、有限が無限であることは、

無と有は表裏一体、つまりコインなのです。

もっとわかりやすく言えば、

コインと同じ「もの」であり、コインと同じ「こと」なのです。

 

これは全てにおいて有限の中にも、

無限の可能性を秘めている、

ということなんだと思いました。

無限大に広がるということです。

 

そして仮というのは、

いまは仮の姿なのだから、

本来の姿になるように自らを磨け、

ということになるのかもしれません。

本来の姿というのは、

空と無を理解し、それを実践するということです。

 

空海はそれをマンダラで表現していると思います。

あれは何を書いているのか、

実は今でもサッパリわからないのですが、

空と無と仮という、

自らを満たす無限の可能性を、

いわば終着駅のない鉄道の路線図みたいな感じで、

表現しているのではないかな?

 

さらに法然の南無阿弥陀仏や、

親鸞が唱えた悪人正機は、

その路線図の一部だけを説いて、

一般庶民にもやさしくわかりやすく、

そして貴賤の隔たりもないことまでも示してくれた、

というものかもしれません。

 

また最澄や道元は便利な鉄道に乗ることをせず、

ひたすら路線図にある駅を、

ひたすらひたすら歩くという、

自らの実践か、あるいは挑戦を示しているような気がしてなりません。

 

無限の路線図は仏教を極める者が目指すもの、

有限の路線図はその一部でありますから、

仏教を極めることができない者が目指すもの、

ということもいえるかもしれません。

 

そして無と有は同じことであるから、

それぞれの者は「同じもの」あるいは「同じこと」を、

それぞれ目指しているということです。

そこに優劣といったものは全くございません。

 

したがって、

「修業をしたから私のほうが優れている」とか、

「いっぱい寄付をしたから私のほうが信心深いぞ」などは、

それを考えただけで、仏教の教えを否定してしまうことになり、

その逆もまた同じく仏教を否定してしまうことになるのです。

 

 こんな終着駅のない旅ですが、

みんなやり方や考え方が違っても、

同じ方向に進んでいるのだと思います。

 

以上、学術研究全く無視の、

仏教の考え方に対する超個人的な意見でした。

 

 

「そんなことは言っていないぞ!」

「そんなことはどこにも書いてないぞ!」

という方もいらっしゃるかもしれませんが、

仏教にはお釈迦様が説いていないことまで、

お釈迦様の教えになっているのですから…

 

仏教の素晴らしいことの一つに、

その柔軟な寛容性があることだと思います。

特に日本では、そういった傾向が非常に強いと思います。

 

森羅万象、

全てにおいて仏様が宿っているということは、

あまねく分け隔たりがなくということでもあり、

誰もが平等なのですから、

出家もせず、得度もせず、修行もしない、

マンダラの意味もろくに理解していない、

こんな煩悩ありまくりの、この超個人的な意見にも、

 

お釈迦様は微笑んでくれるかもしれません。


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